N-124 神亀とマイネ
午前中に素潜り漁を行い、午後は根魚を釣る。
そんな漁をしていた2日目の夕暮れ時だった。
突然にピィィーっと鋭い笛の音が聞こえた。びっくりして笛の音の方向を見ると、ラスティさんが大きく手を振りながら南を指差している。
そこには、ゆっくりと海面を滑るように動く岩が見えた。
「神亀にゃ! 皆、小屋から出てくるにゃ」
ビーチェさんの言葉に俺達はジッと南の岩を眺める。
確かに亀の甲羅にも見える。岩が動くわけは無いから、ビーチェさんの言うとおり、あれは神亀なんだろう。
他氏族の見習いの顔でも見に来たんだろうか? それなら、あの4人は神亀の覚えがめでたいと言う事になるから、漁の腕を上げなければなるまい。ある意味、プレッシャーになりそうだな。
「あれが神亀にゃ。大きいにゃ……」
サリーネが小さく呟いて、マイネの手を握って神亀に手を振らせている。
途端、神亀の進行方向がこちらに変ったのは偶然なんだろうか?
近付くにつれ、その大きさが実感してくる。トリマランと同じくらいの甲羅の大きさだろう。
トリマランから10m程離れた位置でぴたりと止まると、にゅうっと海中から頭が海面に浮上してきた。
神亀のやさしい眼差しの先にはマイネがニャァ、ニャァ言いながら手を振っている。
「マイネを見に来たのかにゃ? トウハ氏族のカヌイに確定にゃ!」
ビーチェさんがそんな事を言ってるけど、それは親が決めるものではなくマイネの意思にして貰いたいな。
神亀が頭を伸ばしたまま、トリマランに近付いてくる。依然としてサリーネが抱いたマイネから視線を離さない。
やがて甲板から直ぐ傍にやってきた。1mを超える頭が甲板に伸びてくる。
ニャァニャァと機嫌のよいマイネをサリーネガ神亀の顔に近づけると、マイネが神亀に向かって小さな手を伸ばす。
その手に、神亀は口を開いて、小さな宝石のような物を握らせた。
マイネから視線を俺に移すと、しばらく俺を見ていたが、来訪時と同じように静かにトリマランから離れて行った。
「マイネは、神亀に気に入られたようだね」
「帰ったら、氏族会議にはバルテスが報告するにゃ。カヌイには私が話をしに行くにゃ」
かなりの騒ぎになりそうだな。
マイネは神亀に貰った魔石のようなものを掴んでにこにことご機嫌なんだけどね。
遠くに離れた神亀が海中に沈んでいく。
既に夕暮れが終わろうとしているのだが、トリマランに周囲のカタマランンが寄せて来ると、男達が次々に甲板に飛び移ってきた。
口々に今の出来事の真意を訪ねてくるのだが……。
とりあえず甲板に座って貰い、サリーネ達にお茶を頼む。パイプを取り出してタバコを詰めると、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
「俺も、さっきの出来事には驚いています。ある種の兆しなのではと考えていましたが、単にマイネに会いたかっただけだと今は考えてます。マイネに手土産を渡して帰って行きましたし」
マイネをビーチェさんから受け取ると、しっかりと握って離さない魔石のような物を皆に見せてあげた。
「神亀を身近に見たものは、前回の俺とカイトの2人だけだ。今回は漁に来た全員が見ているし、神亀からの贈り物等聞いたこともない。父さん達に何かあったのでは?」
「そんなことは無いにゃ。それなら、マイネに向かってやさしい目をすることもないにゃ。そうだとしたら、バルテスやラスティの船に神亀は向かうにゃ」
ラディオスさんの言葉にビーチェさんが即答した。俺も最初はそれが気になったんだが、やはりビーチェさんの言う事が正しいと思う。
神亀のあの目は、大きくなったら遊んであげよう……と俺には写ったからな。
「とにかくだ、これは早くに氏族の島に戻って報告する事に違いない。漁は上手く運んで保冷庫には獲物が一杯だ」
「俺もそう思う。速くに長老に伝えるべきことだろう」
急遽、氏族の島に帰ることになった。
ザバンを引き上げ、準備ができたことを白旗を上げて合津する。
ブラカの合図でサンゴの崖を離れたのは、俺達の話し合いが終わって1時間も経たないうちだ。
先頭を進むバルテスさんはかなり船足を速めているみたいだ。トリマランの3つ目の魔道機関をライズが先ほど起動している。これなら、明日の昼ごろには帰りつくんじゃないか?
「マイネはどうなるんでしょう?」
「将来はカヌイの長になるにゃ。でも、それまではトウハ氏族の誰かのところで暮らすことになるにゃ」
結婚して老後は……、と言うことだろうか?
それなら問題なさそうだが、小さい内から巫女として育てられるのはちょっと可哀想だ。
・・・ ◇ ・・・
氏族の島に到着したのは、案の定昼過ぎの事だった。
バルテスさんとガリオンさんがカタマランを桟橋に繋ぐと桟橋を走って長老のいる小屋に向かう。
ビーチェさんも桟橋を歩いて行ったから、カヌイの人達が住まう小屋に向かったのだろう。
残った嫁さん達が、獲物を入れたカゴを担いで燻製小屋に運んで行く。
俺はマイネと一緒にお留守番だ。
いまだに、神亀から貰った魔石のような球を片手でしっかりと握っている。
手にくっ付いているわけではないんだと思うけど、気になるよな。
左手をマイネの前に広げると、俺の手にポトリと球を落としてくれた。
顔に近づけて良く見ると、魔石とは異なるようだ。濃い緑の澄んだ宝石に見える。カットしたらさぞかし綺麗だろう。
なんか脈動した光を放っているようにも見えるな。
マイネに再び握らせた時、俺の聖痕も同じタイミングで光を放っている。
聖痕と類似のものなんだろうか? まあ、子供の物を取り上げるのも問題だろう。このまま持たせておくか。サリーネに商船でこれを入れる袋か何かを買って貰って首から下げておけば良いんじゃないかな。
俺達は船で暮らしてるから落したりしたら大変だ。
マイネと遊んでいると、ラディオスさん達も子供と見習いを連れてやってきた。
嫁さん達が帰らないからお茶も出せないけど、誰もそんな事はきにしていないようだ。天幕の影の下に集まって、子供を遊ばせながら俺が抱いているマイネを見つめている。
「兄さん達より、母さんの方の話が問題だな」
「これで氏族も安泰じゃ。なんて長老は言い出すだろうけど、マイネは氏族の女の子だ」
俺みたいな状況は長老の意見が重視されるが、それは俺が男だからなのか?
