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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第3章 盃のゆくえ
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冷えたカモ

 翌朝。


 午前10時頃になって、俺は漫画喫茶を後にした。ホテルではないので「チェックアウト」という言い方は不適切。そもそも、ああいう店を宿泊に使う事自体、本来の用途から外れているという見方もある。


 しかし、宿泊代を節約するためには致し方ない。


 無駄にできる金などは、1円たりとも有りはしないのだ。余談だが、俺が極道社会に足を突っ込み始めた1998年頃から、漫画喫茶にはデスクトップパソコンが置かれるようになり、いわゆる「ネットカフェ」と呼び方が変わってきたような気がする。


 芹沢が迎えに来てくれる時期が未定である以上、潜伏生活は長期化を覚悟せねばならない。俺は利用できるものは全て、利用してやるつもりでいた。あらゆるものを“ツール”として巧みに活かし、用いていこうと心に決めた。前の晩に貰った紙切れも、そのうちの1つ。


『中川会直参本庄組 若頭 山崎吉人』


 この名刺の渡し主である山崎からは、チーマー集団撃退の褒美として食事に誘われている。彼は、それを“とびきり美味い飯”だと言った。ならば、それを利用しない手は無いだろう。時計の針が正午を過ぎるまで五反田の街をブラブラ歩いて、適当に時間を潰した後、記載されていた住所を頼りに目的地へと向かった。


『東京都品川区東五反田1丁目25-5』


 例の漫画喫茶から都道317号を経由して、5分ほど歩いた距離にあった。周囲にはマンションやアパートが建ち並ぶ住宅街で、ヤクザの事務所があるとは思えぬほど落ち着いた地域である。賑やかな歓楽街から少し外れた所に、このように歓声な場所があるとは全く想像できなかった。


 やがて、歩き続ける俺の視界には1軒のビルが飛び込んでくる。冷たい雰囲気を放つ、コンクリート打ちっ放し外壁。1階の一部が車庫になっていて、黒色のセダンが2台も止められていた。そして、玄関のドアの脇には、黒地に金色の字で「株式会社 本庄総業」と記された看板。


(ここが本庄組の事務所か……)


 暴対法が施行された1993年以降、ヤクザは事務所に「〇〇組」、「△△一家」、「××会」などと、組織の正式名称を掲げられなくなった。抗争沙汰が起こった際、同法の規定で立ち入り禁止命令を受けてしまうからである。


 ゆえに、組長の自宅が事務所の役割も果たしている村雨組などの場合を除き、多くの組では「〇〇総業」や「××企画」といった一般企業を装った名前が、表向きの“屋号”として用いられているのだ。


 本庄組も、きっと後者に当てはまるのだろう。思えば幼少の頃に行った親父の事務所も、ああいう雰囲気だった気がする。どこか懐かしさにも似た感覚を覚えながら、俺はビルの階段を上っていった。


「ん? 何だ? お前は」


 事務所のドアを開けるなり、応接係の組員がジッとこちらを睨みつけた。いきなり得体のしれない男が入ってきたのだから、当然だろう。門番としての役割も兼ねる応接係としては、至極まっとうな対応である。


「若頭の山崎さんに用があって来た」


「カシラに?」


「昨日、言われたんだよ。『あとで事務所に遊びに来い』って」


「は?」


 俺は、渡された名刺を取り出して見せる。


「こいつを貰った」


「……お前、名は何という?」


「麻木涼平。確認してもらえりゃ、分かるはずだぜ」


「分かった。ちょっと待ってろ」


 応接係は首を傾げながらも、玄関から入ってすぐの所にあった電話の受話器を取り、パチパチと番号を打ち始めた。そして、同じ室内に居合わせた他の組員に目配せする。


(ん?)


 すると、合図に呼応するかのように4人の組員がゆっくりと動き出し、こちらへ向かってきた。そして、玄関前に立つ俺の周囲を取り囲んだ。ただならぬ緊張感に、気持ちが張りつめていく。


「ああ? 何だよ」


「……」


「何だって聞いてるんだよ」


「……」


 いくら声をかけても、本庄組の組員たちは何も言葉を発さない。それどころか、ニヤニヤと不敵な笑みまで浮かべ始める。まるで、俺の問いかけを無視する行為を楽しむかのように。


「おい! シカトすんなよ。何とか言えや!」


「……ククッ」


 いささか、気分が悪くなってきた。面と向かって嘲笑されるのは、いくつになっても屈辱的だ。腹の底で苛立ちの念が湧き上がり、1発くらい殴ってやろうかとも思えてくる。


(舐めやがって……)


 しかし、握りしめた拳を繰り出すような真似はしなかった。目の前に立ちはだかった組員の、ある仕草を視認したからである。それは俺にとって、予想を超えた戦慄をもたらすものだった。


