M-044 まだオルバスさん達は帰らない
トウハ氏族の島から南に向かって9日目。
バレットさんと俺はザバンを下ろして、素潜り漁を始めた。
アウトリガーのザバンを漕いでいるのはマリンダちゃんだ。ナツミさんはのんびりと甲板で海図を書き写すと言っていたけど、この辺りのブラドは大物揃いだから、直ぐにマリンダちゃんが獲物を持ち帰るんじゃないかな?
「獲ったぞ!」
シュノーケルから海水を勢いよく飛ばして、マウスピースを外した俺が大声でマリンダちゃんを呼ぶ。
直ぐにパドルを操ってこちらに向かってきたから、その間に銛先からブラドを外した。これも50cm近い良型だ。近づいてきたザバンに放り込むと、マリンダちゃんが保冷庫に両手で押し込んでいる。
「だいぶ溜まったにゃ。一旦、船に戻るにゃ!」
「なら、俺も休憩しようかな? ザバンに掴まって行くよ」
ザバンの船尾に掴まると、マリンダちゃんがゆっくりと俺達のカタマランに向かって漕ぎ始めた。
数分もかからずに、カタマランの甲板にザバンを横付けしたところで、ナツミさんがザバンをカタマランにロープで結んでいる。
カタマランの船尾に着いたハシゴを使って甲板に上がると、とりあえずフィンとマスクを外す。
銛はカタマランに乗せてあるから、そのままでいいだろう。
「ご苦労様にゃ。だいぶ獲れたにゃ」
「皆、良型ですよ。数も揃いますね」
俺の言葉に頷きながら、お茶のカップを渡してくれた。
お茶の甘さを感じるのは、口の中が海水でしょっぱいからなんだろうな。
「昨夜のバヌトスと今日のブラドで銀貨2枚にはなりそうにゃ。2回の出漁と同じぐらいにゃ」
「今夜のバヌトスも期待しましょう。ナツミさんの指導をよろしくお願いします」
ちらりと、リジィさんがナツミさん達に顔を向けると、木箱の上に板を乗せてナツミさんがブラドを捌く準備を始めている。
「だいぶ慣れてきてるにゃ。ご飯を炊くのも、この頃は失敗しないにゃ」
最初はおこげやお粥みたいなご飯もあったからな。
不思議と芯のあるご飯は無かったような気がする。まあ、お粥なら食べてもお腹を壊す心配は無い。おこげは魚醤を入れて炒めると、結構美味しかったんだよね。
大きなザルにブラドを移し終えたところで、ザバンの保冷庫にマリンダちゃんが氷を追加している。
まだまだ昼には間があるから、一休みしたところでもう一度素潜り漁をしてこよう。
マリンダちゃんにココナッツジュースをおっぷで渡したリジィさんが、ナツミさんのブラドを捌く手つきをすぐ後ろで見ている。
ナツミさんが少し緊張しているのが分かるけど、この頃は失敗することも無くなったとマリンダちゃんが言っていたな。失敗するとおかずになるから、少し残念に思っているのかもしれない。
マリンダちゃんがジュースを飲み終えたところで、装備を整えてマリンダちゃんに手を振ると、ザバンの銛を掴んで海に飛び込んだ。
先ずは1匹を突くことだ。獲物を持って海上に出る時にはマリンダちゃんもザバンを操って俺の傍を巡っていることだろう。
昼をだいぶ過ぎたところで、素潜り漁を止めてカタマランに戻る。
今度は保冷庫からブラドの尾がはみ出しているぞ。10匹近く突けたのかもしれないな。
カタマランに近づいたところで、銛をナツミさんに渡して、獲物をザルで次々にリジィさんに手渡していく。
マリンダちゃんを下ろしたところで、ザバンを泳ぎながらカタマランの船首に持って行くと、アウトリガーを分解して先回りしていたナツミさんに手渡した。
最後はザバンを積む作業になるんだが、舳先を前の甲板に持ちあげて後ろから押し込むようにして甲板に上げた。
桶で海水を汲んで保冷庫に入れると、斜めに倒してロープで家形に結び付けた。
「もう少し小型の方がいいんじゃないかしら。ザバンの船体に着脱できるフロートを付ければ、小さくしても2人は乗れるわよ」
「その辺りの改造も考えないとね。だけど、リードル漁の荷物の運搬ができないと困ってしまうよ」
俺が使っていたカヌーみたいなものなら軽くて良いんだけどねぇ。普段は1人が乗れて保冷庫が付いてれば十分なんだけどなぁ。
家形の屋根を蔦って船尾の甲板に向かうと、すでに昼食ができていたようだ。俺達に座るようにリジィさんが言って、炒めたご飯にスープを掛けた昼食を渡してくれた。
「今夜は早めに寝た方がいいにゃ。でも、少しは夜釣りができるにゃ」
「そうですね。明日はカタマランの速度を上げて北に向かいますから。バレットさんの事ですから日の出前には出発するかもしれません」
それでも、一夜干しを作ることはできる。まだ保冷庫には余裕があるから、日没後2時間は釣りができるんじゃないかな?
