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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第3章 盃のゆくえ
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月下美人

 村雨邸における絢華の部屋は、1階の奥にある。


 もともとは2階にあったそうなのだが、彼女が自力で歩くことが難しくなり、移動には車椅子を必要とするようになった後に移動したと、以前に秋元から聞かされた。その方が、日常生活の介助をするのに容易だし、本人の体力的にもちょうど良いということなのだろう。


 しかし、かつての絢華は非常に活発な女の子だったという。屋敷の玄関の前に、それを象徴するようなアイテムがあった。玄関を開ける前、ふと視界に入った俺は秋元に尋ねる。


「前から気になってたんだけどさ。この植木鉢、何も植えてねぇのに、ずっとここにあるよな。もともとは何を植えてたんだ?」


「ああ、これですか。前は月下美人の鉢入れでしたね」


「ゲッカビジン?」


 ふと歩みを止め、足元の植木鉢を見つめながら、秋元はコクンと頷いた。


「はい。月下美人ゲッカビジン。サボテンの仲間です。夜に咲く花で、翌朝にはしぼんでしまいます」


「ほう、そんな花があるのか。知らなかったぜ。要は、アサガオの夜バージョンか?」


「ええ。そんなところです」


 聞けば、その植木鉢を使っていたのは絢華であるという。事件が起こる前までは、種から水をやって育てていたとのこと。彼女にそのような趣味があったとは意外だったが、秋元曰く、ガーデニング全般を好んでいるわけではないようだ。


「お育てになっていたのは、この月下美人だけ。お嬢様は、月下美人の花言葉がお好きなのです。『強い意志』。あと、1年にひと晩しか咲かないところにもかれる、と前に仰っていましたね」


 自ら足を運んで世話をし、花が咲く瞬間の観察を愛好していたという絢華だが、身体が不自由になってからは、まるで興味も示さなくなってしまったらしい。


「組長には『使わないのなら捨てろ』と言われますが……私は、この鉢を片づける気にはなれません。きっと、また使う日が来ると信じているのです。本当のご自分を取り戻したお嬢様が、前のように月下美人をお育てになる日が」


 植木鉢を両手で抱え上げた秋元は、サッと俺の方を向くと、優しい声で促した。


「さあ。早くお嬢様のところへ。首を長くして、お待ちかねですよ」


 3日ぶりに、顔を合わせる絢華。


(あいつ、心配してるだろうな……)


 それ以上に、彼女が憤慨しているような気がしてならなかった。姿を見せなかった言い訳を考えながら、俺は屋敷の廊下を進む。


(まあ、素直に謝るか)


 やがて、たどり着いた絢華の部屋のドアは開いていた。これは「どうぞ、おはいりなさい」という、彼女なりのメッセージなのだろうか。若干イレギュラーな光景ではあるものの、ノックをする手間が省けるので、それはそれで良い。


(案外、怒ってないかもな)


 ところが、その推察は甘かった。入室した途端、俺は絢華から怒声を浴びせられてしまったのだ。


「遅い!!」


 今までにも増して、声色が険しさを帯びている。


「……すまん」


「どこで何をしてたの?」


 できるだけオブラートに包み、事情を説明した。


「組長に頼まれた仕事があってさ。そいつをどうやって進めりゃ良いのか、ずっと考えてた」


「はあ!?」


 入室して早々、不満をぶつけられてしまった俺。絢華にしてみれば、仮にも「ずっと近くで支える」と言った男が、姿を消していたのが気に入らなかったのだろう。怒る気持ちは理解できた。


「そんなに大事な仕事?」


「ああ。けっこうな」


「私のそばにいる事よりも?」


 秋元から、何も聞かされていないのだろうか。


 どうやって説明しようか悩んだ俺だったが、例の件は村雨から「他言無用」と釘を刺されている。きっと、その「他」の中には、絢華も含まれているはずだ。無い知恵を絞りつつ、俺はできるだけ無難な返答をした。


「……いや。俺だって、本当はお前の近くにいてやりたいさ。でも、親父さんに言われたんだ。『仕事が終わるまでは、そっちに専念しろ』って」


「ふーん。なら私よりも、お父様を優先したってわけ?」


「仕方ねぇだろ。親父さんの命令は絶対なんだから」


 すると、その瞬間。絢華の深いため息が、室内の音を支配した。


「はあ……」


 角を立ててしまったか――。


 言い訳を間違えた己を責めた。しかし、よく見ると、普段とはどこかが違う。絢華は怒る時、いつも眉間にしわを寄せて睨んでくるのだが、目の前の彼女に怒りの気配は感じられない。


 どこか、しゅんとした様子である。見方によっては、失望しているとも受け取れる表情。まるで、こちらへの期待が外れたと言わんばかりの反応だ。戸惑う俺をまっすぐに見つめ、絢華は問うてきた。


「この前、あなたは私に言ったよね。『一緒に苦難を乗り越える』って。あの言葉は嘘だったの?」


「嘘なわけないだろ。俺は、お前を」


「だったら、ずっと側に居なさいよ!!」


 いつもよりも大きめの声で、こちらの返答を遮った絢華。少し間を置いてから軽く咳払いをすると、目を少し伏せながら語った。


「仕事が大切なのは分かる。だけど……私をひとりにしないで? いつもそばにいて、支えてちょうだい? いま、私が『生きていたい』って思えるのは、あなたが背中を押してくれたおかげだから……この3日間、私がどれだけ寂しかったと思ってるの!?」


 すっかり、俯いてしまった絢華。


「ごめんな」


 そう言って、俺は彼女の背中を優しくさすってあげる。


「……」


 最大限の“償い”であった。ぶち当たった試練の前に悩み、ただいとまを浪費し続けた3日間。俺の中ではあっという間だったが、絢華にとっては苦痛以外の何者でもなかったはず。己の愚かさが、本当に恥ずかしく思えた。


「寂しかったよな。マジで、ごめん」


 悔恨の念でいっぱいになった俺に、絢華は消え入りそうな声で訴える。


「……私から、離れないで」


「えっ」


「言葉通りの意味。2度も言わせないでちょうだい」


 顔を上げた彼女の瞳からは、涙があふれていた。想像以上だった。俺が自室に閉じこもっていた間、絢華が味わった不安と孤独は尋常ではないようだ。「お前には秋元がついてた」なんて無粋な言葉は、ふさわしくないだろう。


 俺は目の前の女の涙を左手で、そっと拭ってやった。


「分かった。もう、お前から離れないよ」


「本当に?」


「ああ。約束する」


 潤みきった絢華の目をジッと見つめ、力強く頷いた俺。こちらの言葉に安堵感をおぼえたのか、彼女の顔つきは少しずつ、柔らかなものへと変わっていく。


「あ、ありがとう」


 それからしばらくの間、無言の時間が流れた。


 俺も絢華も、何も口を開くことなく、静寂が醸成した空間に身を委ねる。それは決して気まずいだとか、かける言葉が見当たらないだとか、マイナスな要因ではない。純粋に心が通じ合えていたからこその、“沈黙”だったと思う。


 どのくらい、続いたのかは分からない。ただ、俺が適当な話題で雑談を切り出そうとする前に、絢華の声が静寂のとばりを破った。


「ねえ、あなたにお願いがあるの」


「なんだ?」


 彼女の声が、ゆっくりと紡ぎ出されてゆく。


「一緒に、来てくれないかな。アメリカへ」


 あまりにも思いがけない提案であった。

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