帰るか、帰らないか
自分のデスクに戻って、自席に腰を下ろすと、体が鉛のように椅子に沈みこむのがわかった。ああ。もう立ちたくない。というか、もう何もしたくない。デスクにほほづえをついたら、はああ、と重いため息がもれた。無の時間が流れる。まずい、やるべきことをやらなければ、と思い直し、力の入らない腕でデスク上の資料をめくった。明日の仕事までに、この内容を頭に入れなければいけない。頭から読み始めるものの、文字の羅列がまったく認識できない……。まずいな…。もう一回、頭から気合いを入れて……。何度か繰り返したところで、後ろから声がかかった。
「ネオ! これ、迷ってるんだけど、ネオだったらどう思う?」
振り向くと、ケイ先輩が色違いのTシャツを左右の手に持ってかかげ、小首をかしげていた。相変わらず、仕草がかわいい人だ。男で自然にこの仕草ができるんだから、男女ともにファンが多いのも頷ける。
体はしんどいがこれも仕事だと思い、回らない頭をなんとか動かす。
「来週のイベントで使うんでしたっけ? そうですね……。先輩が着るなら、薄い緑の方がいいかな。確か、商品もさわやかなイメージでしたよね」
「やっぱりネオもそう思う? そう。商品のイメージは……」
あいづちを打ちながら、笑顔を意識する。気力で保たないと、ちゃんと座っていられない気がするから。求められる点に、アドバイスという体の先輩が求めている返答を答えていく。センスのいいケイ先輩のことだ。たぶん、迷っているだけで、ほとんど自分の中で決めているはず。そしてそれはきっと正解で間違いないだろう。もちろん、何かおかしいところがあれば、言っておかないと。ふわふわと考えていると、オフィスのドアが開いた。
あ、ターとオーか、と横目で認識したら、ぼくを見て、ターの視線が剣のように鋭くなったのがわかった。ん? ぼく何かしたっけ? ターがそのまますっとこちらに近づいてきた。
「ケイ先輩、お疲れさまです。何かあったんですか?」
ターが先ほどの表情とはうってかわって怖いほどの笑顔で、ケイ先輩へ話かけている。後ろをにやにやしたオーが通り過ぎていった。
「来週のイベントについて、ネオに相談してたんだ。ネオのセンス、良いからね。クライアントからの評判もいいからさ。意見聞きたくて」
「ああ。来週のイベント、準備佳境ですよね。何か手伝いますか?」
「今のところ、大丈夫だよ、ター。もし手が必要だったら、またお願いするね。ネオ、ありがとう。助かったよ」
ケイ先輩はぼくの肩に手を置いて、にっこりと微笑んで、去っていった。
「なあ、お前、なんで電話でなかったの?」
ザ・不機嫌な声が上からふってきた。
「電話? 何の話?」
デスク上に置かれたスマホを手にとってみると、ターから着信があったことに気づく。
「ごめん。ケイ先輩と話してて、気づかなかったみたい。何かあった?」
「いや……。お前、もう帰れるのか?」
真剣な顔で覗き込まれて、びっくりする。
「これ、明日までに覚えなきゃいけないんだけど、今日はもう帰ろうかなって思っていたとこ」
「……じゃあ、一緒に帰ろうぜ。俺ももう帰るから」
「ぼく、今日、車で来ちゃったから、じゃあ……乗ってく?」
「ああ」
そういって、ターはぼくが帰る支度をするのを後ろからじっと見ていた。




