M-130 満月の潮が満ちる時
「遅いにゃ……」
家形の屋根に上ったトリティさんが、ぶつぶつ言いながらハシゴを下りてくる。
遅いて言っても、操船はカリンさんがやってるから、通常のカタマランよりは速度が出ていると思うんだけどね。
俺達のすぐ前を進むラビナスの船だって、2ノッチ半にレバーを上げているはずだ。15ノットは出てるんじゃないかな。
「この分じゃ、明日の昼過ぎになってしまうにゃ。根魚釣りから始まるにゃ」
「嫁さん達にも手伝ってもらえますから、そこそこ釣れるんじゃないですか?」
「乾期にゃ。乾期は素潜りが良いにゃ」
オルバスさんがいないことを良いことに、自分でも銛を使おうなんて考えてるのかな?
トウハ氏族の女性達は滅多に素潜り漁をしないけれど、それなりに銛を使えるんだよな。その筆頭がナツミさんなんだけど、正直な話、グリナスさんより腕は格段に上だ。
トリティさん達も、たまには思う存分魚を追い掛けたいんだろう。
不機嫌そうな表情だったけど、家形の柵からアルティがトリティさんに腕を伸ばしたのを見た途端、顔の表情がゆるみ笑顔になる。
「出ちゃダメにゃ。いま行くにゃ」
アルティを抱き上げると、家形の中に入って行った。
家形の中は賑やかだな。前を進む船の子供達も夜まで預かることになったから、トリティさん達は気苦労が絶えないんじゃないかな?
タバコ盆の炭を使ってパイプに火を点けると、家形の屋根に上る。
操船はナツミさんがトリティさんから替わったばかりのようだ。次はリジィさんの番になるんだが、俺には操船をあまりさせてくれないんだよね。
最長でも30分を越えることが無かったような気がする。
「オルバスさん達は、上手くやってくれるかな?」
「長老が一緒なんでしょう? なら、だいじょうぶよ。いよいよ氏族の垣根を越えることができるかもしれないね」
人口が多ければ、賛成と反対に別れた騒動が起こるかもしれないけど、各氏族の長老が氏族の住民を上手く指導している。
氏族全体を海人さんも考えてはいたんだろうが、あいにくとそこまで手を伸ばすことはできなかったようだ。
だけど、しっかりと種は撒いてくれたんだろう。
俺達の案を馬鹿げた話と聞くことは無い。ちゃんと耳を傾け頷いてくれる。下地があるってことなんだろう。
目標は見えても、そこに至る計画と対応措置を考えるのは、ネコ族は得意ではないからね。
「これからが大変よ。垣根を取り除くために、全ての氏族の代表を決めたり、集まる場所を決めないと……」
「それって、国会を作るってこと?」
「その認識で良いのかな……。たぶん、アオイ君の考えで良いと思うわ。場所はオウミ氏族の島が候補ね。でも、トウハでも良いのかもしれない。なるべく外乱に惑わされない場所が良いと思うの」
サイカ氏族は大陸に近すぎるし、オウミ氏族の島には商会の出先機関があるんじゃなかったかな。
便利ではあるんだが、その影響を受けかねないということか。
「オルバスさん達が帰ったら、すぐにこの話が始まるはずよ。そこで2つ課題を出して欲しいの。1つは世襲制を排除する方法と、カヌイとの関係はどうするのか」
「世襲制の弊害は分かるけど、カヌイのおばさん達はどちらかというと宗教団体みたいなものだろう? 氏族の垣根とは……、交流していないってことか!」
長老は族長会議に出ることで、昔からネコ族の足並みをそろえようとしていたようだ。
だけど、各氏族のカヌイの組織は島に限定した活動をしてきたはずだ。ネコ族がこの地に住み始めてからかなりの年月が経っているんじゃないか?
となれば、カヌイの教義が氏族ごとにかなり違っていることもあり得る話だ。
氏族の重大事項については、カヌイのおばさん達の意見も重要視される。そのカヌイの組織を将来どうするかは大きな問題になりかねない。
「だけど、それはカヌイのおばさん達が考えることなんじゃないかな?」
「そうなんだけどね。突き放すのも問題だと思うの。やはり何らかの案を示すことになるんだろうけど……」
宗教は分裂しても統合したことが無いんじゃないかな?
統合したように見えるところもあるけど、新たな宗教に改宗させたようなものだからな。
「統合することは無理に思えるけど?」
「統合するという認識では、統合できないわよ。カヌイの思想を1つにするの」
どこがどう違うのか俺には理解できないけど、ナツミさんの脳裏にはその違いと、最終結果がおぼろげに見えているってことか?
