P-096 本格的な調査には程遠い
バゼルさん達と2回ほど、素潜り漁に行くと、だんだんと月が丸くなってきた。
いよいよ、次の調査に向かうことになる。
タツミちゃん達はトーレさんと一緒にたくさんの食料を買い込んできたし、俺も水をたっぷり運び込んだ。
甲板の上にも、水汲み用の真鍮のカメ2個をロープで結わえてある。
一番肝心な三角関数表は、俺の荷物には入っていなかった。
ダメ元で商船を訪ねると、店員が航海長の手帳を見せてくれた。何やらいろいろと航海の心得や、海図の見方なんかが書かれていたけど、その末尾に付いていた表は、まぎれもなく三角関数表そのものだった。
「売って頂くわけにはいかないでしょうか?」
「船員学園時代のものだそうです。思い出の品だと言ってましたが、欲しいのなら手渡して欲しいとのことです。お代はいりませんよ。
その代わりと言っては何ですが、これはどうでしょうか?」
テーブルの上にヒョイと乗せられたものは……、計算尺じゃないか!
三角関数表をいちいち調べて計算するのではなく、簡易でも良いから素早くということなんだろう。
真鍮製の定規の真ん中が左右に動く造りだ。手に取ってみると、裏にもメモリがあるな。
確か使い方は……、掛け算と割り算はこれで良いな。肝心の三角関数は裏を使うようだ。30度と60度で目盛りを合わせて裏の数値を読み取り、手帳の表で値を確認する。
「使ったことがあるのですか? 私にはさっぱり何ですが」
「親父に教えられてね。定規で計算できるのが面白かったけど、取引には使えないだろうね。数字の有効桁数が上2桁ぐらいしかないんだ。だけど、数表を使うよりは素早く計算できるから便利なんだよ」
俺が使えるのを不思議そうな目で見ていた店員だったが、思い出したように口を開いた。
「その定規を買っていただくわけにはいきませんか。代価は銀貨3枚になります」
「ありがたく買わせてもらうよ。これで少しは島の地図の精度を上げられる。見ての通り、桟橋の長さもまちまちだし、間隔だっていい加減なところがあるからねぇ」
小さく頷いているのは、船長辺りから同じような愚痴を聞かされたのかもしれない。
俺達にとっては問題はないんだが、商船のように高い場所から入り江を眺めて桟橋に接岸するとなると、そんな雑然としたところが気になるのかもしれないな。
再度お礼を言って代金を支払い、下の店でタバコを包み買い込んだ。
酒はタツミちゃん達がコーヒーと一緒に買ってくれたから、これで準備はできたに違いない。
かなりいろいろと買い込んだから、手持ちの銀貨が残り1枚になってしまった。
とりあえず欲しいものは無いからだいじょうぶだろう。
トリマランに戻ったところで、夕食前にオカズを釣ろうと竿を取り出した。
釣り上げたカマルの何匹かは、航海途中の釣りの餌にもなるだろう。
最終目的地の海域には、全く魚がいなかったが、途中なら夕食を彩るぐらいはできるはずだ。
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満月となった翌日に、トリマランは氏族の島を出航した。
今回はバゼルさん達が一緒だから、船の操船はトーレさん達も加わることになる。
タツミちゃん達も少しは楽になるはずだ。
今のところはトーレさんが操船しているみたいだな。隣にエメルちゃんが海図の確認をしているはずだ。
桟橋からの離岸からトーレさんが行っているんだけど、船に搭載した前後の横向きのスラスターを上手く使っているんだから驚きだ。
「まったく便利に動けるにゃ。次の船には前だけでも付けて欲しいにゃ」
サディさんがバゼルさんにお願いしてるけど、さてどうなるんだろう?
漁は男性中心で操船は女性の役割という関係があるからなぁ。妻の不満の解消は夫の務めでもあるらしい。
恨めしそうな表情で俺に顔を向けるバゼルさんだけど、操船に不慣れなタツミちゃんやエメルちゃんのためで会ったことを忘れないで欲しいな。
「ところで、だいぶ変わった品を買い込んだらしいが、何を始めるつもりだ?」
バゼルさんの視線を辿ると、屋根裏から突き出した3脚があった。確かに見たことがない代物には違いない。
「あれは角度と方向を計る機械なんです。俺が見た幻影では島が盛り上がっていきましたからね。事前に島の高さをいくつか計っておこうと思った次第です」
「いろいろと考えるのだな。俺は魚のいない海の広がりが気になる。そうなると島をいくつか巡ることになるのだが……」
島と島を結んだ線を引き、三角形を作り出す。その中に潜って状況を確認することになるんじゃないかな。
島の位置は、コンパスで大まかに分かるはずだ。他の島との位置関係を調べれば縮尺図上で表すことも可能だろう。
メモ用紙に、そのやり方を描いて説明すると、バゼルさんが笑みを浮かべて頷いてくれた。
「そんな方法で島を特定し、間の海を調べれば良いのだな」
「とはいえ、魚が全くいないというのは潜れば分かりますが、魚が普通にいるのと少ないの区別はできるんですか?」
「俺の判断だな。海中をじっくりと調べて判断するほかに手はないだろうな」
長年漁で培った勘というやつかな?