獲物を捌くのは釣りと並行してできそうだし、最後にザルに並べて屋根に干すだけだからね。
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氏族の島を出て10日目の朝。バレットさんの合図で俺達は一路北に向かってカタマランを進める。
かなりの速度を出しているのは後ろの航跡が長く伸びていることでもわかる。これなら明日の夕刻までに氏族の待つ島に帰還できるかもしれないな。
簡単な朝食をナツミさん達が交代で取っているが、俺は銛を研いだり根魚釣り用の竿やリールの手入れをして過ごす。
長く使うためには日ごろの手入れが必要だ。簡単に竿を拭くだけでも持ちが違うのは経験で分かっているつもりだ。
「北と東はどうなのかしら?」
「基本は南と同じじゃないかな? 少しは魚の種類が違うかもしれないけどね。それと東にはリードル漁の新たな漁場があるかもしれない。西にだって、昔のトウハ氏族のリードル漁の場所があったぐらいだから」
「是非とも出掛けたいわ。きっと中級魔石がたくさん手に入るんじゃないかしら」
俺の隣でお茶を飲みながらナツミさんは東を眺めている。そんなにうまくいくのかな? でも新たなリードル漁が行える漁場は食指が動いてしまう。
氏族の収入を上がられれば、ネコ族全体に還元できるかもしれないからね。
ひたすら北に向かって2隻のカタマランは進んでいく。
10日目の航行は俺には単調な島が続くだけに思えたが、11日目になると見知った島を見掛て一安心してしまった。
方向を間違えて、帰り着かないんじゃないかと心配だったんだよね。
「もう直ぐ、リードル漁をしている船団が見えるはずにゃ。氏族の島への到着は夜になるにゃ」
ナツミさんに操船を替わったリジィさんが、操船楼から下りてきて教えてくれた。
「この船の操船楼にはコンパスという方向を知る道具があるんですが、バレットさんの船にもあるんでしょうか?」
「カイト様が作ってくれたにゃ。他の氏族は分からないけど、トウハ氏族の船にはほとんど付いてるにゃ」
そんなことを言って、家形の中に入って行ったリジィさんが再び俺の前にやって来た。
「これにゃ」と言って手を広げた中には、ガラスの上蓋が付いたコンパスあった。5cm四方の小さな小箱の中に針の上でバランスを取っている指針が磁石なんだろう。
海人さんはいろんな道具を教えていたんだな。
「これを持ってれば、カタマランで3日の航海なら、地図さえいらないにゃ」
大事そうに再び家形の中に持って行ったけど、あのコンパスはリジィさん達が夫婦で漁をしていた時の思いでの品なんだろうな。
今では氏族の島で朽ち果てるだけの船だったんだろうけど、その船で喜怒哀楽の生活を送っていたに違いない。
縮尺も適当な海図だけど、方向はきちんと書かれていたのはコンパスを使って進路を正していたってことなんだろう。
となれば、遠洋漁業的な活動ができる地金があるってことになる。
「雨が来るにゃ!」
大声で屋根からマリンダちゃんが俺達に告げると、大急ぎでハシゴを下りてきた。
思わず舷側から身を乗り出して前方を見ると、まるで滝が近づいているような光景が飛び込んできた。
慌てて、家形の壁近くに置いてあるベンチに場所を変えると、屋根代わりの帆布にバケツをひっくり返したような豪雨が降り注ぐ。周囲が暗くなってしまったが、ナツミさんは前を進むバレットさんの船が分かるんだろうか。
雨に当たらなくとも、飛沫で十分に濡れてしまいそうだ。このまま雨をやり過ごしたところで着替えよう。
「久しぶりの雨にゃ。乾季の雨は直ぐに止んでしまうにゃ」
リジィさんの言葉通り、一時あれほど暗くなった周囲がだんだんと明るくなってきた。
やがて、雨が去って俺達の上に明るい南国の太陽が姿を現す。
日差しが強いから、このまま着ていても衣服は乾くんじゃないかな? リジィさん達が着替えるために家形に入ったけど、俺はこのままでパイプを楽しんでいよう。
前方にリードル漁の船団が見えてきた。
ここまでくれば、俺にだって氏族の島に操船できるはずだ。太陽はだいぶ傾いているから、やはり氏族の島に到着するのは深夜になりそうだ。
操船をマリンダちゃんに交代して、ナツミさんがハシゴを下りて来る。夕食の準備に入るのかな。
「少し速度を落としたみたい。島に到着する時間を考えているようね。夕暮れ前後の入り江の混雑をさけるみたいね。お腹を空かせてたら、操船でイライラしそうだから丁度いいわ」
「食事が終わってから入り江に入るってこと?」
「今の速度なら、そうなるわ。さすがに筆頭漁師と呼ばれるだけあると思うわ。そんなことまで考えるんですもの」
そうなのかな? まあバレットさんは筆頭漁師なんだから、色々と考えて俺達の模範となる存在なんだけどね。
俺には嫁さん達に頭が上がらない、飲兵衛な親父さんに見えてしょうがない。確かに銛の腕は一流なんだけど、普段の行いを見てるとなんとなくそう思えてしまう。
夕暮れ前に交代して食事を取り、俺達が氏族の島の入り江でバレットさんと別れた時には、すっかり夜になっていた。
ゆっくりと入り江の中を進み、オルバスさんがいつもカタマランを停める南橋の桟橋に向かう。
いつもの場所には、オルバスさんやグリナスさんのカタマランが見えないから、まだ帰島していないということになる。
ゆっくりと船を進めるなら、もう数日は掛かるかもしれないな。俺達は漁に出ないで帰りを待っていよう。