あまり宗教世界に深入りするのも問題だと思うんだけどねぇ。
「とりあえず、問題提起だけにしておくよ。カヌイのおばさん達はネコ族の精神的な支えでもあるんだ。あまり斬新な考えは、かえって反発されかねないよ」
「うん。それは身に染みて分かってるわ。初産で苦しんでいた時も、励ましてくれたのはカヌイのおばさんだったからね」
操船をリジィさんに替わるまで、ナツミさんとこれからの話を続けたが、結論が出るわけではない。
だけど、氏族会議への対応が少しずつ見えてきたことも確かだ。
海人さんは、1人で考え1人で実行していたんだからな。改めて頭が下がる。
自分でできる限界を知ったのだろう。次の世代のことを考えて族長会議を定期的に開くことまで道を作ってくれたんだろうな。
だけど、やはり俺と同じ男ということだ。さすがにカヌイのおばさん達を纏めようなんてことは考えもしなかったに違いない。
「お茶を沸かしといてね!」
そう言って、ナツミさんは家形に入って行った。
言われるままに、ポットに水を入れてカマドに乗せておく。今日はどの辺りで船を停めるんだろうな。
日がだいぶ傾いたところで、近くの島に立ち寄りアンカーを下ろす。トリマランの両側にグリナスさんとラビナスのカタマランが横付けされた。
女性達が夕食に準備に取り掛かり、俺達はおかず釣りの竿を持って船尾に集まった。
「子供を預かってもらって申し訳ないな。漁の間だけと思っていたんだが」
「大きなお腹で子供の相手をするのは大変ですからね。少しの間ですが体を休めるでしょう」
「明日の昼過ぎぐらいに着くんじゃないかとメイルーが言ってました。明日の夜は根魚釣りができそうです」
それが、トリティさんには気に入らないようだ。乾期なら素潜りからだと言ってたぐらいだからね。
「あまり、遅くまで漁をするんじゃないぞ。翌日は、朝から素潜りだ」
「だいじょうぶです。銛も釣り針も航行の間に研ぐことができましたからね」
「お前等はいつも銛を研いでるなぁ。俺も明日は研いでおくか」
グリナスさんがそんなことを言うから、ポカリとトリティさんに頭を叩かれている。
男の子は1人だけだったから、少し甘やかしたと反省してるのかな。
だけど、グリナスさんの場合は性格によるものだと思うけどねぇ。
型の良いカマルを10匹ほど釣り上げたところで竿を納める。
塩焼きか、それとも唐揚げか……、いずれにしても俺の好物だ。
夕食が終わると、子供達を嫁さん達が引き取って帰ったから家形の中が急に静かになってしまった。
ナツミさんが子供達をハンモックに入れて寝かしつけているけど、俺達は甲板でワインを頂く。
マリンダちゃんもようやく屋形から出てこれて嬉しそうな表情を見せてくれた。
「家形は賑やかだったね?」
「おかげで退屈しないにゃ。アルティ達も遊び相手ができて嬉しそうだったにゃ」
煩わしいとは思っていないようだ。少し安心した。
家形から、ナツミさんが出てきたところをみると、双子は夢の中ということなんだろう。リジィさんがナツミさんにワインのカップを渡している。
美味しそうに一口飲んで、マリンダちゃんの隣に腰を下ろすと、マリンダちゃんのお腹を撫でている。
「大きくなったよね。動かなくなったと聞いたけど?」
「もうすぐにゃ。男の子なら良いにゃ!」
そんなことを言うもんだから、トリティさん達が笑顔を見せている。俺はどっちでもいいから元気な赤ちゃんを産んでほしい。そして母体にも影響がないことを祈るだけだ。
「10日も過ぎれば満月にゃ。きっとその時に生まれるにゃ」
「次の満月の満ち潮は夕暮れ時のはずにゃ」
満月の満ち潮に子供が生まれるということか……。逆に、新月の引き潮なら、誰かが無くなるのだろうか?
不思議な世界だから、そんな理があるのかもしれない。
ワインを飲み終えて。俺達も家形のハンモックに入ることにした。
翌日。朝食を終えたところで子供達を預かる。
昼過ぎには漁場に到着するだろうということで、グリナスさんも張り切っているようだ。
「日が傾くまでは素潜りができそうにゃ!」
「トリティさんも潜るんですか?」
すでに水中眼鏡まで首に下げているし、グンテと荒く編んだ靴下まで履いている。ガムの樹液で足裏部分が塗られているから、俺のマリンブーツと同じように使えるようだ。
俺の短い銛を屋根裏から取り出して、ギャフの横に立て掛けている。
やる気満々だな。
「氏族の漁獲が足りないって、オルバスが言ってたにゃ。少しは頑張らないといけないにゃ」
殊勝な話に聞こえるけど、半分はオルバスさんがいないことを幸いに、楽しむつもりなんだろうな。
そうなると、負けず嫌いのナツミさんも参加しそうだし、リジィさんだっておとなしいとは言えないところもある。
ひょっとして、他の船の嫁さん達もそうなんだろうか?
さすがに大きなお腹で素潜りをしようなんて考えはしないだろうけど、昨日よりも俺達の船の速度が上がっているように思える。
まあ、それは昼過ぎのことだ。とりあえずはパイプを味わいながら船尾で風に当たりながら過ごそう。