第100話 【「もう行くね」仮面が砕けた喫茶店】
あの熱愛報道と、「ごめん、今忙しいから。後にして」というあまりにも冷たいLINEから数日後。
沈黙を守り続けていた英理から、ポツリとメッセージが届いた。
『今日の16時、あの喫茶店に来れる?』
理由も謝罪も、絵文字すらひとつもないその短文に胸を突かれながらも、凪はすがるような思いで指定された老舗の喫茶店へと向かった。
待ち合わせの三十分以上前には店に入り、奥の角席で待っていた。
約束の時間を三十分ほど過ぎた頃、静かに店のドアが開いた。
深めに被った黒いハットに大きなサングラス。トレンチコートの襟を立てた女性が、周囲を一切気にする素振りもなく、まっすぐに凪の席へと歩み寄ってくる。
「ごめんね、待たせた。撮影が少し長引いちゃって」
「ううん、全然。俺も今来たところやから」
凪はとっさに嘘をつき、努めて明るい声で笑った。
「……何か飲む? アイスティーとか、好きやったやろ」
「ううん、うちは大丈夫。あんまり時間もないし……すぐ出なきゃいけないから」
「……そっか。相変わらず忙しそうやな。身体、大丈夫か? ちゃんと食べてるん?」
「うん。なんとかやってるよ。ありがとう」
英理は淡々と答えた。
凪が次の言葉を探そうとしたその時、英理は静かに凪の目を見つめ、自分から本題を切り出した。
「……凪くん。今日呼んだのはね、あのニュースのこと……ちゃんと自分の口から話しておきたかったからなんよ」
「……ニュースって……」
「棟方さんとの報道。……あれね、本当のことだよ」
「ほんま……なんか。でも、なんで……」
英理は一切目を逸らさずに言った。
「棟方さんは、私と同じ世界で戦ってる人。彼といる時が、今の私には一番息がしやすいんよ」
「……俺じゃ、」
「凪くんのこと、ほんまに好きだったし、一緒にいる時間はすごく楽しかったよ」
凪の言葉を遮るように、英理は静かに、けれどはっきりと告げた。
「……でもね、今の私の思いは、あの頃の感情とはもう違うんよ」
「凪くんの優しさが、いつからか私には逃げ場のない『義務』みたいに重くなっちゃってた。私はもう、昔のままの守られるだけの女の子じゃないんよ」
「っ……英理……」
何かを言えば、二人の関係が本当に終わってしまう。
凪はただ、彼女を見つめることしかできなかった。
「凪くん……今まで、本当にありがとう」
英理は手元のアナログ時計に視線を落とした。
冷たい言葉を口にしていた英理だったが、目の前で傷ついている凪の姿を見ているうちに、胸の奥が痛んだ。
本当は、別れを告げることなんて辛かった。
(駄目……ここで崩れたら……)
必死に息を呑み、感情を堪えようとしたものの、抑えきれなくなった涙が一筋、二筋と綺麗な頬を滑り落ちる。
「ごめん……ごめんね、凪くん……っ。今から撮影、だから……私、もう行くね……っ」
英理は涙で濡れた顔を隠すようにサングラスをかけ直し、震える手でバッグを強く握りしめて席を立った。
一度も振り返ることなく、喫茶店を後にする。
凪は、ただその背中を見送ることしかできなかった。
(……終わったんや)
凪は、英理が出ていったドアを見つめた。
(俺、ずっと……お前と一緒におれると思っとった)
(東京に来ても、どれだけ忙しくなっても……最後は、また俺のところに帰ってきてくれるって)
(……そう、勝手に思っとったんや)
凪は、ゆっくりと視線を落とした。
(でも……もう、お前が俺のところに帰ってくることは、ないんやな)
残されたテーブルの上で、氷の溶けきったアイスコーヒーだけが、ぬるい汗をかいていた。