「なっ!?」


 不気味に目を細めた組員が、背広の懐に手を突っ込んだのである。かつて、村雨邸の門前で廣田と揉めた際の状況と似ている。おそらくは、拳銃を取り出そうとしているのだろう。俺の額に、突きつけるために。


 実際に確認したわけではないので断言はできないが、左右と背後に立った組員も、きっと同様の仕草をしていたと思う。あのような場面において、銃は物凄い威力を発揮する。


 わざわざ取り出さないまでも、その存在を匂わせるだけで、相手は短絡的な言動が一切できなくなってしまう。丸腰であれば、尚更だ。すっかりと動きを止められてしまった俺は、思わず舌打ちした。


「チッ」


 悔しさを露骨に表現したこちらの反応に、組員たちは満足そうな様子だった。一方、受話器を耳に当てた応接係は俺の方を見ながら、わざとらしく大仰な口調で話し始める。


「あのぅ~。すみません。いま、カシラに“お客人”がみえてまして。アサギリョウヘイさんって方なんですけども。名刺を持っておられまして。昨日、カシラに『遊びに来い』と言われたとかで。ご存じでしたかぁ?」


 どうやら、電話の相手は山崎本人のようだ。麻木涼平が事務所に来ている旨を伝え、こちらが語った話が本当かどうかを直接、確かめるつもりなのだろう。山崎は電波の悪い場所にいるらしく、応接係は何度も言い直していた。


「……ご存じでしたか。あっ、そうですか。分っかりましたぁ! では、事務所の方で待ってもらいますんで。了解です。では、また後ほど!」


 ガチャリと受話器を置いた応接係は、軽く咳払いすると、俺に穏やかな声で言った。


「ご存じだとよ。いま、カシラはお出かけ中でな。あと1時間くらいで、お戻りになるそうだ。とりあえず、そこに座っとけ」


 組員の言葉に従い、俺は玄関にほど近い黒色のソファーに腰を下ろす。取り囲んでいた連中は、いつのまにか姿を消してしまった。おそらく、彼らには「山崎に呼ばれてきた」という俺の言葉が万が一嘘だった場合、射殺という名の制裁を下す役割があったと思われる。


 いま、自分が居る空間はヤクザの本拠地なのだ――。


 その事実を噛みしめながら、相も変わらず続く緊張感の中で待ち続けること55分。山崎が、事務所に戻ってきた。昨日と同様、白い上下のスーツを着ている。いそいそと入ってきた彼は、ソファに座る俺の姿を見るなり、微笑んだ。


「おお! 本当に来てくれたか!」


「とびっきり美味い飯、食わせてくれるんだろ?」


「もちろんだ。さっそく、行くとしよう」


 山崎に連れられるまま、事務所を出ていく。外に出るなり、俺は蒸し暑い風に包まれた。この日の気温は27℃。昨日にも増して、夏が近づいてきたように感じる。紫色の扇子を取り出し、山崎はあおぎ始めた。


「ふう。暑いなあ。これからどんどん、気温も高くなるぜ」


「そりゃあ、6月だからな」


「こんな日には何か、冷たいものでも食いたい気分だな。あっ、そうだ! 近くに美味い蕎麦屋があるんだった。そこで“冷えたカモ”でも頼もうか」


「お、おう」


 山崎が言った“冷えたカモ”とは何を表しているのか、いまいちピンと来なかった。そもそも外食で蕎麦屋に行く事自体が、自分にとっては珍しい。5歳の頃、親父を含めた家族で足を運んで以来だろうか。


(すげぇ久しぶりだな……)


 過ぎ去った思い出に浸りつつ、俺は山崎の後に続いて店の暖簾をくぐる。名前は『かめ庵』。の時期から続く名店らしく、全体的にクラシカルな店構えだったと記憶している。


 あの店の雰囲気を簡潔に、なおかつ明快な言い方で表現するならば「昔ながらの蕎麦屋」と書くのが、最も適切だろうか。山崎の注文から15分ほどで出てきたメニューも、老舗名店らしい香ばしい香りを放っていた。


「……これが、“冷えたカモ”か」


「そうだ。もしかして、お前。鴨せいろは初めてか?」


「ああ。今まで食う機会が無かった」


 鴨せいろ――。


 それが“冷えたカモ”の正体であった。蕎麦を鴨肉とネギの入ったつけ汁で食べる、東京発祥の料理。冷たい麺に温かい汁の組み合わせが一般的だが、かめ庵では逆。独自の調理法で、麺の温度を保ったまま提供するのが流儀だと、山崎は語った。


「そうか。なら、食ってみな? 人生初の鴨せいろを。麺が冷めないうちに」


「いただきます」


 俺は、ひと口すすってみる。


「どうだ?」


「うーん。悪くはないけど……」


 独特の味がした。蕎麦自体は好きなのだが、つけ合わせの鴨肉の風味が微妙である。いつも食べている鶏の肉とは違って、どうにも生臭さが気になってしまう。噛めば噛むほどに、渋い味が口いっぱいに広がって不快感が催される。


