M-146 アルティ達にできるんだから、俺にだって
左右から桟橋が伸びた細長い湾は、まるで水路のようだ。
その水路の中心付近で、トリマランが旋回するのを大勢の人達が桟橋から眺めている。
やはり、不思議に思えるんだろうな。
そんな中を、ナツミさんがゆっくりとトリマランを進めていく。
水路の出口を出ると、南に大きく舵を切った。10分ほど進んだところで、今度は東に進路を変える。
「このまま進めば良いのかしら?」
「そうしてくれ、だが割れ目の西端に着くのは、昼過ぎになるんじゃないか?」
操船楼から俺達に振り向いたナツミさんに、グリゴスさんが答えた時だ。
ナツミさんが「十分、間に合います」と言うと同時に、トリマランの速度が一気に上がる。
フワッとした感覚が伝わって来たから、水中翼船モードに移行したようだ。
「何なんだ? どう考えてもカタマランの2倍以上の速さだ。それに水面から少し遠ざかったようにも思えるんだが?」
きょろきょろと周囲を見てるグリゴスさん達だが、確かに驚くだろうな。
俺達より早くに漁に出掛けたカタマランを軽く追い抜いているんだが、カタマランの屋根で呆然とした表情で俺達を見てたんだよな。
「潜ってこの船の下を見ると、何故なんだか分かりますよ。千の島の東をどうしても見たかったんで、こんな船を作ったんです」
「驚く限りだ。まあ、それだけ早く漁場に着けるなら問題は無いだろうが……、それにしても速いな」
いつの間にか、マリンダちゃんが女性と子供達を家形の中に連れて行ったようだ。甲板に残った俺達は、パイプを咥えながら今日の漁について話を始める。
「一応、釣りの範ちゅうになるんだと思います。この竿を自分の身長より少し長く切り出して……」
先端に曳釣りでルアーを結ぶ、少し太めの釣り糸を縛りつける。節のところで切ったから、抜ける心配は無さそうだ。
釣り糸の先には、根魚用の少し大きな釣り針を結んだ。釣り竿と釣り針の距離は50cmにも満たない。あまり長いと魚の前で餌を躍らせるのが難しくなる。
最後に、竿尻に、太い組紐を巻き付けてきつく縛りつけた。組紐の長さは3mほどにして組紐の末端に15cmほどの輪を作った。
「これが仕掛けになります。俺の子供達に作ってあげたのがこっちです。これで、2人ともバルタスを釣り上げてますよ」
「子供用の仕掛けを大きくしたということだな。確かにこれに大型が掛かれば竿を握っていることもできないだろう。組紐の輪に手首を通しておけば逃がすことは無いだろうな」
言わずとも概略は理解してくれたようだ。
「これに餌を付けて魚の前で躍らせるんですか……。上手く飛びついてくれればいいんですが、素潜りでそれをやることになるんですよね?」
「竿が短いからな。船の上からではできまい。子供にできることが俺達にできないということはないだろう。とはいえ、最初はアオイ殿に模範を見せてもらいたいところだ」
真面目な表情で俺に顔を向けて頼んできたけど、生憎と俺は岩場の潮だまりで小さなカサゴを釣ったことがあるだけなんだよなぁ……。
「なら、アルティに教えて貰えば?」
操船楼から器用に顔をこっちに向けて助け舟を出してくれたけど、早く前を向いて欲しいところだ。
25ノットを越える速度で海面を進んでいるんだからね。前方不注意で事故でも起こしたら、とんでもないことになるぞ。
「アルティ?」
グリゴスさんが首を傾げている。
「俺の双子の長女ですよ。さっきの小さな釣り竿の持ち主です。教えなくとも、バルタックを釣ってきました」
「ほう、それは将来が楽しみだな。だが、まだ10歳にも満たぬようだが?」
「浜で、魚を追い掛けている年長者が持つ銛を強請って来たんですが、トウハ氏族が銛を持つのは10歳からですからね。それで、真似事ができるようにと作ってあげたんです」
「さすがは、聖痕の保持者の子供だな」
そんなことを言って笑っているけど、ナツミさんは本当にアルティ達を模範にするつもりなんだろうか?
