M-009 大きなバッシェ
漁に向かうカタマランの甲板で、オルバスさん達に魔法を覚えたことを話したところ、呆れかえった表情をしていたのは意外だった。
「魔法は、【クリル】と【リトン】を覚えるべきだったな。自分の船を持つのはまだ先になるから、それまでに【リトン】を覚えるのだ」
どうやら、女性と男性で覚える魔法が異なるらしい。
【クリル】は男性女性とも共通とのことだが、氷柱を作る【アイレス】は女性が覚える魔法とのことだ。男性が覚える【リトン】は光球を作る魔法と教えてくれた。
「昔は夜釣りをする時にランプを使ったらしいが、カイト様が周囲を明るく照らす魔法について商船の神官様と話し合ってくれたのだ。それでネコ族は【リトン】という魔法を知ることになったのだが、今では夜の漁に欠かせない魔法になっている」
やけに明るいランプだと思ってたんだけど、あれは魔法だったんだな。
30cmほどの立方体に木枠を組んで、周囲を布で張ったような代物なんだけど船尾甲板の左右に1個ずつ掲げただけで、夜釣りには十分な明るさを提供してくれる。その真下で、釣り上げた魚をナツミさん達が捌いているけど、明るさは申し分ないと話してくれた。
あれが【リトン】だとすれば、俺が覚えれば十分じゃないかな? ネコ族の人達が1日で使える魔法の回数は6回程度らしい。その回数を有効に使うために男女で覚える魔法の種類が変わるのだろう。
今回の漁は、氏族の島から1日西に向かった場所になる。
サンゴの繁茂した海底をよく見ると、穴が開いたような砂地が見える場所がある。そんな穴の大きいところに船を停めて、夜釣りを行うのだ。餌を求めてサンゴ礁から穴にやってくる魚を狙うらしい。
「狙いはバヌトスだ。ヒレが尖った針のようだから取り込み時には気を付けるんだぞ。上手く行けばバッシェが釣れる。胸ヒレが長いから直ぐに区別できるはずだ」
「シメノンがやってきたら、シメノン釣りに変更だ。仕掛けはこれを使うんだが……」
グリナスさんが船尾にあるベンチの蓋を開けて道具を見せてくれた。どう見ても餌木だよな。となれば、シメノンはコウイカということになりそうだ。
「これもカイト様ということですか?」
「そうだ。おかげで一気に俺達の暮らしが良くなったと聞かされている」
確かタックルボックスに入ってたはずだ。キャンプでの食材はなるべく自分達でが基本だからね。
「餌木じゃない。ここでも使うのかしら? 私も持ってるわよ」
グリナスさんが後ろを振り向いて、声の主であるナツミさんを見上げている。
「使えるのか?」
「もちろんよ。お父さんに教えて貰ったわ。ちょっと待ってね」
俺達の荷物を包んであるゴザをめくって、細長いバッグを取り出している。中から出したのは2本繋の細身の竿のだった。リールも付いているみたいだな。小さなタックルボックスと一緒に俺達のところに持ってきた。
「これが私の道具よ。餌木も色々あるんだけど、これでいいのかしら?」
「餌木だけで、これほど種類があるのか? この辺りでは、今ナツミが持っている形になるな。それにしても、針が2段とは……」
グリナスさんの持ってきた餌木は、餌木のお尻に6本の返しの無い針がついているだけだ。それに引き換えナツミさんが取り出した餌木は綺麗に色付けされたものだし、お尻には10本以上の針が円周上に2段付いている。
「昔からの工夫が積重なっているんです。たぶんこちらで暮らしていたカイト様も、この形を作りたかったのかもしれません」
「やはり、カイト様と同郷ということになるのだろうな。不思議な話だが、それならアオイが聖痕を持つのも分かる気がする」
シメノンが現れたらナツミさんの腕が分かるな。オルバスさんの激励に手を振って答えたナツミさんは道具を持って屋形に入って行った。
「シメノンの群れは一時的なものだからな。釣り人が多い分には困らんぞ。捌くのは後でも十分だ」
「それで、アオイも竿を使うのか?」
「手釣りでやってみます。道具を用意しておけばいいですね」
俺の竿は船竿だから2mほどの長さで胴調子だ。リールも両軸だから底物を狙うにはいいんだけど、上物にはあまり適さない。コウイカならナツミさんのような竿にリールが一番なんだけど、今回のキャンプには持ち込んでこなかったからなぁ。
目的地が近づくと、サンゴの穴を探して海域をゆっくりとカタマランが進んでいく。
しばらく時間が過ぎたところで、カタマランが停まり、アンカー代わりの石が投げ込まれた。
俺達は夜釣りの準備を始め、ビーチェさん達は夕食の準備に取り掛かる。
カタマランのカマドは2つあるから、ご飯を炊きながら調理ができるようだ。でも、話を聞くとこれも海人さんが始めたものらしい。昔は1つのカマドしかなかったということだ。
まだ夕日も沈まない時刻に夕食を終える。
ビーチェさん達が何やら作り始めたけど、今夜の夜食の準備なのかな? おいしそうなスープの匂いが漂ってきた。
「今夜は団子スープだ。結構美味しいぞ」
「なら頑張らなくちゃなりませんね。俺はここでいいんですか?」
