ただ、試されていただけだった。
――ドカッ!
再び、鈍い音が響いた。
バットの持ち手を介して俺に伝わってくるのは、何かが強く当たったという感触のみ。どうやら本能的に無我夢中で振り下ろしたバットによる強烈な一撃が、角刈り男の脳天をとらえたらしい。まさに、クリティカルヒット。額からはダラダラと血が流れ出し、彼の顔面を赤く染めてゆく。
「くっ……くそっ!」
そのまま、彼は崩れるようにその場へ倒れた。ほんのわずかな瞬間に、なおかつ相手が下段の構えから剣技を繰り出してくる前に一撃を与えることが出来たのは、奇跡に近い。あと少しでもバットを振るのが遅かったら、逆袈裟の形でひと思いに斬られていただろう。
いま考えてみても、あれは運が良かったとしか言いようが無い。
「はあ……はあ……」
緊張の糸が解れて、安堵感に包まれたせいか。俺の呼吸は乱れた。つい数秒前まで、殺し合いの場面に居たのである。やむを得ないであろう。
(勝った!? 勝ったのか!?)
何の前触れもなく襲い掛かってきた7人のチンピラたちを全員、返り討ちにした俺。あまりにも突然の出来事で心の準備が追い付かなかったが、それなりに適切に対処することができたと思う。
一方、相手はひどく無様な姿で寝転がっていた。失神して硬直している者、口から泡を吹いている者、額を割られて顔が血まみれになっている者など、皆が痛々しい有り様である。それに比べて俺は、ケガどころか掠り傷ひとつ負っていない。まぎれもなく、完全勝利だった。
「ふう……」
大きく、肩で息をする。本来であれば勝利の美酒に酔いしれたいところであるが、俺にはどうにも腑に落ちないことがあった。
(コイツらはどうして……ここへ入って来られたんだ?)
倒れているチンピラ達は全員、村雨組の元組員。エクスタシー無断密売の件で組長の怒りを買い、指を詰めさせられた上で組を破門になった連中だ。破門とはすなわち、組織からの追放を意味する。追放された人間が何故、中庭にいるのか。
考えてみれば、ずいぶんと奇妙な話である。破門の沙汰を受けた者が、屋敷の正門を通り抜けられるはずがないのだ。しかし、庭の塀をよじ登って侵入してきたとも考えづらい。連中がやって来た方角は、明らかに正門側。何か裏があるとしか、思えなかった。
(組の中に、俺への襲撃を手引きした輩がいるってのか!?)
どんなに視点を変えて考察しても、結果は同じ。誰かが糸を引いていた可能性が、きわめて高い。
(と、すると……)
俺の中に、とある人物の顔が浮かんだ。俺に掃除をするよう言いつけ、連中と遭遇するシチュエーションを作り出した張本人である。
(ま、まさか!?)
その時、パンパンと手を叩く音が聞こえた。
「いやあ、素晴らしい! 合格だよ!」
大仰な拍手と共に現れた、グレーのスーツ姿の男。つい数秒前に俺が考察で導き出した仮説の人物と、見事に一致している。俺は眉間にしわを寄せながら、その者に問うた。
「……どういうことだ? あんたが、こいつらに俺を襲わせたのか? ……芹沢のオッサン」
現れたのは、秋元曰く組の中では村雨に次いでナンバー3の地位にある、舎弟頭の芹沢暁だった。
「おい、何とか言ってくれよ」
苛立ちと共に返事を催促する俺に、芹沢はニヤリとして答えた。
「そうだ」
「どうしてだ!? そんな事をして、何になるってんだ?」
苛立ちが混じっていた。目の前の男のせいで、あわや殺されるところだったのだ。人の感情としては、ごく自然な反応であろう。しかし芹沢は、そんな俺を窘める言葉を浴びせてきた。
「落ち着け。お前こそ、そんなに興奮して何になるって言うんだ」
まるで、我が子を懇々と説諭する父親のような口調ではないか。こちらの気が収まらないのは、言うまでも無かった。
「ふざけんな!!」
腹の底から怒声を上げるや否や、俺は近くに転がっていた刀を手に取った。つい先ほどまで、角刈りの元組員が携えていた得物である。
「ちゃんと説明しろ!!」
刃を突きつけた先は、芹沢の眉間。感情に任せた衝動的な行動だったためか、あと数ミリでも動けば忽ち切れてしまいそうなほどに、剣先が皮膚に近づいていた。
「……はあ」
目を見開いてジッと睨みつける俺の気迫で、何かを悟ったのか。芹沢は、大きなため息をついた。
