嶋の屋形
大臣蘇我馬子の家は、飛鳥川の辺り(ほとり)にある。
飛鳥では並びない大きな豪奢な屋形で、庭には小さな池があり、その池の中央には、小さな 人口の嶋が浮かぶ。この屋形が嶋の屋形、主人の馬子が嶋大臣と呼ばれる所以である。
(子どもの頃は、もっと大きな屋形だと思ってたけどな)
母屋の脇に、建てられた高楼に立ち、入鹿はこの屋形を上から眺めた。中庭に広がる池、池の回りにめぐらされた石。池の真ん中に浮かぶ緑の草が生い茂る嶋、池を渡す橋。そして、池を取り囲むように建てられた母屋。
一番西の端が、馬子の娘の刀自古郎女と厩戸王子の部屋だった。
片岡とこっそり覗きに行っても、回廊を歩く足音で、いつも気づかれていた。自分たちを待ち構えていた、厩戸王子の笑顔は、今もよく憶えている。
自分の娘である片岡と、妻の甥である自分を、分け隔てない公平な態度。膝に乗せては、仏典を説いてくれる、穏やかな伯父が入鹿は好きだった。
(人としても、為政者としても、尊敬出来る人だったのに)
父の死を、片岡はどう受け止めているのだろう….
自然に、あの雪の朝を思い出す。泣くことも出来ずに、また心を凍らせてなければいいのだが。
あの時みたいに慰めるには、距離と立場が違いすぎる。やりきれない溜息は、生暖かい春の空気に霧消した。
今朝、この屋形に蘇我の係累が全て集められた。
老いも若きも、総勢30名余り。彼らの長である、馬子は淡々と伝えた。
「厩戸王子が身まかられた――」と。
突然の訃報に、一同がさわぎだす。
よもや…と絶句する者、そっと涙を拭う者、今後の斑鳩を蘇我を憂える者。
様々な思いが、広間を包み、言葉となって、溢れ出した。
「静まれ!」小柄な馬子の何処からこんな声が…と思う大音声で、馬子が一喝する。
水をうったように静まり返らせて、馬子は次の話を続けた。
斑鳩宮では、間人大后・菩岐美々郎女耳・厩戸王子が次々に亡くなっていること。流行り病の可能性が高いので、彼等の遺体を速やかに早急に安直したいこと。
河内磯長に、建設中の陵がもう少しで完成をするので、そこに三人を葬ること――と。
馬子の伝達は、前代未聞のことだらけだった。
殯は、死者の魂を鎮める儀式。
大王の殯などになると、盛大に長期に渡って行われて、一年以上も、殯が行われることも珍しくはない。
それを、能う限り早くー?
そして厩戸王子は、母の間人大后、妃の菩岐美々郎女と、同じ陵墓に眠るという。
これも通常ならばあり得ない。
菩岐美々郎女は膳夫臣の出身の女性だ。厩戸の妃の中では、その位は高くない。その彼女が、死後の世界では、恰も(あたかも)厩戸王子の正妃であるが如く、永久に共に眠り続けるのだ。
厩戸王子には他に、橘大郎女という現大王の孫に当たるれっきとした正妃がいるのに。また、先年亡くなった馬子の娘の刀自古郎女も差し置いて…、と蘇我の面々の中にも、露骨に顔をしかめる者もいた。
仮に、斑鳩宮の意向であっても、厩戸皇子の舅でもあった、祖父馬子が口を挟まないのも不思議だ。
先程の馬子の言葉。声は大きかったが、気持ちは籠っていなかった。
決められたことを、ただ淡々と遂行しさえすればいい、そんな投げ槍な態度が透けて見えたのは、事を踏まえての穿ち過ぎな見方か。
そして、馬子の話が終わり、銘々が腰を浮かせ、解散となってから、一人の男が入鹿の元に来た。
背は高くないが、恰幅が良く、厳めしい顔つきの馬子とは違う存在感のある壮年の男――父の毛人だった。滅多にこういった場で、父が自分に話しかけてくることはない。
(珍しい)
驚きが先に立ち、言葉が出て来ない入鹿に、毛人は言葉短に言った。
「厩戸皇子の殯、そなたは行かずとも良いからな」
「何故です?」
「元々殯宮は、肉親が集う別れの場。血の繋がりも薄いそなたが行く必要はない」
「しかし…」
自分は山背や片岡とは、兄弟同然に育っている。反駁しようとしたが、毛人は既に入鹿に背を向けて、別の者に話しかけようとしていて、入鹿は重ねて父に問うのは諦めた。
身内と言っていい厩戸王子の死に際し、祖父も父も何処か冷たい。
(厩戸皇子亡き後、蘇我は斑鳩と深く関わらぬということか…?)
