P-031 交代で舵輪を握る
深夜遅くまで続いた宴会で、たっぷりとワインを飲まされてしまったから、今朝はハンモックの中から出られそうもない。
昼近くに、タツミちゃんが起こしに来たんだけど、俺の状況を見て首を振っていたからなぁ。明日まで続かなければ良いんだけど……。
夕暮れが迫るころ。どうにかハンモックを抜け出して甲板に向かうと、隣の甲板からバゼルさんが苦笑いをしているのが見えた。
「だいぶ飲まされたようだな。まあ、悪気はないんだが、通過儀礼の1つだと思って諦めるんだな」
「それは分かっているんですが、かなりきついものがありますね」
「今夜は少しさっぱりしたものにするにゃ。明日の漁はだいじょうぶかにゃ?」
「こんな状態ですから、準備が整っているのか少し心配です」
「タツミが昼の内にちゃんと確認してるにゃ。明日からの漁の間はこの船に食べに来るにゃ」
「御心配おかけします」
うんうんとトーレさんが頷いている。
ちゃんと生活できるのか心配しているのかもしれないな。
色々と心配してくれるのはありがたいんだけど、過保護にも思える時があるんだよね。
「南に向かった連中がシメノンを獲ってきている。大きな群れらしいから、その群れを狙ってみようと思うのだが」
「お任せしますが、どの辺りで獲れたんでしょうか?」
トーレさんに頼んで海図を持って来てもらうと、俺を手招きしている。
船を持つということは、シドラ氏族内では大人の仲間入りということになるのだろう。これまでは指導員という形だったが、これからは漁師仲間ということになるのだろうか?
世間的にはそうであっても、俺にとってのバゼルさんは何時までも漁の指導員という立場であってほしいな。
「昨日帰ってきた船団は、この辺りで遭遇したらしい。先ほど帰った船団はここで釣りをしたそうだ」
「潮通しの良さそうな場所ですね。単純に考えれば2日後の位置はこの辺りになるんでしょうけど……」
「そう考えて、この辺りで素潜りを考えていたんだがなぁ」
「東西の溝があるぐらいですから、潮の流れはこの辺りよりも良いはずです。となればさらに西に移動しているのでは?」
バゼルさんの海図にはかなり詳しく海底の様子が書き込まれている。
シメノンを運んできた船団はサンゴの繁茂した海域で遭遇したらしい。先ほど帰投したという船団の漁場はサンゴの繁茂した海域の外れだ。
そうなれば、1日の移動距離で群れの移動先を単純に推測するのは無理があると思うんだよなぁ。
「言われてみればその通りだな。この海域になるのか……。溝の西端で3方向にはサンゴが繁茂している。潮の流れが緩くなる場所でもあるな」
「ここに行くにゃ? 他の船団より2日は離れているにゃ」
確かにそのぐらいの距離はありそうだ。
ある意味賭けでもある。
「ここはナギサの予想に従ってみるのもおもしろそうだ。サンゴの崖が3方向にあるから、素潜りの良い漁場でもある」
「タツミにも期待できるにゃ」
2人で銛を使っての漁だからなぁ。船尾にクーラーボックスを下げておこうかな。
海面に浮かべておいても、沈むことは無いからね。
左右の取手にロープを通して、帆桁の荷役用の滑車に結んでおけば甲板に引き揚げるのも容易だろう。
「そうだ! 渚も船を持ったんだ。これをやろう」
バゼルさんが少し細長い包みを渡してくれた。
記念品ということかな?
ありがたく頂いて包みを開けると、紐の付いた竹笛とパイプ、それにタバコ入れだった。
「別にタバコを勧めるわけではない。だが、一人前の証ともいえるものだ。咥えていれば格好もつくだろう。
笛は、船団内の合図用だ。合図は船団事に異なるが、何かあったなら吹けば助けてくれるだろう」
「ありがたく頂きます」
愛煙家が多いのかと思っていたんだけど、そう言うことか。
持っているだけで良いならタバコ入れに付いているケースに入れて、腰に下げておこう。
夕暮れを眺めながら、次の漁の話をしていると夕食の準備ができたようだ。
さっぱりした味の団子スープだから、二日酔いが少し残っている状態でも美味しく頂ける。
食後はココナッツ酒ではなく、ココナッツジュースにして貰った。
明日の朝が早いということで、早めにハンモックで横になる。
今日は一日中、ハンモックで寝ているような気もするな。
「いよいよ漁だけど、操船はだいじょうぶ?」
「ちゃんと出来るにゃ。私も素潜りをするけど……」
「タツミちゃん用の銛は、バゼルさんが作ってくれたよ。屋根裏に乗せてある。銛先はタツミちゃんのお父さんから渡されたと言ってた」
「トウハは銛の氏族にゃ! だいじょうぶ、たくさん突けるにゃ」
屋形の中に、ハンモックが2つ並んで下がっている。
バゼルさんのカタマランと比べればかなり小さい作りだけど、2人で暮らすには十分だろう。
何となくキャンプをしながらテントで寝ている感じがするんだよね。それだけ屋形が小さいんだろうな。
昨夜は酔ってしまって、どうにかハンモックに入ったんだが、今夜はしらふだから家形の中の様子が良く分かる。
小さくとも、それなりに纏まっているようだ。屋形の柱や梁も太い木材が使われているから、風で飛ばされることも無いだろうし、何と言っても、あの豪雨で天井が潰されることも無いだろう。
次のカタマランは数年後になるのだろうけど、それまではこのカタマランで慎ましく暮らしていけたら良いんだけどね。
翌日は、タツミちゃんに起こされることなく目が覚めた。
いよいよ俺もネコ族の人達と同じような暮らしができそうだ。
甲板に出ると、タツミちゃんがちょっと驚いていたからね。
海水で顔を洗いながら、タツミちゃんが何をしているかを見てみると、どうやらカマドを使ってお茶を沸かしているらしい。
食事はバゼルさん達から頂けるけど、お茶までご馳走になるのは、と考えたのかな?