「とりあえず、刀。下ろしてくれや。この状況じゃあ、話しにくいってもんだぜ」
「あんたが説明するのが先だぜ? 舎弟頭さんよ」
「チッ。仕方ねぇなあ」
軽く舌打ちをして一瞬、目を閉じた後、芹沢は淡々と話し始めた。
「……これはお前に対する『テスト』だ。この先、極道としてやっていけるかどうかを見極めるためのな。もちろん、結果は合格だ。何も申し分のない、見事な暴れっぷりだったよ。おめでとう」
「テストだと? だったら、あんたは俺を試していたのか?」
「無論だ。すべてを見届けさせてもらったよ。あの部屋でな」
彼は、対角線上にあった屋敷の窓を指差した。位置的には2階にあるようだが、カーテンが閉められていて中の様子を窺い知ることはできない。その部屋から、一部始終をモニタリングしていたらしい。
俺が相手にタックルをぶちかます場面も、バットで豪快に殴り倒す場面も、そして一瞬の隙を突いて角刈り男に一撃を与える場面も、すべてが芹沢に見られていたのだ。無論、あまり良い気はしなかった。
「……そうかよ」
初めて村雨邸に来た日、廣田に絡まれていた俺を助けてくれたのは芹沢である。その後、懇切丁寧に屋敷の中に通してくれた。絢華の世話係として働き始めた後も「何かあったら遠慮なく言ってくれ。力になってやる」と、気遣いの言葉を貰っている。そんな彼への好印象が、一気に崩れてしまいそうになった。失望感と疲労感が一気に押し寄せてきた俺は、吐き捨てるように言った。
「自分の馬鹿を呪いたい気分だぜ。あんたのことは、組の中でも信用できる人だと思ってた。いろいろと優しくされて、ついつい心を許しちまいそうになってた……でも、とんだ食わせ者だったんだな」
「失望したか?」
「ああ。がっかりだぜ」
すると芹沢は、フッと微笑んだ。
「まあ、そう思ってもらって構わないさ。だがな。お前はひとつ、大きな思い違いをしている」
「何だ?」
「それは、この『テスト』における俺の役割だ。俺は、あくまでも試験官。あらかじめ、用意されを試験を実行しただけに過ぎない」
ならば、仕組んだ人間は他にいるという事になる。
「そ、それって……?」
心当たりのある人物は、1人しかいなかった。
「組長だよ」
俺に大きな衝撃が走る。
(この件は、組長も承知だったってのか!?)
昨夜、村雨からは過去を打ち明けられ、握手された上で「絢華のことを頼むぞ」と言われたのだ。まさか、その翌日に下手をすれば死ぬかもしれない『テスト』で、相手を試すとは到底、信じられなかった。
俺は、食い入るように芹沢に尋ねる。
「それは、マジなのか?」
「ああ。あの人は何かにつけて、子分を試したがるからな。そいつが自分にとって、本当に価値のある人間なのか。役に立つ人間なのか。そして、自分への忠誠心は本物なのか。いちいち試さないと、気が済まねぇ性分らしい」
言葉を失う俺に、説明はなおも続いた。
「試されるのは何も、お前に限った話じゃない。組長と盃を交わした人間は俺を含めて定期的に、ふるいにかけられる。色んな形で『テスト』されるんだ。それに合格できなければ、切り捨てられる。こいつらのようにな」
そう言って芹沢は、今度は倒れている男たちを指差した。俺に拳やバットで思いっきり殴られて皆、頭から血を流している。中には、瞳を大きく開いて硬直している者も見受けられた。例の、角刈り男である。
「この男は名前を森と言ってな。なかなかに稼げる野郎で、組の中でも腕利きとして評判だった。あと少ししたら、幹部に昇進させる話もあったくらいだ」
そんな森であったが、村雨に無断でエクスタシーの密売に手を染めたことで、すべてを失ってしまった。ところが、彼には挽回の機会が与えられたという。
「組長は名古屋へ出かける前、森に『麻木涼平を殺すことができたら、破門を取り消して元の地位に戻してやる』と言ったんだ。シノギが上手な奴だったから、組長としても簡単に破門にするのが惜しかったんだろうな」
同時に、俺には正式にヤクザとなるための関門として、森の襲撃を返り討ちにする試練が課せられた。
双方をぶつけ合わせ、勝ち残った方を迎え入れる――。
それこそが村雨の魂胆であり、当初からの計画だったわけである。冷酷で豪胆な彼らしい計略であるが、巻き込まれた側としては納得できない。
