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杉浦はしばらく居心地が悪そうに隅っこの方でもじもじとしていたが、お客さんがいなくなったのをいいことに、恵梨が少し早いけれど閉店の札を出しましょうと言ってしまうと、途端に元気になった。その態度を見て、恵梨は杉浦を睨みつける。
杉浦の方が分が悪いせいなのか、悪戯がばれた子供みたいにしゅんとなる。本当に小さな子供みたいなその様子に、美雪は内心笑いたくなってしまった。
きっと、これは簡単に済むような話ではない。それはわかるけれど、何となくそう思ってしまったのだ。
「あのね、晃。どういうことなのか、説明してくれる? どうして彼はここまで来たわけ? この前言っていたことが、原因なの?」
「……まあ、そういうことになりますかね。俺としては、不本意極まりないんですが」
「何言ってんの。大体ねぇ、そもそも、あんたたちが作った揉め事なんだから、こっちを巻き込まないようにすることくらいはできないの? それに、美雪ちゃんに一人で対応させるなんて羽目になったの、可哀相だと思わないの?」
「……恵梨ってば冷たい」
しくしく、と付け加えて、杉浦は大袈裟に泣き真似をして見せた。
恵梨はそれを見て、大きく溜め息をつく。
「あんたと友だちになったのって、私の一生の不覚かも……」
「何だよ、それはっ」
腹立つなぁ、付け足した杉浦は、その瞬間、気づいたように美雪を振り返った。
「……あ、そだ」
にこっと、笑って。
何かそういう笑顔は可愛いなぁ、なんて、美雪が些か間の抜けたことを考えていると、彼はすたすたと美雪の方に近づいて来た。
「ごめんね、ありがとう。びっくりさせたかな?」
「いえ、別に……。っていうか、私、何もしてないし」
「うわぁ、何もしていなくても恩を着せる恵梨とは大違い。いいねえ、素直で」
「あんた、話し方に親父が入ってるわよ」
後ろから冷たく恵梨が突っ込みを入れ、杉浦は笑顔を引きつらせた。
でも。
何か、そういうところも可愛い。
男の人を相手に、そう思ったら変だろうか、と、美雪は思う。
実際、それを聞いて褒め言葉だと思わない人も多いかもしれないけど、何故だかそう思ったのだ。
「あ、恵梨。ひょっとして怒ってる? 巻き込むなって、言ってる? もしかして」
「もしかしなくても、よ。ま、今更何を言うか、だけどね」
溜め息交じりの返答に、杉浦は答えに詰まってしまった。
バツの悪そうな顔をして口を尖らせた様子を見ていると、とてもではないけど美雪よりも年上には見えない。元々、恵梨がかなり大人びた感じの女性だから余計にそう見えるのかもしれなかった。
居心地悪そうに、額の前髪をかき上げて。
そんな仕草に、ちょっとだけドキッとした。
彼は意識しているわけではないのだろうけど、妙に色っぽい感じがしたのだ。
「……? 何か?」
美雪の視線に気づいたのか、杉浦は不思議そうにそう言った。
あんまり見つめていたら、まずいかもしれない、と、美雪は目をそらそうとした。
逆に杉浦が美雪のことをじっと見つめていて、その眼差しにますますどきりとする。
杉浦が自分のことを見ている理由がわからなくて、美雪は困惑した。
それは、嬉しいことなのかもしれない。けれど、心の準備がないから心臓が飛び上がりそうだった。
「……美雪」
何か思いついたことがあるかのような軽い感じで、杉浦は美雪の名前を呼んだ。
「はい? 何ですか?」
反射的に、美雪は普通に返事をしてしまう。いきなり呼び捨てにされていることを、気にする余裕もなかった。
「あのさ、俺、今決めた。君にお願いがあるんだけど、いいかな?」
そう、杉浦が言って。
美雪の方をにこにこして見ながら。
その茶目っ気のある雰囲気の割には意外と艶っぽくて低い声で、美雪に言った。
「やっぱり、俺の恋人になって欲しいな。ダメ……?」
と。
あんまりな展開に、美雪は思考回路が停止状態になってしまった。黙ったまま、ぼーっと杉浦の顔を見ていた。