額田部王女を大王として頂点に据え、馬子が大臣、厩戸皇子が皇太子として、両脇から彼女を支える――。
三者が、微妙な力加減を保ちつつ、国の政を動かした時代は終わった。
では、次はどんな時代になり、誰が権力を握るのか――。入鹿には想像もつかない。
まだ、18の入鹿は、複雑な朝廷の権力図からは、蚊帳の外だった。
「大郎君、こんな処にいらしたのですか」
息を切らしながら、高楼を上がって来たのは、乳兄弟の永刀だった。
「お探ししました」
「何だ」
一度は永刀を振り返ったが、再び手すりに両肘をつき、眼下の庭の方に、視線を落として、入鹿は尋ねる。
「大臣様が皆に、酒肴を用意したので、時間があるなら、寄って行けとのことですが…」
(面倒な)
溜め息が出る程、億劫な席だが、断る理由も見つからない。
「如何されますか?」
重ねて永刀は問いかけてくる。
「わかった」
入鹿は渋々頷いた。
時が時だし、急な集まりでもあったから、並べられた食膳は、然程豪華な物ではなく、酒も地味な銅製の器に入れられ、饗された。
なかなか一堂が集結する機会はないから…という配慮は、派手好み、お祭り好きな馬子らしいが、正直、蘇我の家の者は、決して一枚岩ではないし、仲も良くない。例えば、馬子の弟である境部臣摩理勢と、入鹿の父の毛人は、互いに馬子亡き後の、蘇我の長は自分だ、という自負心からか、ろくに目も合わさない。
入鹿と毛人も、傍目には、血の繋がった親子なのかと信じられない程、会話が態度がよそよそしい。
我が強過ぎて、譲歩して歩み寄る者がいないのだ。
だからこそ、この国の大臣という大任を果たし得るのかもしれないが、正直、
(共に酒を酌み交わして楽しい面子じゃあない)
末席に近い位置で、入鹿はちびちび舐めるように酒を飲んだ。
座を覆う、重苦しい空気を断ち切ろうとしてか、馬子の弟で、馬子に次ぐ年長者の摩理勢がとんでもないことを言い出す。
「座興が欲しいのう。誰ぞ楽でも奏でぬか」
言いながら、一座を見回した摩理勢の目が、入鹿の元で止まる。
(勘弁してくれ)
こんな空気の中では、響く音も響くまい。
御免蒙ると、うまい辞退の口実を考えていると、口を挟んだのは、父の毛人だった。
「厩戸王子の身罷られて、すぐの折。これは宴ではありますまい。楽など奏で、浮かれるのは如何かと」
毛人の取り澄ました顔に、摩理勢の表情が怒りで、見る間に赤くなっていくのが端からでも、手に取るようにわかった。
「ほう、わしが浮かれていると申すか」
「そうは申し上げていません」
舌鋒鋭くなる摩理勢を、飽くまで毛人は冷静にかわす。
その冷ややかさも、摩理勢にしたら腹の立つ。要は、考え方も性格も、根本的に合わないのだ。
「そもそも、厩戸王子が身罷られて…などと、殊勝なことをほざいていたが、其許は、殯にも出ぬというではないか。
恩義ある王子に人も無げな振る舞い。浮かれているのは、そちらではないのか?」
「父が宗家の代表として出れば礼には適っております」
「二人ともやめんか」
聞いてられぬ、とばかりに、大声をあげ、二人を制したのは馬子だった。