まだ夜が明けたばかりで、太陽はまだ上がってこない。
隣ではトーレさん達が朝食を作っているから、日が昇るころには出発できそうだな。
チャーハンにスープを掛けた感じがする朝食だけど、味は良いし脂っこくもない。
向こうの世界の朝食とかなり違っているけど、だいぶ慣れたようだ。
トーレさんが2杯目を深皿によそってくれたから、お腹いっぱいになってしまった。
このままでは、メタボ体形にまっしぐらに思えてくる。
「今日は、深夜までカタマランを走らせる。2ノッチでの航行だが、何かあれば笛を含んだぞ」
「分かりました。笛は首に下げておきます」
「そうしておけば安心だ。昼食は団子スープだが、鍋ごと保冷庫に入れておけば温めて食べられるはずだ」
食事の為に船を停めることは無いということか。
タツミちゃんだけでなく、俺も操船することになりそうだ。
お茶を用意してくれていたようだが、タツミちゃんが断っている。昼食を入れる鍋を運んできて、トーレさんから分けて貰い俺達の船に戻っていった。
「浜の沖で待機してくれ。俺達の船の後に付いてくればだいじょうぶだ」
「よろしくお願いします!」
バゼルさんにお礼を言って、自分達の船に戻る。
すでにタツミちゃんは操船櫓に上がっているようだ。
操船櫓の端に付いたハシゴを上って家形の屋根に上る。
「準備は良いかな? 先に移動して沖で待つようにバゼルさんから言われたよ」
「船首のアンカーを引き上げたら、合図して欲しいにゃ。そしたらゆっくり動かすにゃ」
少し緊張してるようだけど、船が走り出したら少しは余裕ができるだろう。
タツミちゃんに頷いて、船首に向かいアンカーの漬物石を引き上げる。
操船櫓に向かって手を振ると、タツミちゃんが頷いてくれた。
直ぐに、カタマランがゆっくりと後退し始める。
「沖で待ってます!」
甲板でこちらの様子を見ていたバゼルさんに手をメガホンにして伝えると、屋形の屋根に向かった。
帆柱のような柱に背中を預けて家形の上に立ちながら、カタマランが向きを変えて、船首を置きに向けるのを眺める。
ちゃんと操船が出来てるじゃないか。やはりネコ族の女性だけのことはある。
「この辺りで待つにゃ。バゼルさん達は?」
「こっちに1隻向かってくるから、あれがそうじゃないかな? 確認出来たら後に付いて行こう!」
俺達の船の横を、操船櫓からトーレさんが手を振りながら通り過ぎる。
甲板のベンチでパイプを咥えていたバゼルさんが後ろを指差しているから、ちゃんと付いて来いと伝えているに違いない。
「出掛けようか! 遅れたらトーレさんから怒られそうだ」
「だいじょうぶにゃ。こっちの船の方が小さいから速度は出るにゃ」
右端にあるレバーをカチンと鳴らすようにして動かすと、カタマランが動き出した。
先ほどの比ではなく速度が上がっていく。
バゼルさん達とは200m程開いているけど、だんだん距離が狭まっているのが分かる。
後ろを振り返ると、氏族の島の浜辺が見えなくなっている。さて、どれぐらいまで距離を近づけるんだろう?
2隻の距離は50mほどだ。船は急に止まれないから、これぐらいの距離があれば安心できるのだろうが、ちょっと間隔が狭いように思えてしまう。
何かあれば笛を吹けとバゼルさんが言っていたのは、笛の音が届く距離でもあるんだろう。
「ナギサ。操船してみるかにゃ?」
「そうだね。ちょっと自信がないんだけど……」
「だいじょうぶにゃ。トーレさんがこっちを見てるから、ちゃんと距離を合わせてくれるにゃ。舵だけ動かせば良いにゃ」
「その舵が一番問題に思えるけど?」
「曲がりたい方に舵輪を1回転しても余り曲がらないにゃ。2回転すればかなり曲がってくれるにゃ」
要するに舵の効きが悪いということになるのだろうか? それとも歯車の回転比が大きいのかな?
回しても2回転までだと考えれば良さそうだ。
タツミちゃんから舵輪を任されたところで、前方を見据えながら船を進ませる。
というか、舵輪を握っただけで回すことも無いんだよなぁ。
それでも車間距離というか、前方を進む船との距離が気になってしまう。
何となく、少しずつ近付いているようにも思えるんだよね。
「水筒を持って来たにゃ。帽子も被ったし、サングラスも付けたからナギサも装備しといた方が良いにゃ」
「結構眩しくなってきたね。それじゃあ、舵輪を渡すよ」
タツミちゃんに舵輪を渡すと、屋形の中に戻り、買い物カゴの中からサングラスと帽子を取って再び家形の屋根に上った。
ここだと眺めが良いんだよね。
すでに氏族の島は後方に消えてしまったけど、小さな島があちこちに見える。
鳥の群れが海上を移動する様子なんて、向こうの世界では見ることも無かったろう。
自転車より少し速いほどの速度で移動する海は、発達したサンゴ礁があちこちに見える。
こんな場所でクルーズするなら、観光客がかなり集まりそうに思えるんだけどねぇ。




