P-055 虹を越えてきたもの
豪雨の中だから、時間経過は向こうから持ち込んだ時計が頼りだ。屋形の扉近くに吊り下げてあるけど、タツミちゃんは時計を読むことができないんだよねぇ。
たまに手を休めて時間を見ているのは、延縄の引き上げのタイミングを知るためだ。
できれば潮の流れが逆になる時間の前にと思っていたんだが、このあたりの海域では潮の満ち引きで流れが変わることがないようだ。
満ち引きによって少し潮の流る速さが変化するだけらしい。
近くに島でもあるなら、海面から顔を出す岩の貝の付き具合で満ち引きが分かるんだけど、この豪雨だからなぁ……。どうにか50mほど先が見えるぐらいだ。
「昼前に一度引き上げよう。仕掛けを下ろしてから2時間だから、もう1時間ぐらいは待ちたいね」
俺の言葉に、タツミちゃんが頷いた。
時間という概念はあるし、正午は12時というのもわかっているらしい。
それは日時計で時間を知る学習を学校でしたからと教えてくれた。
ここでもナツミさんの偉業の1つが残ってるんだよなぁ。
かなり苦労したに違いないけど、ネコ族の人達は今でも慕っているようだ。
今でも、トウハ氏族の海域のどこかでアオイさんと一緒にサンゴの下でネコ族を見守っているのだろう。
それにしても、食いが悪い。
2時間たって、2人で5匹とはなぁ……。
やはり豪雨のせいなのかもしれないな。そもそも豪雨の時には漁をあまりしないんじゃないか?
昼を過ぎたところで、釣り竿を片付けて休憩を取る。
タープの下でココナッツジュースを飲みながら、止みそうもない豪雨を恨めし気に眺める。
「今日は1日降るのかな?」
「いくら雨期でも、1日は降り続けないにゃ。夕方には上がるかもしれないにゃ」
ネコ族の人達はいつも前向きだ。物事をあまり悪くとらえることがない。
その通りなら、今夜の夜釣りで頑張ることになるのかな?
でもその前に……。
「そろそろ始めるか! 俺が引き寄せるから、魚が掛っていたらお願いするよ」
「タモ網を持って待ってるにゃ!」
屋形近くに置いたベンチから腰を上げると、タープの柱に結んでおいた延縄のロープを手繰り寄せる。
タープの端での作業だから、たちまちずぶぬれになってしまったが、もともと水着だから問題ないし、麦藁帽子を傘代わりに被っているから、雨が顔に当たることも無い。
やはり細めのロープに換えたのは正解だった。
握りやすいし、グンテをしていても滑ることがない。
とはいえ、延縄の仕掛けを引き上げるのは結構骨が折れる。
引き上げたロープを手元で丸めておく。仕掛けを入れたザルに入れることも考えたんだが、12本も枝針が付いているから絡まると面倒だ。
少しずつ近づいてくる目印用のウキが微妙に動いている。俺が引くロープの動きだけではないようだ。
「掛かってるぞ!」
「大物かにゃ?」
タモ網を持って船尾に出てきたから、たちまちびしょ濡れになってしまった。
「まだ早いよ。でも直ぐだと思うよ」
目印用のウキを引き上げて、今度は延縄仕掛けを引き上げる。
ロープに沿って道糸を結んであるから前よりは苦労しないけど、すぐに魚の引きを手に感じた。
すぐ近くかな?
慎重にロープを手繰り、仕掛けを回収していく。
2本目の枝針のハリスがピン! と張っている。道糸に付けた小さなウキが、魚の引きで水中に引き込まれている。
かなり大きいんじゃないか?
ロープを掴んで、ハリスを手にすると俺の手に引きが伝わってきた。
まだまだ元気だけど、ここは5号ハリスの強度に期待するしかなさそうだ。
互いに力比べでハリスを手繰る。
ハリスの長さは2mほどだから船尾に腰を据えて魚との力比べをしていると、少しずつ魚の抵抗がなくなってきた。
腕を上げて魚体を海面に浮かばせると、タツミちゃんがそっとタモ網を海中に下ろす。
腕暴れさせない様に、慎重にタモ網に魚を誘導すると、「エイ!」と声を上げてタツミちゃんがタモ網を引き揚げた。
さすがに甲板ではバタバタと騒いでいるけど、すぐにタツミchくぁんの棍棒でおとなしくなった。
まだまだ掛かってるかもしれないな。
タツミちゃんと顔を見合わせて笑みを浮かべる。
残りの枝針は10本だからねぇ。
改めてロープを曳き始めると、弱い引きが伝わってきた。
どんどんロープを手繰って、次の獲物を引き上げよう。
仕掛けを全て引き上げたところで、改めて枝針に餌を付けると、潮に合わせて延縄を伸ばしていく。
掛かっていたのは4匹のシーブルとグルリンが1匹。
午前中の釣りよりも獲物が多いし型もいい。小さいシーブルでさえ、60cmを超えていた。
延縄を全て流し終えた時には2時を過ぎていた。
濡れたままだけど、タープの下で休憩を取る。
「たくさん捕れたにゃ。また掛かると良いにゃ」
「今度は日暮れ前に仕掛けを上げるよ。2時間ほどだけど2匹は追加したいね」
獲物が多いと、お茶も美味しく感じられる。
少し早いけど、休憩が終わればタツミちゃんは夕食の準備をするのだろう。その間は俺が釣りをすればいいんだが、延縄に回遊魚が掛るんだから、仕掛けを上物狙いにしてみるか。海面下2mほどの棚にウキを設定すれば、延縄と棚は変わらないはずだ。
リール竿の仕掛けを交換して、釣りを始める。
赤いウキが見えるぐらいにまで道糸を伸ばし、竿尻の組紐をベンチの足に結わえ付けた。上物は一気に竿を引き込むから、ちゃんと結んでおかないと竿が飛んで行ってしまう。
後はウキを眺めるだけだな。
タープの下に入ってパイプを取り出した。タバコ盆の炭を使ってタバコに火を点ける。
待つ漁をすることで、ネコ族の男達はパイプを使うんだろうか?