ネコ族の社会は男尊社会に思えるけど、女卑って事にはなっていない。それに男尊というより、その家の率いてである父親に皆が協力しているって感じなんだよな。
仕事の役割分担もしっかりしてるしね。
「こいつ等は、神亀を初めて見たと、夕べは興奮してたしな」
「まあ、氏族の連中だって見た者は限られてる。サイカ氏族では初めてに違いない」
「ですが、龍神を見た者はいるんですよね」
俺の言葉にラディオスさんが頷く。
「ネコ族に2人現れる聖痕の持主。トウハ氏族のカイトにサイカ氏族の……」
「グスタン様です。すでに50歳を過ぎてますけど、漁の腕はサイカ氏族で一番です」
大きな声で教えてくれたのは、ラディオスさんのところの見習いのバドルだな。
自分達の誇りに違いない。自分の声に皆が顔を向けたから恥じ入って小さくなってるけど、もっと胸を張るべきだと思うな。何といってもサイカの誇りに違いないのだから。
それを自分に向けて考えると、恥ずかしくもあるな。
まだまだ漁の腕は、エラルドさんやグラストさんに遠く及ばないような気がしてならない。
一族に良かれと思ってしてみても、結果が氏族の一部に限られてしまうのが問題だな。
それでも、氏族全体で見れば素潜り漁が出来ない人達の生活が楽になっているらしいから、エラルドさん達が評価はしてくれてるんだけどね。
桟橋を足早に歩いて来る一団が見えた。
姿からするとバルテスさん達だな。数人が後ろについて来るけど、あまり走った事が無い足取りだ。ひょっとして長老が全員やって来たって事か?
「皆揃ってるな。長老達が是非にと言うので案内してきたぞ」
先ぶれに現れたバルテスさんの後ろで、隣接したラディオスさんのカタマランの甲板をこちらに歩いて来る一団は、確かに長老達だ。全員で来たんだろうか?
「……カイト。久しいのう。元気でやっておるようじゃが、抱いておる娘子が持っておるのがそうじゃな」
長老達が俺に近付いてやさしい目をマイネに向ける。
マイネがにこりと微笑むと、長老達に手に持っている球をしっかり握って差し出している。
「やはり、言い伝えの通りじゃな。カヌイ達にも知らせを出したと聞いておる。詳しくはカヌイが教えてくれるじゃろうが、トウハ氏族の益になることは確かであろう。誰もその子の持つ宝玉を奪う事は出来ぬ。その子が宝玉を持つ限りトウハ氏族を害する者はおらぬ」
そんなところにようやく嫁さん達が帰ってきてくれた。
長老に挨拶すると、直ぐにお茶の準備を始めてくれる。サリーネが俺からマイネを抱き取って、隣に座った。
「さて、我等もここで待たせてもらうぞ。カヌイの伝承は我らよりも奥が深い。聞いてみるつもりじゃ」
甲板には俺達だけだけど、ラディオスさんのカタマランの甲板には、氏族の男達が異変を嗅ぎつけて集まっている。
あまり集まって沈没しても大変だから、ラディオスさんが席を立って人数制限に向かったぞ。
カヌイのご婦人が、年老いた老婆の肩を支えながら現れたのは俺達がお茶を飲んでいる時だった。
どうにか、トリマランの甲板に歩いて来たのだが、マイネの手を見るなり、支えていたカヌイのおばさんの手を振りほどいてマイネに走り寄った。
その手に握る宝玉をジッと見ている。
おずおずとマイネに手を伸ばすと、マイネは抱っこしてくれるものと思って両手を伸ばした。
老婆が自分の胸に抱いたマイネをジッと見つめて微笑んでいるが、全くの無言だ。
そんな老婆の前に、おずおずとライズがお茶を差し出している。
「……トウハ氏族は数百年前に大陸での戦に敗れてこの地に逃れたネコ族の末裔じゃ。我らがやってきた時には、すでに千の島に暮らす人々がいた。我らはその者達をいつしか取り込んでしまったのじゃが、その者達の間にあった信仰は今では我らの信仰となっておる。
龍神信仰がそれじゃな。先人達と我らの血が混じったことで、ネコ族は2人の聖痕を持つ者が現れる。その加護は確かに信仰の通りじゃ。
その信仰の中に、ワシも疑うものがあった。ワシに教えてくれたカヌイも疑っておった……。神亀の宝玉と呼ばれるものじゃ。
神亀は、自分の分身を作る。その分身に自分の魂の一部を使って宝玉を与える。
宝玉は深山の緑に輝き、決して他者が奪う事は出来ぬとあるぞ」
長い話が終わると、老婆は一口お茶を飲んだ。
「ただの宝玉であれば、何も問題が無い。じゃが、この宝玉の持主は自由に神亀を操れるのじゃ!」
俺達は、一斉に老婆とその胸に抱かれたマイネを見つめた。
驚いて声も出ない。




