第1話 プロローグ【凪の坂道】
2005年年、初夏。
長崎市三原の朝の空気は、透き通るほど澄んでいた。
三原高校1年
神之浦 英理にとって、その坂道を自転車で駆け下りる時間は、一日の中で唯一「無敵」になれる瞬間。
ペダルを漕ぐ足が軽くなり、ギアが一段上がれば、山肌にひしめく家々の向こうに長崎の青い港が一瞬だけ覗く。
景色は一気に加速していく。
(今日は、何かいいことがありそう)
そんな根拠のない予感を抱きながら、彼女はブレーキから指を離す。
風が鼓膜を震わせ、景色が線となって後ろへ流れていく。
♢
一方、日々繰り返される味気ないルーチンに嫌気がさし、今朝は気まぐれに一本隣の、普段は通らない坂の中腹を歩いていた諏佐 凪。
鳴滝高校2年
ポケットに手を突っ込み、見慣れないアスファルトの亀裂を数えながら歩いていた彼は、坂の上から響いてきた切迫した悲鳴と異質な音に、ハッと視線を上げた。
パンッ! と甲高い破裂音が響いた直後、ガタガタと悲鳴を上げる金属音。
「えっ、嘘っ……なにこれ!? ブレーキ効かんっ……どいて、危なーいっ!! きゃあぁぁぁっ!?」
自転車の後輪タイヤが突然パンクし、坂道の勢いそのままに大きくバランスを崩した少女。
制御を失った自転車は、路肩に乗り上げそのまま街路樹のツツジをガシャガシャとなぎ倒しながら、猛スピードのまま交差点の角に立つ凪の方へとまっすぐ突進してくる。
(……まじか)
目の前に迫る光景に、思わず心の中で呟く凪。
次の瞬間、なぎ倒されたツツジの反動と衝撃で自転車が激しく傾き、少女の体が宙へとふわりと投げ出された。
投げ出された彼女の軌道の先に、凪はいた。
逃げる選択肢はなかった。一歩踏み出し、重心をぐっと低く構える。
(正面から受けるな。勢いを殺せ!)
宙を舞う英理の上半身を力強く引き寄せると、彼女の頭を自らの胸元に埋めるようにしっかりと抱き込んだ。
そのまま自分の体をクッションにして背中から倒れ込み、二人まとめて路肩のツツジの生け垣の中へと深くもつれ込んでいく。
バサバサッ! と密集した枝葉が悲鳴を上げてしなり、二人の凄まじい慣性を力任せに受け止めた。
背中で枝が何本も折れる感触と、むせるような葉の青臭い匂い。
衝撃で舞い上がった、紅色の花びらが、静止した二人の上にハラハラと静かに降り積もっていく。
「ぐあっ!」
肺から空気が勢いよく吐き出される。
背中を襲う激しい衝撃と、腕に走る鈍い痛み。
けれど、ぎゅっと腕の中で固まっている少女の鼓動が、伝わってきた。
二人はツツジの生け垣の中で重なったまま、しばらくぴくりとも動くことができない。
凪は自分の体の激痛を後回しにし、腕の中の英理の様子を覗き込んだ。
「おい。大丈夫か、どこか、怪我してないか…?」
痛みのせいで少し掠れ、途切れ途切れになった声で、低く優しく問いかける。
胸元に顔をうずめていた英理は、ゆっくりと顔を上げた。
至近距離にある凪の顔。
痛みに耐えるようにわずかに眉根を寄せながらも、自分を真っ直ぐに、心から心配そうに見つめてくるその瞳。
自分の体を張って守ってくれた凪の顔を、英理はただただ言葉を失ったように見つめていた。




