前編・・・・・警鐘と忠告≦欲
連日の残業と上司からの注意で達也の頭の中は、いつも灰色に染まり、抜け出せずに過ごしていた。
数字に追われ、満員電車に揺られ、家に帰れば、泥のように眠る。そんな生活を何年も続けているうちに自分が何のために生きているのかさえ、わからなくなっていた。
週末の朝、達也は、車を走らせた。目的の場所は以前ネットの掲示板で、"よく釣れる川"だ。
正確な地名さえ記載されていない、その場所は地図アプリの隙間のような山奥の谷底に位置していた。
日常のストレスを忘れるため、解消するためだけに、達也は釣セットを助手席に乗せて、やってきたのだ。
車を降り、湿った草むらを押し分けて進むと、河原に出た。
山の影に隠れたその川は、驚くほど透明度があり、水面が鏡のように木々を映し出していた。
風もなく鳥の羽ばたく音さえ聞こえない、鎮まりかえった空気が、支配していた。
「こんな場所に、ホントに魚がいるのか?」と達也が独り言をこぼしながら、餌を先端に付け準備していた。
背後でガサガサと物音が聞こえた。
振り返ると一人の老人が立っていた。深く被った麦わら帽子の隙間から白髪と落ち込んだ目が覗いていた。
古びた作業着をまとい、竹竿を一本持っていた。
老人は達也の顔をじっと見て、細い指で川を差し、
「ここはよく釣れるが、欲を出すのはやめなさい」
と告げ、掠れたその声は達也の耳の奥に刻みこまれるような感じだった。
達也は愛想笑いを浮かべ、適当に頷いた。
(食べれる分だけにしますよ・・・)
そう心の中で、つぶやきながら、達也は老人に背を向けた。
会社でも家でも指図され、せっかくの休日まで見知らぬ老人に口出しされたことに苛立ちを湧かせていた。
準備完了で、第一投目を川へ向けて振り降ろした
浮きが水面に浮かび、波紋が広がった。カツンと手元に力が伝わって、浮きは水中に引き込まれる。
驚く間もなく、竿を引き上げ立てると、確かな手ごたえ、格闘する間もなく、銀色の魚が釣り上げられた。
20~30センチくらいの見事なヤマメだ。
「うっそぉーーーーっ、投げて、数秒じゃん・・・」
達也の興奮に火が着いていた。針を外しクーラーボックスへ。
スグに次を投げ、数秒で釣り上げ、それを繰り返した。
大物が食いついてくる、ヤマメ・イワナ・ニジマス・本来なら警戒心の強いはずで、簡単には釣れない。狂ったように、釣れてしまうのだ。
「なんじゃ、これは・・・、すごいけど・・・」
思わず達也は頬をつねったり、叩いたりして、現実か、幻か、夢かを確かめた。
仕事での敗北感・疲労感が魚が釣りあがるたび吹き飛んでいく気がした。
達也は夢中で竿を振り続けた。
一時間も経たないうちに、クーラーボックスは魚で埋まっていた。
保冷剤を追加しようと、クーラーボックスの蓋を開けたとき、中で重なり合っている魚たちが、暴れていない、ピチピチ跳ねていない、ただ口をパクパク動かしている様子に、達也はゾクッとさせた。
魚の目は本来ガラス玉のような目なのに、黒目で、まるで人間の目を縮小したように、見えた。
(なんじゃこれぇーーっ)
怯んだ達也の視線と一番上のヤマメの視線がぶつかった。ヤマメはじっーとたつやのことを、見つめている。
不気味な嫌悪感に圧力を感じ、一匹のニジマスが大きく口を開けた喉の奥から針でもない、餌でもない何かが見える。
達也は恐る恐る震える指先で引き抜いた。
水なのか唾液なのか、どろどろになった紙きれで、慎重に広げると、
『欲張るな』と・・・。
達也は叫び声をあげそうになり、紙きれを投げ捨てた。
(あの爺さんのイタズラか? いや、でも、魚の口からだから、イタズラなんて、ありえん・・・・っ)
パニックになりかけた頭で、老人の言葉が、甦ってきた。振り返り、辺りを見回したけど、老人の姿はなかった、ただ、老人が被っていたはずの"麦わら帽子"だけが、ぽつりと草むらに残されていた。
(早く帰らなきゃ・・・、離れなきゃ・・・)
心の焦りが、警鐘をならしていた。
素早く道具を片付けクーラーボックスの蓋を閉めようとしたとき、川の水面が揺れたのが目に飛び込んできた。
(大きそうな魚だな、最後に一匹だけ)
老人の警告、紙きれの恐怖は、脳裏の猛烈な【欲】に引きずられ、自分ではコントロールできない衝動に支配されていた。
そして、気持ちとは裏腹に、最後の一投を放ってしまったのだった。