誰かが録画していたとしたら、もしかすると口も開きっぱなしだったかもしれない。
杉浦が自分に言ったことの意味が、すぐには理解できなかった。考えてもいなかった杉浦の言葉に、美雪の経験値の少ない頭脳はパニックだった。たぶん、さっき慎がお店に現れた時よりも、ずっと。
けれど。
美雪よりも驚いていたのは、恵梨だった。恵梨の驚き方は、まるで自分が交際を申し込まれたみたいな慌てぶりだった。
そんな恵梨を見て、杉浦はとても苛立たしそうな表情を作った。そして、恵梨を軽く睨み付ける。
「恵梨が何を言いたいのか、何となくはわかるけど。その先は、言っちゃいけないんじゃない?」
今までにない挑戦的な口調と、視線。
恵梨のことをまっすぐに見据えた瞳は、さっきの慎を思い起こさせるほど冷たい光を宿していた。
「俺、前にも言ったよね。ここで世話になるけど、俺は俺の生活をする。俺の行動に口を挟まないって約束したのは、そっちの方だ。違う?」
普段の子供っぽい言葉遣いと表情に隠された杉浦の本質が、ほんの少しだけ見えたような気がした。そして、そんなところはぞくぞくするくらいにカッコいいと、美雪は思った。
「わかってるわよ。それが、私とあんたの取り引き条件だからね。だけど、あんた一人で決めることじゃないでしょ。そういうことは、まずは相手の気持が一番大事なんだから」
「話をすり替えるなよ、恵梨。そんなの、わかりきっていることだろ?」
一瞬、どきりとするほどの冷たい眼差し。そんな小さなことにさえときめいてしまっている自分に、美雪は不思議なものを感じていた。
その瞳は、さっき見た慎の瞳の光にも似ていた。自分の意思を強く映した、そんなイメージを抱かせるもの。
その視線に負けたのは、結局、恵梨の方だった。
諦めにも似た溜め息をついて、美雪にバトン・タッチという仕草をした。軽く肩を叩いて、うろたえる美雪によろしく、なんて無責任なことを言って。
「まあ、美雪ちゃんが決めることだからね。二人で掃除でもしながら話したら?」
なんて、端から見れば無責任極まりないことを口走ると。
恵梨は、さっさと奥の部屋に引っ込んでしまった。
だから、どうしろと言うのだ。
わけもわからず置き去りにされて、美雪は困惑する。どうしたらいいのかわからないから、つい素直に言われた通りに掃除なんかを始めてしまったりして。
ふと顔を上げると、杉浦が美雪のことを見ていた。
相変わらず、子供のような大人のような不思議な感じの表情で、彼は、美雪のことを見ていた。
そんなふうに見つめられてしまえば、余計にどうしたらいいのかわからなくなる。身の置き所がなくて、どこか居た堪れないような感情さえ覚えてしまう。
美雪は、自分から告白したこともなければ、告白されたこともなかった。自慢ではないけれど、生まれてから今まで、恋人がいたことはない。だから、こんな時にどう反応したらいいのかわからなかった。
漫画やドラマなら、もっと気の利いた台詞で答えたりとかするのかもしれないけれど。
そんな器用なことが、できるはずもなくて。
「ねえ」
「は、はいっ」
思わずひっくり返った美雪の声を聞いて、杉浦はくすりと笑った。
その笑顔に、またドキッとしてしまう。
不覚にも、可愛い、とか思ってしまったからだ。
「迷惑、かな?」
額に落ちた前髪を無造作にかきあげて、ちょっと困ったような顔をして視線を泳がせる。彼は、美雪が返事を言うのを待っているのだ。
「君が迷惑だって言うなら、仕方がないからさ。さっきの、撤回するよ」
くるくると変わる表情が、とても印象的だった。
いつだって子供みたいで、それでも大人で、時々、どっちなのかわからなくなる。
「ね、言ってよ」
子供みたいにまっすぐに美雪のことを覗き込んで、杉浦はそう尋ねる。断れるはずがないのだ。こんなふうにされてしまったら。
そうでなくても、美雪は、彼のことが気になって仕方がなかったのだから。
完全に杉浦のペースに引きずられている自分に気づいて、美雪は苦笑するしかなかった。