「聖痕どころじゃないにゃ。長女が聖印の保持者で、長男は聖姿を腕から背中に描いているにゃ!」
家形から、ぞろぞろと皆が出てきた。
マリンダちゃんは家形の屋根に上って、状況偵察をするみたいだな。その前に、カマドの上に乗っていたポットをグリゴスさんの嫁さん達に教えてたから、皆でお茶を飲むようだ。
「本当なのか?」
男達が驚いているのを見て、グリゴスさんの嫁さんがアルティを手招きしている。
「これにゃ。間違いなく聖印だとカヌイの長老が昨晩教えてくれたにゃ。向こうの小さな男の子の左腕から背中にかけて聖姿が描かれてるにゃ。それがどんなものなのかは、カヌイの長老も知らないみたいにゃ」
「歴代の聖痕の保持者の上を行くということか。確かに、聖印だ。そしてあれか……」
グリゴスさんが感極まった表情でアルティ達を見ている。
若い男も、その印に気が付いたようで、慌ててアルティに近寄って行ったから、家形の中に逃げて行ってしまったようだ。
「こらこら、びっくりさせるんじゃないぞ。将来は氏族を越えて俺達を導いてくれるんだからな」
「申し訳ありません。初めて目にしましたから、思わずもっとよく見ようと……」
頭を掻きながら、俺に頭を下げている。
とりあえず、頭を上げさせて気にしないでくれと言っておいた。
アルティは結構人見知りするからね。
「この辺りじゃないかしら? 速度を落として海中を調べるね」
まだ、昼前なんだけどなぁ。やはりトリマランだけなら、どこに行くにも時間が掛からない。
「もう少し南にゃ! 向こうの海が黒々としてるにゃ」
マリンダちゃんの指示で、ナツミさんが南に舵を取る。トリマランの速度は自転車ぐらいにまで落ちている。これから海底を見ながら溝を探すつもりなんだろう。
マリンダちゃんがアンカーを下ろした場所は、トリマランの左右の舷側から見える海の色が違っていた。
海底の崖、ギリギリにトリマランを停めたんだろう。ナンタ氏族の連中が操船楼を見上げて溜息を吐いている。
「バレットから、操船はトウハ氏族で一番とは聞いていたが、これほどとはなぁ」
「船の性能に助けられてるところもあるんです。そろそろ始めますか?」
俺とグリゴスさん、それにレグロスの3人で良いだろう。
素潜りの道具を身に着けたところで、竿先に付いた釣り針にカマルの薄い皮を短冊にしてチョン掛けにする。
「この辺りの崖なら亀裂があちこちにあるはずだ。そこにいる魚を俺達は釣るんだが、何度も同じ場所で釣ると直ぐに釣れなくなってしまう」
グリゴスさんのぼやきは、魚がスレてしまうということなんだろう。
釣りはどちらかというと、受動的なところがあるからね。餌や仕掛けを見破るようなところも魚にはあるんだよな。
「それじゃあ、先に行きますよ!」
俺が飛び込むと、すぐにその後を2人が続いた。トリマランから少し離れたところで、互いに顔を見合わせて、潜るタイミングを取る。
俺が頷くと、2人が頷いてくれた。
体を折るようにして、海底に向かってダイブする。
水深3mほどのサンゴの海が、鋭角な崖を作って落ち込んでいる。溝の底は10mを越えているんじゃないかな?
潜りながら崖の亀裂を探っていると、大きな切れ目の奥でこちらを見ている魚がいる。
振り返って2人を探すと、すぐ後ろにいた。
崖の切れ目を指差すと、俺に近づいてくる。頷いているところをみると、獲物を確認したということだろう。
竿尻の組紐の輪に左手を通して、左手で竿を握る。崖の切れ目に向かって餌を竿先で躍らせながら近付けると、ガブリと食い付いた。
すかさず、竿を引いて針に掛けると、とたんに暴れだした。
力づくで、切れ目から魚を引き出すと海面を目指す。
息を整えていると、目の前に2人が浮かんできた。
「なるほど、子供の遊びに見えるが、受け身ではなく積極的な釣りと見るべきだろうな。レグロス、出来るか?」
「あれで掛かるなんて信じられませんが、先ずはやってみます!」
2人が潜ったところで、獲物を届けにトリマランに向かった。
釣り針を外して、甲板に投げ込んだ魚はバルタスだ。
「やはり、ザバンが必要だ。一々戻るのは面倒だよ」
「ザバンを下ろすから、アウトリガーを付けて欲しいにゃ! それと、子供達が出掛けたにゃ」
それでか。グリゴスさんの嫁さん達がずっと反対側の海を眺めてるんだよな。
ナツミさんが、いつものようにお茶を用意しているから、心配はいらないんだろうけど、最初に見たら驚くよね。
ザバンにアウトリガーを取り付けると、グリゴスさんの嫁さんの1人が乗り込んできた。
お茶の入った竹筒とココナッツのカップを入れたカゴを持っていたから、少し長く漁ができそうだな。
漁をしていた場所に目を向けると、グリゴスさん達が手を上げて場所を教えている。
「どうですか?」
「ちゃんと釣れたよ。こんな釣りがあるとは思わなかったが、これなら日中に素潜りで十分に数が揃う。それに、銛の傷はどこにも無いからな」
「大物は、少し引き上げるのに苦労しますね。でも、2YM(60cm)ぐらいなら、問題はありません」
2人が釣ったバルタスは、俺が釣った奴よりも大きいんじゃないか?
嬉しそうにグリゴスさんの嫁さんが獲物を受け取って保冷庫に入れていた。
3人がばらばらに漁を行う。やり方さえ覚えれば簡単な漁には違いない。
各々2匹を釣ったところで、ザバンに掴まりながらお茶を頂く。
「何だと! 神亀に乗って行った?」
「そうにゃ。神亀がやってきて舷側に甲羅を寄せてきたにゃ。アオイさんの子供達が乗ったら、一緒に乗ってしまったにゃ。その後は、水中に消えてしまったにゃ」
あんぐりと2人が口を開けている。
そりゃ驚くだろうな。神亀を見ることができた人達があまりいないらしい。
たまに見ることができれば、豊漁を約束されたとありがたがるぐらいだからね。
「最初は俺も驚いたんですけど、どうやら甲羅の上では息苦しくなることが無いようです。俺達と同じように漁に行ったんでしょうね」
「それにしてもだ……。聖印を持つ者は、それほどの恩寵を受けられるのだな」
感慨深げに、そう言ってトリマランに目を向けている。
その目はトリマランの先を見てるんだろうな。