「だからってよ、他にやり方が……」
俺は憮然とした態度を崩せなかったが、なおも芹沢は諭してくる。
「涼平、極道になるつもりなら、この程度の修羅場は潜り抜けて当然だ。それに今回、組長がお前に課した『テスト』の意義は、もう1つある。何だと思う?」
「さあ」
「お嬢を守れるだけの力をお前が備えているか、それをはかり知る必要があったんだ」
「俺が絢華を?」
大きく頷く芹沢。
「昨日の夜、組長からよろしく頼まれたそうだな。お前が任された大役は、単純に身の回りの世話をすれば良いというもんじゃない。常にお嬢の事をいちばんに考え、その生活のすべてに責任を持つということだ」
「責任……」
「そうだ。万が一、お嬢が危険な目に遭った時は命を賭してお守りする『責任』。それをお前が担うに相応しいか、見極める必要もあったんだ。分かるか?」
芹沢は声のトーンこそ穏やかであったが、眼差しが真剣そのもの。自らの兄貴分である村雨と、その娘の絢華への忠誠と覚悟が伝わってくる。
(何があっても、このオッサンだけは村雨父娘を裏切らないだろうな)
次第に、そう思えてきた俺はゆっくりと刀を下ろす。そして、足元に投げ捨てた。
「まあ、お前が分かっているならそれで良い。いずれにしろ『テスト』は合格だ……これは俺からの、個人的な褒美だ」
懐から財布を取り出した芹沢は、万札を1枚取り出して俺に手渡す。もらっておけという事らしい。自室の金庫の中には、アルビオンでの稼ぎと横浜へ来た夜に入手した大金の残りが入っていて、合わせればザッと100万円は超える。
若さも相まって金銭感覚が狂っていた俺は、1万円という金額に喜びを感じられなかった。むしろ、殺し合いの報酬としては安いくらいにも感じた。しかし、貰えるものは貰っておくに限る。俺は芹沢の厚意を素直に受け取ることにした。
「……どうも」
「よし。じゃあ、また後でな。ここはそのままにしといて、構わんぞ」
満足そうな面持ちで、彼は去っていった。いくら芹沢が秋元に話を通してあるとしても、長時間も離れては絢華に文句を言われる。できるだけ早く、俺も戻らなくてはならない。だが、玄関口へ向かおうと歩みを進めた俺の足は突然、止まった。その場に倒れている男たちの方へ、不意に視線が向いてしまったのだ。
(ひでぇな……)
側頭部から血を流した者、頭頂部を割られた者、鼻が醜く歪んでいる者など、皆惨い有り様である。脳天への打撃を食らった森に至っては、完全に絶命していた。
一瞬、己を省みた。
今まで何度となく喧嘩の場数を踏んできたが、相手をここまでの状態に追いやった事は無い。いつも決まって、立てなくなる程度に痛めつけるだけ。それ以上の領域は、未経験であった。そう。俺はこの日、初めて人を殺したのである。生きている人間の命を自らの手で、奪った。
その事実が突如として、俺の心にずっしりと圧し掛かった。
「お、俺は……」
自然と気は塞いだ。見つめた自分の掌が、やけに恐ろしく感じた。どういうわけか、ひどく不気味に思えてきたのだ。
「……」
ぼんやりと己の両手を見つめ、俺は沈黙した。どれくらいの時間、そうしていたのかは分からない。ただ気が付くと、俺の横には廣田がいた。何やら、チェーンソーとブルーシートも近くに置いてある。彼は俺を見るなり、怪訝な声を浴びせてきた。
「おい、いつまでそうしてるんだよ」
「えっ」
「仕事の邪魔だ。どっかいけや!」
強く促されて、俺はゆっくりと歩き出した。途中、廣田が持ってきた道具一式が気になったので、尋ねてみる。
「あのさ」
「何だよ」
「それ、どうやって使うんだ?」
「お前は知らなくて良い。ほら、さっさと失せろ!」
結局のところ廣田は、自分が持ってきた道具の用途をまるで教えてくれなかった。ただ、あれは恐らく死体を処理するための物だったと思う。俺が殺した森の身体を切断し、7つか8つに切り分け、ブルーシートに包んでどこかで燃やすのだ。
(あいつはバラバラにされちまうのか……)
考えれば考えるほどに、罪悪感が心を包み込む。自分が犯した事の重大さを改めて悟り、ますます気持ちが沈んでゆく。
人を殺して、命を奪ってしまった――。
取り返しのつかない現実を前に、俺はただ目の前の光景を受け入れることしかできなかった。