「……良くもないかな」


 山崎は失笑した。


「まあ、大人の味だからな。そのうち、美味うまさが分かる日が来るさ。ところで、お前。いくつなんだ? 見たところ、成人しているようには見えるが」


「おいおい、俺はまだ15だぜ」


 それを聞いた山崎の目は忽ち、丸くなる。


「じゅ、15だと!?」


「ああ。今年、中学を出たばかりだ」


「そうかぁ……若いなぁ……」


 驚きに満ちた表情だった。ちなみに、年齢を間違えられるのは、これが初めてではない。横浜で高坂と出会った時も、彼は俺を「20歳前後」と見積もった。さほど老け顔というわけではないが、ティーンらしからぬ体格と長身を持っていた当時の俺は、たびたび年上に間違えられたものだ。


「うん。よく言われるよ。高校生くらいの年齢には見えないって」


「だろうな。学校には、行ってないのか?」


「行ってない。っていうか、行かなかった。俺は勉強が嫌いでさ。机に座ってジッとしてるのが、すっげえ苦痛に感じるんだよ。中学の授業だって、マトモに受けたことねぇし」


 その言葉から、山崎は目の前の少年が不良ワルであることを察したようだ。蕎麦を口に運ぶ傍らの質問も、次第にアウトローじみた内容へと変わってゆく。俺が味わってきた喧嘩の話から、持っている前科、少年鑑別所での体験など、それまでの人生について事細かく聞かれた。


 俺としても、自らの武勇伝を語るのは楽しい。傍から見れば、さぞみっとない光景だったであろう。しかし、相手が興味を示している以上、気の済むまで語ってやろうという気分だった。意図せずとも饒舌になってしまう。


「……なるほど。じゃあ、路上で暴れるのには慣れてるのか」


「わりとな。いざ相手をぶっ倒すとなったら、そこら辺に置いてる物は何だって使うぜ? 喧嘩にルールなんてものは、何ひとつ無いんだから。どんなに汚い手を使ったとしても、勝った奴がいちばん偉いんだ」


「あははは。よく、分かってるじゃないか」


 話には花が咲き、互いに時の経過を忘れて語らった。かめ庵に時計の類は置かれていなかったが、少なくとも30分は会話を繰り広げたと思う。逃亡者という己の立場を忘れてしまうほど、本当に楽しい時間だった。


「麻木。そば湯、飲むか?」


「うん。頼むわ」


 やがて、追加注文の料理が運ばれてきた時。山崎が、不意に尋ねてくる。


「普段、どこに住んでるんだ?」


「えっ……」


 その瞬間、グッと現実に引き戻されるような感覚を覚えた。


(俺、そういえば住所が無いんだった!!)


 家を飛び出して以来、明確に“家”と呼べるものを持っていなかった。横浜のホテルも、使用人として住み込んだ村雨邸も、一時的な“宿”に過ぎない。つまり、俺には家が無いのだ。


「……」


「もしかして、住む場所が無いのか?」


 答えに窮していた俺は素直に、コクンと頷く。


「……ああ。ちょっと、いろいろあってさ」


「やっぱりな。そうだと思ったよ」


「え?」


 蕎麦湯を残り汁に注いだ山崎は、こちらに視線を配りつつ、静かに語った。


「昨日、お前は漫画喫茶で『寝ていた』と言ったからな。ああいう場所で寝泊まりする奴は、何かしらの事情を抱えてるパターンが多いんだよ。家に帰れないか、そもそも帰る家を持っていないかの、どちらかだ」


「さ、察しが良いな」


「あと。さっきからにおうぞ? さっきの移動で汗をかいたせいかもしれんが、くさくてかなわん。大方、風呂にも入っていないんだろう。違うか?」


 図星である。


 痛い所を指摘された上に、己が置かれている現実を再認識させられる形となった。思い返せば、前の日から風呂に入っていない。それどころか、まともなベッドで寝てさえいない。悔しさと疲労感が同時に押し寄せてきて、何も言えなくなってしまった。質問には答えられないまま、ただ俯いて沈黙する。


「……」


 しかし、そんな俺に山崎が放った言葉は、あまりに意外なものだった。


「なあ、お前。住むところが無いんだったら……来ないか? うちの組に」


 こちらの目をジッと見つめ、思わぬ誘いをかけてきた本庄組の若頭。冗談かと思って問い返してみたが、どうも真剣らしい。麻木涼平という人間に対して、決して小さくはない興味を抱いているのが分かる。まるで、有能な人材に声をかけるスポーツチームのスカウトマンのように。


「……どうして、そう思うんだよ」


 俺の運命が、大きく動き出そうとしていた。

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