P-193 出産の兆し
簡易型の水中銃を手に甲板からダイブする。
雨季ではあるが、今のところ雨の降る様子はない。1日持ってくれれば良いんだが……。
サンゴの穴の急峻な崖を巡りながら獲物を探すと、さっそく大きなブラドと俺の目が合った。
水中銃を持つ左手を伸ばして、ゆっくりと近づき1mほどの距離でトリガーを引く。
水中銃の銃身に結んだ組紐を急いで引いて、ブラドがサンゴの奥に潜るのを何とか阻止できた。
暴れるブラドを気にせずに、水面に浮上してシュノーケルの海水を噴き出して新鮮な空気を吸い込む。
辺りを見渡すと、浮上した俺に近づいてくるカヌーが見えた。
すぐ近くにカヌーを寄せたエメルちゃんに獲物を渡して、次の獲物を探す。
3匹目の獲物を突いて浮上したところで一休み。カヌーに付けたアウトリガーの浮体に腰を下ろす。
60cmを超えるバッシェにエメルちゃんがちょっと驚いている。
「もう2匹突いたらトーレさんと交代にゃ。船尾で釣りをしてると言ってたけど、釣れたかにゃ?」
「案外俺より釣り上げてるんじゃないかな。朝は良い天気だったけど、やはり雨季なんだねぇ」
西の空が怪しい感じだ。ザバンなら急いで引き上げないといけないだろうけど、このカヌーは水が入るような場所は無いからなぁ。
たまに塗料を塗っているから、プラスチック製だけど未だにひび割れ1つない。このまま長く使えそうだな。
お茶を飲み終えると、再び素潜り漁を開始する。
7匹目のバヌトスを突いてカタマランに戻ると、西に見えていた島が豪雨のカーテンで姿を消していた。
今夜は夜釣りになるだろうから、カヌーを船首方向に繋ぐ。屋根を通って船尾歩いていると直ぐそこまで豪雨がやってきている。
急いで甲板に下りてタープがピンと張るようにロープを直していると、豪雨が襲ってきた。
ザァーっという音が辺りを包む。
僚船との距離は昨夜と同じだから、このまま動かなければ問題はない。
天然の蒸留水だからなぁ。タープで集められた雨水を運搬容器にため込んでおく。ついでに桶も出しておいた。
釣り竿や仕掛けの塩抜きに丁度良い。
「だいぶ濡れたにゃ。早く着替えると良いにゃ」
「体の塩を洗い流してからにします。夕暮れ前に病んでくれれば良いんですが……」
「まだ降ってるなら、タープの中から釣りをすれば良いにゃ。大物を取り込めるように水着を着てれば問題ないにゃ」
まあ、そうなるよなぁ。
でもタープから出るのは俺だけで良いだろう。
お茶を戴いて、数十m先も見えない海面を見ながらパイプを使う。
エメルちゃんはトーレさんと一緒に昼食の準備を始めたようだ。タツミちゃんが団子を捏ねているから、団子スープになるのかな?
昼食と夕食を兼ねた食事をして、夜釣りに備える感じだな。
「雨季の漁だから、あまり無理はできないにゃ。屋根の下から竿を出せば十分にゃ」
「そうですね。でも延縄も流してみます船尾から潮流にに押せて流せますから」
それだけでもずぶ濡れになってしまうけど、麦藁帽子のような帽子を被れば結構しのげるんだよね。
濡れても良いように、水着のままだからなぁ。今日の漁が終わった時に着替えれば十分だ。
海水と違って、真水だからね。強めのシャワーだと思えばあきらめもつく。
まだ夕暮れには程遠い時間だけど、周囲が暗くなってきた。
ランタンに光球を入れて、甲板と帆柱の上に掲げる。
甲板のランタンは、左右に1つずつだから夜はこれで十分に漁ができる。
夕食は、魚肉団子と米団子の入ったスープだった。
少しスープが辛めなんだが、それよりは酸味があるのが気になるところだ。小さなミカンのような柑橘類の青い実なんだけど、熟したものは見たことがない。
このスープをご飯に掛けても美味しいんだよなぁ。
「延縄を使うのかにゃ?」
「エメルちゃん達は舷側で竿を出してくれないか? 船尾から流してみるよ。何となく大きいのが掛かる気がするんだよなぁ」
タツミちゃん達が釣りを始めるのは、食事の後片付けが済んでからだろう。すでに竿を出しておいたから慌てなくてもだいじょうぶだ。
食事が終わると、量の道具が入った倉庫から延縄の仕掛けと、目印の浮きを2本出して準備を始める。
延縄仕掛けの両端に浮きを取り付けて、ザルの周囲に刺してある15本の釣り針にカマルの切り身をチョン掛けする。
準備ができたところで、浮きを投げ入れるとゆっくりと西に流れていく。
仕掛けを結んだ組紐が伸びていくから、釣り針が絡まないように仕掛けを投げ入れていった。
最後に浮きを投げ入れると、組紐の末端をしっかりとカタマランの船尾に結わえておく。
後は、夜釣りを終えるころに引き上げれば良いだけだ。
後ろで何かが刎ねる音が聞こえてきた。
振り返ると、トーレさんが棍棒を獲物に振るっている最中だった。
早々と釣り上げたみたいだ。30cmを少し超えたブラドのようだ。
さて俺も頑張らないと……。
夜釣りを始めて2時間ほど経ったところで、皆でコーヒーを頂く。
いつもはお茶なんだけど、トーレさんが俺達がコーヒーを作れることを覚えていたみたいだ。
パーコレーターでタツミちゃんが作ってくれたけど、久ぶりに飲む甘いコーヒーは格別だ。海上では結構喉が渇くんだよなぁ。