退屈しのぎということなんだろうな。
口元で楽しむなら何とか形になってきたんじゃないかな?
覚えなくても良いけど、確かに暇つぶしには丁度良い。
タツミちゃんが楽しそうに米粉を練っている。
夕食は団子スープかな?
エスニック感たっぷりなんだけど、具材と調味料を変えれば案外日本のどこかの郷土料理になるんじゃないかな。
俺も大好きだし、この頃ちょっとした1手を編み出したんだよね。
なんと、鍋に入れる団子以外に、竹串に刺した団子を焼くことを覚えたようだ。
遠火で焼いて、魚醤を付けてさらに焼く。
タレがもう少し甘ければ炉端焼きそのものじゃないか!
そんなことを考えてたら、お腹が鳴ってしまった。
1日、3食の世界で育ったからなぁ。朝食と夕食の間は結構長いんだよねぇ。
「夕食まで我慢するにゃ!」
しっかりとタツミちゃんに聞かれてしまったけど、料理の手を休めて蒸したバナナとお茶を出してくれた。
熱くないから保冷庫に入れてあったのかな?
ウキを眺めながらありがたく頂くことにした。
突然ウキが沈むと、竿先が引き込まれる。
竿を掴んで豪雨の中に飛び出した。からどぉの毛増るようにして大きく合わせると漁軸リールのドラグが音を立てて道糸が引き出される。
ドラグを締めて道糸の出をセーブするとポンピングをしながらリールを巻く。
ともすれば巻き取るよりも、ドラグを鳴らして道糸が出ていくけど、深海釣り用の道糸だからねぇ。そう簡単に切られることはないし、ハリスも4号を撚ったものだ。強度は7号ハリスに匹敵するだろう。
カーボン竿は胴調子に近いから、満月のように曲がるがおれる心配はない。
道糸が緩まぬ限り、釣り針から獲物がのがれる術はないはずだ。
「大物かにゃ?」
「かなり大きいよ。でも、だんだん近づいてくる」
問題は取り込みをどうするかだ。
タモ網では無理かもしれない。すぐ後ろでタツミちゃんがタモ網を手に待っているんだけど……。
やがて、魚体が見えてきた。1mを超えてるかもしれないぞ。
とりあえず、タモ網で試してみるか。失敗しても釣り針さえ外れなければ次の方法を考えることもできそうだ。
「3ヤム(90cm)を超えてる。タモ網で取り込めるかどうかわからないけど……」
「私がタモに誘導するにゃ。大きいと私ではタモを引き上げられないにゃ!」
それもあるんだよなぁ……。
竿尻はしっかりと組紐でベンチに繋がっているからタツミちゃんに渡してもだいじょうぶだろう。
引きもだいぶ弱まってきた。
タツミちゃんに竿を渡して、代わりにタモ網を受け取る。網の直径が50cm近くあるから、うまく入ってくれればいいんだが……。
海中に下ろしたタモ網にタツミちゃんがゆっくりと魚体を移動してきた。
タモ網に頭が入ったところですくい上げるようにタモを引き上げる。
バタバタと網の中で暴れる魚を甲板に下ろすと、待っていたようにタツミちゃんが棍棒を振るった。
「大きいにゃ。それもグルリンにゃ!」
「延縄と同じ多難で釣ったんだよ。向こうも期待できそうだね」
甲板を片付ける前に延縄の目印に目を向ける。
あの揺れ風や波でもなさそうだ。
延縄の方も大物が食いついているかもしれないな。
次もグルリンかと思っていたら、大きなカマルだった。たて続けに2匹釣り上げたところで夜釣りに備えることにした。
竿をかたずけて甲板の邪魔なものをどかしていると、突然周囲が明るくなった。
「晴れたにゃ! あっちに虹がみえるにゃ」
2人で屋根に上がっていくと、東に大きな虹が掛かっている。よく見ると、その内側にもうっすらと虹が見えた。
虹って、1つしか見えないと思ってたんだけどねぇ……。
海から空に昇った虹がまた海に戻っている。何となくあの虹の下を潜っていきたいような気がするな。
ん! 何かこっちに来るぞ。
「タツミちゃん。虹の間から何かこっちに向かってるぞ!」
「あんなの初めてにゃ。大物かもしれないにゃ!」
確かに大きそうだ。だけどあれだけ海面を盛り上げて進むような魚なんて聞いたことが無いぞ。
近くの船の屋根にも男達が立って、この怪異を見ているようだ。中には銛を持ち出している姿も見えるけど、あの大きさの波を立てる魚では、俺達の銛は非力に思えてしまう。
突然、海面を盛り上げて進んだ姿が消えた。
少しほっとして甲板に戻ろうとした時だった。
カタマランの横に、巨大な何かが浮上してきたから、その横波をもろに受けてしまった。