だけど、それも立派な方法に違いない。何といっても他に確かめる手段がないんだからねぇ。
ロウソク岩がそびえる島が目印の海域までの海図はタツミちゃん達が作ってあるから、夜遅くまでトリマランを走らせることができる。
島と島の中間地帯を進めば、サンゴ礁に衝突する危険も無いとのことだ。そんなことだから、2ノッチで6日掛かる航路を4日半で終わらせることができた。
昼過ぎに見えた島の頂き付近に、ロウソクのように立っている岩を面白そうにバゼルさん達が眺めている。
「確かにロウソクのように見えるな。あの島が左に見えた付近が問題の海だな?」
「そうです。水深はおよそ15FM(4.5m)ほどで、東に見える大きな島に向かって溝がいくつも走っています」
ゆっくりとトリマランを進めると、泡が海面に現れては消えるのが見えた。
この前よりも泡が多くなってないか?
「泡が前より増えてるにゃ」
「そうにゃ。前はたまにしか上がってなかったにゃ」
タツミちゃんとエメルちゃんの話し声が屋形の屋根から聞こえてきた。
俺と同じ思いだとすれば、事態は進行しているってことになりそうだ。
「確かに泡があるようだ。素潜りでたまに見ることはあるが、これは少し多いようだな。ナギサが見たのはこの光景なのか?」
「いえ、もっとすごい量です。まるで海が煮え立つような光景でした。そんな海の向こうで、あの島が盛り上がり始めたんです」
目に見える盛り上がり方だった。
だが現在はそんなことはない。 穏やかな海域の向こうに静かに鎮座している。
「タツミちゃん。この前と同じ辺りで投錨するよ」
「分かったにゃ。もう少し東に向かうにゃ」
日が傾く前に、アンカーを投げ入れる。
「オカズを釣らないのかにゃ?」
何時もならオカズ用の竿を取りだす俺が、そんな素振りも見せないのが不思議だったのかもしれない。サディさんが問い掛けてきた。
「全く魚がいないんですよ。東の島の周辺を潜って調べたんですが」
「どれ、俺もそれを確認して来るか」
バゼルさんが素潜り支度をするのを見て、俺も慌てて装備を整えた。やはり自分の目で確認しておいた方が良いからね。それに泡の量が多くなっているようだから、泡の出口も見ることができるかもしれない。
船尾の扉を開いてハシゴを海中に下すと、甲板から海に飛び込んだ。
直ぐ後から、水音が聞こえてきたから、バゼルさんも飛び込んだに違いない。
海中は、どこまでも見通せるほどに澄んでいる。
やはり、魚は小魚さえどこにもいないようだ。
一度海面に上がって息を整える。
今度は海底の岩を入念に探ってみた。
ごつごつした岩だが、洗濯板のように東に切れ目が延びている。
少し深い場所があったので、一度海面で息を整える。
周囲の岩よりも2m程深そうだ……。その岩の一部にあったのは、サンゴじゃないか!
改めて深場を見て回ると、いくつか岩からサンゴが突き出していた。
ひょっとして、海底が盛り上がってサンゴを押しつぶしたのかもしれない。
岩だらけなら餌もないだろうし、小魚だって近寄らないんだろう。それに、微妙に海水中に魚が嫌う成分が溶け出しているのかもしれない。
やはり火山活動のような動きがある、ってことなんだろうな。
近くに泡が浮かんできた。
下を見ると、新たな泡が浮かんでくる。
どこから出てくるんだ? と岩の割れ目を眺めていると、やはり洗濯板の谷間の部分からだった。
谷間にクラックが走っている。
そのクラックから泡が出ているのがわかった。
今日は、それだけ分かれば十分だ。
トリマランに戻ると、既にバゼルさんがベンチでココナッツ酒を飲んでいた。
装備を外した俺に、トーレさんがココナッツ酒を渡してくれた。かなり量が多いんだよなぁ。
まだまだバゼルさんほどに飲めないんだから、この半分で良いんだけどね。
「ナギサの言葉を信じないわけではなかったが、確かに何もいない海だ。それにこれほど透明な海も珍しいぞ」
「俺も最初は驚きました。漁に出ればどこの漁場にも魚がいましたからね。海底の溝を見ましたか?」
「ああ、確かに東に向かって伸びてるな。泡も溝から上っていくのが見えた。やはりこの海域で何かが起きているということになるんだろう」
「少し深場があったんで潜ってみたら岩にサンゴが押しつぶされていました。海底の岩は盛り上がってきたんだと思います。それでこの辺りにあったサンゴ礁を全て覆いつくしたのではないかと」
「何だと! ……だが、そう考えれば得心もいくか。火山が噴火した時には火山の近場から魚が消えたらしい。
俺達には気が付かない海の小さな変化にも気付いたに違いないと、長老が話してくれたな」
それを教えたのはアオイさん達かもしれないな。
魚は環境の変化に敏感らしいからね。