「不思議な味にゃ。でも甘さが丁度良いにゃ」
「ナツミ様が『甘いものは正義!』と、よく言ってたと母さんが教えてくれたにゃ」
ナツミさんだからだろうな。かなり力説してたんだろう。
変な正義感が、ネコ族に浸透してないかと心配になってきた。
一服を終えると、再び夜釣りが始まる。
今夜はブラドが多いな。たまにバヌトスが混じる感じだ。
3人で20匹以上釣り上げたところで竿を畳む。
トーレさん達が今日の獲物を捌き始めたところで、延縄を引き上げ始める。
ウィ~ン……、とロクロが回り始めたところでロクロに組紐を1回転させて手元を強く引く。引く強さで巻き上下の強弱を調整できるのが良いところだ。
先ずは浮きを回収して、枝張りが等間隔に並んだ延縄をゆっくりと引き上げる。
直ぐに鈍い引きが伝わってきたから、海面を覗き込んで魚影を探す。
ハリスをグイグイと引いているな。
エメルちゃんを呼んで、タモを準備してもらう。
海面に下ろされたタモ網にハリスを手に取って誘導すると、エメルちゃんが掛け声を上げて甲板に引き上げた。
「グルリンにゃ! 幸先が良いにゃ。全部グルリンならもっと良いにゃ」
棍棒でポカリとやって、トーレさんのところに持って行ってくれた。
確かに全部がグルリンなら最高なんだけどねぇ……。
延縄の枝針は15本。その内の6本にグルリンが掛かっていたのには驚いた。
エメルちゃん言うように、全部がグルリンだったからなぁ。
トーレさんも初めて見ると、目を丸くしているぐらいだ。
まぁ、とりあえずグルリン高値で売ることができる。いつの間にか止んでいた豪雨で得た真水を使って竿と仕掛けの塩を洗い流せば俺の仕事は終了だ。
洗った竿や銛を乾いた布で拭き取りながら仕舞い込んでおく。
俺の仕事が終わるころには、今日の獲物も捌き終えたようだ。保冷庫の蓋を閉める前にエメルちゃんが氷を追加していた。
魔法で氷ができるんだから凄いところだよなぁ。
いつもながら、俺がかつて暮らしていた日本とは異なる世界だと感じてしまう。
「ご苦労様にゃ」
トーレさんがワインの入ったカップを渡してくれた。
カップに半分ほどのワインだが、毎日飲むならこれぐらいが適量だろう。駆り出すサン達のように、ココナッツの殻で作ったカップにココナッツ酒を3杯は飲みすぎだと思うんだよなぁ。
もっとも、ココナッツジュースで薄めてあるだろうから、実質の蒸留酒は少ないんだろうけどね。
海に浮かぶ僚船の明りを見ながらq、パイプを使う。
タツミちゃん達はすでに屋形の中で眠りに着いたようだ。
向こうの船との距離は500m近くあるかもしれないな。船の形は全く見えずに、ランタンの明りだけが星空と同じように浮かんでいる。
幻想的な光景とは、このような風景を言うのかもしれない。
イラストでいろいろな異世界の光景を見たことがあるけど、あれを描いたイラストレーターに今の光景を見せてあげたいものだ。
ふと、奇妙な光に気が付いた。
遠くの僚船の掲げるランタンが見えているのかと思っていたのだが、あの光は、どう見ても海の中からじゃないのか?
ランタンの明りが光る点のように見えるのに対して、明らかにぼんやりとした光の塊のように見える。
それに……、明らかに脈動しているようだ。
脈動する光源……。かなり離れているから現状では問題はないのだろうが、少し様子を見ていた方が良いのかもしれない。
バタン! と屋形の扉が開きエメルちゃんが飛び出してきた。
「生まれるにゃ! 急いでお湯を沸かすにゃ」
思わず立ち上がって、屋形の中に駆け込んだ。
う~ん、う~んとタツミちゃんが苦しそうな声を上げて寝ている。すぐ隣に、トーレさんが優しい笑顔を見せながら小さな声で励ましていた。
「急に産気付いたにゃ。早く生まれる方が良さんが軽く済むから安心するにゃ。とりあえず鍋に1杯お湯を沸かしておくにゃ」
「俺に手伝えるとも思えません。よろしくお願いします」
タツミちゃんの手をしっかり握って、「頑張れよ!」と伝えると、苦しそうな表情を和らげて頷いてくれた。
屋形を出ると、カマドに付いていたエメルちゃんと交代してあげる。
エメルちゃんだって、タツミちゃんが心配なんだろう。それにトーレさんの手伝いだってできそうだからね。
どれぐらいで生まれるんだろう?
すでに深夜を過ぎているようだけど、お産は長い人は半日程掛かると母さんが言ってたなぁ。
俺の場合は病院について1時間もしないで生まれたと言っていた。
「渚の時は軽かったわ。これならたくさん産めると思ったんだけど、妹の時には半日近く苦しんだのよ」
お産はいつも同じではないようだ。
タツミちゃんの場合はどうなんだろう……。
ふと、先ほどの光が気になって視線を向ける。
近づいていないか? 光もかなり明るくなった気がする。
オレンジ色に見えるんだが、海中からの光のようだからなぁ。ひょっとして龍神なんだろうか?
チョウチンアンコウのような魚がいないとも限らないけど、龍神は脈動する海中の光としてネコ族の人達に伝えられている。
凶兆でないことを祈るばかりだ。




