第一章 月形事変(四)
神宮寺はドキドキしながら車の中で思う。
(月形さん、なにをやったんだ? 俺がどこかに乗り込んで誰か殺すか、誰かに頭を下げて済む懸案であって欲しい。まかり間違っても、魔法先生を不快にさせるような大事だけは避けてくれよ)
辺境魔法学校の学長である魔法先生を怒らせたのならば、かなりの覚悟で臨まなければならない。だが、魔法先生を怒らせた線は薄いと予想した。
(魔法先生を怒らせたら、呪い屋組合長が動く前に処罰は下っている。魔法先生の不興を買っていないなら、どうにでもなる。どうにでもする)
月形さんの事務所は料亭から車で十分ほどの場所にあった。タクシーを降りて五階建の雑居ビルに向かう。
雑居ビルの五階に月形さんの事務所はあった。事務所の電気は点いていた。エレベーターに乗って五階まで上がる。
(月形さんは賢い女性だ。早まって馬鹿なことを仕出かしたりするとは思えないけど)
ドアの呼び鈴を鳴らすが、月形さんは出てこない。もやもやした嫌な空気を感じつつも、呼び鈴を鳴らし続ける。
あまりに出てこないので携帯から月形さんに電話する。だが、留守番電話になっていて月形さんは出てこない。
(まさか、時既に遅しなんて事態はないよな。出てくれよ、月形さん。勝手知ったる仲だろう。俺はもう、小清水さんや、蒼井さんを失った時の思いは御免だ。俺は強くなったんだ)
ウトナピシュテヌ入りして大きな力を手に入れた。力は何かを成し遂げるための道具。その道具を使う機会すら与えられず、何もできずに、かつての仲間を失なう事態ほど、惨めなものはない。
苛々しながら誰かが出て来るのを待つ。もう、いっそドアを破壊しようか、と考えが頭に浮かぶ。
ドアを壊すなんて簡単だった。無事なら怒られるだけで済む。怒られて済むくらいなら、やってしまいたかった。
けれども、事務所は月形さんの城だ。あまり、乱暴な真似をして心を閉ざされても困る。
ドアの向こうで人が動く気配がした。
今朝の仕事の記憶が蘇った。もし、攻撃を受けたなら、全ては手遅れを意味する。
少しの間を置いて、ドアが少し開く。
ドア・チェーン越しに月形さんが見えた。カジュアル・ヘアーに丸顔。それに黒を基調としてコーディネートした服装は卒業式の時と変っていなかった。ジャッカルを思わせる空気にも変わりがない。
ただ、一年という年月は月形さんを少し大人に変えていた。
(よかった、まだ無事だった。俺の心臓は黄金の特別な心臓だが、本当にこういう事態って心臓に悪いと表現するのがピッタリだよ)
月形さんは無事だった。でも、月形さんの白い顔に疲労に似た色が出ていた。
(憔悴している。やはり、なにかあったんだ。でも、いったい、なにがあったんだ?)
神宮寺は月形さんに携帯の番号を教えていた。だが、相談の電話は一度として架かってきたことがなかった。
月形さんにしてみれば、神宮寺に思い入れなんて一切ないのかもしれない。だが、神宮寺には違った。神宮寺から見て月形さんは友人だった。
月形さんが気怠い顔で口を開く。
「あら、珍しい、お客さんね。一年ぶりくらいかしら」
「月形さん、中に入れてもらってもいいかな? ちょっと、話がしたいんだ」
ドアがパタンを閉まる。
拒絶ではないよな。まさか、部屋にもう暗殺者から脅迫者がいるのか。
ドア・チェーンが外れる音がして、ドアが開いた。
「どうぞ」と月形さんが、なんの感慨もなく、ぼそりと口にする。
取り立て困った様子はなかったが、神宮寺は油断しなかった。月形さんは感情を表に出す人間ではない。苦しくても苦しいと溢せず、辛くても辛いと漏らさない人だ。