それがいいのか悪いのか、今の時点で考えることなんてできない。
「……迷惑じゃ、ないです」
「じゃ、付き合ってくれるんだよね?」
「えっ、そうなるのっ!」
びっくりして声を張り上げた美雪に、杉浦の方が驚いたみたいだった。
「だって、俺、恋人になってって言ったんだよ? それについて迷惑かどうか聞いているんだから、迷惑じゃないなら付き合ってくれるってことじゃないの?」
きょとんとしてそう続ける杉浦に、美雪は、自分が口走っていることがめちゃくちゃだということに気がついた。
「いえ、あの、付き合うのはいいんだけど、心の準備が……」
「いいじゃん、これから考えれば。直感でいいのよ、そんなの。お試し期間もありってことにして」
「だって、まだ会ってからほんの少しだし」
「会った回数が問題になる? それは間違ってるよ。会った回数で恋愛が決まるなら、一目惚れなんてものは存在しないでしょ。何も知らないうちから始まったっていいじゃない。流行の歌にだって、そういう歌詞はたくさんあるでしょ。たとえば……」
なんて言って、杉浦は少し前に流行った曲のワン・フレーズを歌ってみせた。
いきなり歌い出すというのも、ちょっとびっくりだった。しかも、無駄に上手い。慎とは違ったタイプの歌い方ではあったが、充分に聴かせる歌を歌えるような気がした。これが、こういう場での鼻歌じみたものではなかったとしたら、聞きほれてしまうのではないかと思うくらいに。
何となく、力が抜けた感じがした。
確かに、そういうこともある。いちいち考えていたら、一歩も進めないかもしれない。
そんなことを考えている美雪の心を知っているのかいないのか、杉浦はにこにこと笑っているばかりだ。
「あの……?」
「恋愛は二人でするものだから、俺が一人で突っ走っても仕方がないんだけどね。俺は、君と付き合いたいって思った。それは本当。からかってないよ。本気だからね」
それは、断言。
自信たっぷりに、言い切っている。
「杉浦さん、あの」
「だーかーらー、晃。俺の名前。晃って言うんだ。そっちの方がいいな」
「……えーと……」
「ま、今すぐが無理ならそのうちそう呼んでよ。付き合えるだけで今はいいや」
その無邪気な笑顔で言ってのけて、彼は、美雪の言葉を待っている。
自分がどうしたいのか、美雪は言葉に詰まって考え込む。
いや、答えはとっくに決まっているのだ。
美雪は杉浦のことが好きで、杉浦は美雪に付き合って欲しいと言っている。だから、何も問題はない。ないはずなのに。
どうしたらいいかわからないのは、別のことだ。
高校生の美雪から見たら杉浦は大人で、そんな人が自分と付き合いたいと言っていることが信じられなかった。はっきり言ってしまえば、怖かった。
たとえば、子供っぽいと思われて、すぐにいなくなってしまうのなら、最初からいない方がいい。
「ホントに、私でいいんですか?」
勢い込んで美雪がそう言ったら、杉浦は逆に驚いたみたいだった。
「俺がいいって言ってるんだよ。どうして、そういうふうに言うの?」
「だって、私、まだ高校生だし、杉浦さんから見たら全然子供だもの。それに、杉浦さんは別の世界に住んでいるような感じがするし……」
「……あのさぁ、子供と大人の境界線ってどこにあるの? 悪いけど、俺はまだ子供のつもり。っていうか、俺の仕事は子供に戻っていないとできない部分もあってね。そうと言うより、大人になるのを忘れるんだよ。夢中だからね」
そんなことを言われたって、その仕事とやらが何なのかもよく知らないのだ。
でも、その言葉で少し気が楽になったのは事実だった。
お互いをよく知らないうちから始まる恋だって、あるかもしれない。
実際、美雪はもう杉浦のことを好きになってしまっているのだから。
慎の歌にも、そういう歌詞はあったような気が、する。
杉浦のことを知らないなら、これから知って行こう。自分のことも、知ってもらおう。
そして、美雪は。
その日から、杉浦と付き合うようになったのだっだ。