オルバスさんがパイプを咥えながら頷いているから、船尾の左側で良いということだな。グリナスさんが右の舷側で準備を始めている。オルバスさんは仕掛けの入ったカゴを持って、屋形の屋根の上を船首に向かって歩いて行った。
カタマランに設けられた屋形の、左側船尾近くに設けられた操舵席に上るためにハシゴがあることは知っているんだが、屋根の上までハシゴが続いていたのは、屋根を歩くためだったのかもしれないな。
一夜干しの大きなザルも屋根に干しているから、カタマランの屋形はかなり丈夫に作られているのだろう。
ナツミさんがお茶を持って来てくれた。俺の隣に腰を下ろして一緒にお茶を飲む。この世界で初めて会った時にはドキリとする格好をしていたけど、この頃は、袖の無いランニングシャツを着ている。裾が長いからまるでワンピースのようにも見えるけど、俺の通っていた学校名と背番号が刺繍されているから、ヨット部のユニフォームなのかもしれないな。
「シメノンが見えたら、私もここに来るからね。それまではトリティさんの指導を受けることになりそうだわ」
「俺も捌くぐらいはできるんですが、ネコ族の役割分担はかなり明確ですからねぇ」
「男尊女卑というわけじゃないのよ。ある意味家長制度があるようにも思えるけど、家船の暮らしだから、そうなってるんだと思うわ。トリティさんに聞いたけど、カヌイという女性だけの組織もあるらしいわ。実務は長老達が行って、神を祭るのはカヌイが関与すると教えてくれたの」
氏族の精神世界は女性が取り仕切っているのか。となると、海人さんのお墓も一度お参りしたいところなんだが、氏族の村にお墓があるんだろうか?
お茶を飲み終えると、ココナッツのお椀をナツミさんが持って俺の傍を離れて行った。
すでに夕暮れが終わり、南の空が赤い帯を見せているだけだ。
「アオイ、そろそろ始めるぞ!」
グリナスさんが2つの照明器具を下ろして呟いたのは【リトン】の魔法になるんだろう。直ぐに箱の中から柔らかい明かりが周囲に広がった。
2つの照明器具で船尾の甲板は明るく照らし出される。船首付近にも明かりが灯ったのはオルバスさんが魔法を使ったに違いない。なるほど、【リトン】は必要になるな。
夜釣りの餌は、氏族の島で俺とグリナスさんが釣った小魚の切り身だ。小指ぐらいの皮が付いた切り身なんだが、これを食べようとするなら30cmは超えているだろうな。
枝針を2本付けた同付き仕掛けを下ろして、直ぐに底から1mほどの棚を切る。
いくらサンゴの穴だとは言え、底にはいろいろとありそうだからね。重りの小石が引っ掛かりそうだ。
潮流はかなり緩めだから、仕掛けはほとんど垂直に下がっている。
たまに竿を上下させて誘ってみるけど、当たりはまだないな。グリナスさんは竿を舷側に置いて、パイプを楽しんでいる。
俺も一服を始めようかと、傍らに置いた防水ケースを取ろうとした時だ。
いきなり竿が暴れだした。
立ち上がりながら竿を立てるようにして大きく合わせると、竿先が海面に付きそうになるほど引き込んでくる。かなりの大物だな。ドラグを掛けていてもジージーと音を立てて糸が出ていく。
道糸が20号でハリスが3号だから40cmでもゴボウ抜きはできる。しばらくリールのドラグを絞って魚とのやり取りをしていると、少しずつ糸を巻くことができるようになってきた。
「浮いたらこの中に誘導するにゃ!」
いつの間にか、隣に大きなタモ網を持ったマリンダちゃんが立っていた。
「もう少しだ。任せとけ!」
竿とリールのドラグの力を借りて、どうにか魚が浮いてきたのが分かる。水深は10mも無いんだろうけど、この魚は何なんだろうな? 底物には間違いないだろうけどね。
「見えてきた! タモを入れてくれ」
俺の言葉を聞いたマリンダちゃんが直径50cmはありそうなタモ網を甲板近くに沈めてくれた。
さらにリールを巻き取り、竿を操ってタモ網の中に頭を入れると、マリンダちゃんが「エイ!」と大声を上げてタモ網の柄を引いた。
バシャバシャと跳ね上げる水を気にせず、マリンダちゃんの持つタモ網の柄を一緒になって甲板に引き上げる。
バタバタと暴れる魚の頭に棍棒で一撃を与えたのはトリティさんだった。
途端に大人しくなったけど、動き回る魚の頭を一発で気絶させるんだから、すごい動体視力の持ち主なんだろう。
「バッシェにゃ。近頃珍しい大きさにゃ」
口に片手を入れて、マナイタを置いてある場所に向かいながらナツミさんを呼んでいる。早速、授業が始まるのかもしれない。
「マリンダ、こっちも掛かったぞ!」
介添え人のマリンダちゃんは忙しそうだな。改めて餌を付けた仕掛けを投げ込んで、とりあえずは一服を楽しもう。
深夜近くまで魚を釣ったところで、夜食が始まる。少し酸味のあるスープに入っていたのは、一度焼いた米粉の団子だった。
これも中々に美味しい。団子なら串に刺して炙ったところに魚醤を掛けて食べたいところだが、トウハ氏族はスープの中に団子を入れるという風習なのかもしれない。
とはいえ、何となく故郷を思い出させる味でもあるんだよね。




