第一章 単純かつ明確な入学試験(五)
体を揺すられて目を神宮寺が覚ますと、眩しい光を感じた。
剣持がペンライトで瞳を照らし、残念さを滲ませて言葉を発した。
「なんだ、生きていたのか。控え室に戻ってくれるか」
神宮寺が体を起こすと、眩暈は止んでいた。防護服に身を包んだ人間が二人一組で、年配の男とサラリーマン風の男を持ってきた鞄と一緒に担架に乗せて運んでいった。
トイレの戸が外から開けられた。女性がごろりと転がって出てきた。女性はスカートもパンツも上げられずに、尻を出したまま、床に転がった。
防護服の人間は女性に全く敬意を払わず、担架に女性を乗せて肩にハンドバッグを掛けて運んでいった。
死んだあと、辺境魔法学校では死体を何に使うのは、定かにされていない。
人間のミイラが中国で薬として使われていた話もあるくらいだ。きっと魔法の実験素材として扱われていくのだろう。どこかで道が違えば、目の前の死体が神宮寺の未来だった。
神宮寺は目で嘉納の死体を探した。だが、嘉納の死体は、すでになかった。一番に運び出されたのだろうか。
とりあえず、神宮寺は生き残った。夢への一歩が、ここから始まる。大勢の死人が出たが、同情はしない。皆が覚悟して決めてきた場所なのだから。
廊下に出ると、一番奥の受験生立入禁止の扉が開いており、働き蟻のように防護服を着た大勢の人間が次々と試験室から死体を運び出し、扉の奥に運んでいった。
受験生控室に上がる階段の下に、一人の若い男が倒れていた。顔面蒼白で浅く息をしていた。病人が出ている事態を知らせようかと思ったが、無駄だと思い直した。
階段上の受付嬢たちからは、男の存在はわかっているはず。なのに、救護の人間を呼んでいる素振りはなかった。
受付嬢の「入学手続きが終わるまでが試験ですから」の言葉が蘇った。あれは応援のエールではなく、試験室を出ても入学手続きが終るまでは、治療がない事態への意思表示だ。
神宮寺は迷ったが、ほとんど死人状態の男に手を貸して階段の上へ上げてやろうと思った。優しさ半分、打算半分だ。
若い男は、もしかしたら、生き残るかもしれない。生き残れば、感謝して厳しい授業で協力関係を築けるかも同盟者になるだろう。
仲間なしで授業を生き残れるか不安だった。力の抜けた男の体を支えるのは、神宮寺が一人では無理だった。
「手ぇ貸したる。お前、足ぃ組ませて、持てや」
聞き覚えのある声がした。振り返ると嘉納がいた。どうやら、神宮寺より先に目を覚まして、扉が開いたらすぐに、他の試験室のトイレを拝借に行っていたのだろう。
嘉納は病人を運ぶ作業に慣れているらしく、若い男の背後から男の腕を前に回して持つ場所を作ると、階段を上がり始めた。
(嘉納はお人好しだ。助かるかどうかもわからず、嘉納自身でさえ、この先どうなるかわからない。なのに、階段の上まで重い人を運んでいる)
もっとも、持ちやすい足を持って同じ男を運んでいるのだから、神宮寺も他人のことは言えないが。
受験生控室はガラガラだった。やはり死亡率八割の試験は本当だった。
階段の上まで来ると、受付嬢が神宮寺と嘉納に声を掛けた。
「荷物を移動し終わったら、一度、こっちに来てください。次の手続きをしますからね」
受付嬢「荷物」の言葉を聞いて、嘉納の顔が僅かに怒りに歪んだ。
神宮寺と嘉納は若い男を、がら空きになっている、並んだ椅子の上に寝かせた。
治療はできないし、学校側の人間は誰一人、イスに横たわる男に気を掛けなかった。
若い男が大きく息を吸って吐いた。息を吐いたあと、胸が上下するのが停まった。
若い男は本当に〝物〟となってしまった。
(可哀想に、もう少しだったのにね)
階段の上まで運んだだけ労力が無駄だったわけだが、こればかりは、どうしようもない。
嘉納と神宮寺が受付に行くと、受験票の上に、整理番号を押された。
「整理番号順に、入学手続きをします。入学手続きは学生課でするので、案内しますから、それまで、控室でお待ちください」
嘉納は面白くなさそうに、受付嬢から一番遠い椅子に腰掛けた。神宮寺は嘉納の近くに腰掛けるのが躊躇われたので、階段に近い場所に腰掛けた。
試験開始前にと違って、人が全然いないので、座る席にこと欠かなかった。嘉納も「こっちに来い」とは言わなかった。
女性の受験生がまた一人、階段から上がってきた。ジーンズにデニム・ジャケットといった、ラフな格好の女性だった。
上がってきた女性も、かなり苦しそうだった。手摺に掴まりながら、自分の足で歩いて階段を上がってきていたので、さっきの若い男よりは状態は良いのかもしれない。でも、いつまで保つかは不明な感じだった。
階段受付で受験票に整理番号を押されると、女性は神宮寺の真横に座った。
席はたくさん空いているので、何も神宮寺の隣に座らなくてもいいと思う。
だが、神宮寺が一番受付から近い席に座っていたので、次に近い席を求めたら神宮寺の隣になったのだろう。
神宮寺は、隣の席の女性の顔を確認した。年齢は神宮寺と同じか、少し年上くらい、髪は短めで襟足が短いウルフカットの、細い眉をした綺麗な女性だった。手に握られた受験票から蒼井加奈子という名前が判明した。生年月日から、神宮寺より一つ上の十八歳だ。
蒼井さんは、まるで、死に掛けて山から下りてきた遭難者のように疲労しており「水、水……」と呟いていた。
いくら綺麗な人でも、死んでいくのなら助ける価値はないので、座っている席から離れて放置しようと思った。
神宮寺は蒼井さんの顔をそっと窺った。顔を見る限り、疲労の色はあるものの、さっきの若い男と違い、まだ生気が充分にありそうに思えた。あれ、この人、助かるのかな、と思った途端に下心が湧いた。
水を渡したくらいで、恩を売れるのなら、安いものだ。
受験生控室を見渡すが、無料で水を飲める紙コップを置いたコーナーはなかった。
神宮寺は少ない所持金の中から水を購入するか迷った。でも、二百円で買った水より、後から返ってくる恩のほうが大きいと即座に判断し、行動に出た。
水を買っている間に誰かが蒼井さんに先に水を与えないよう、先手を打って声を掛けた。
「よろしければ、水、買ってきましょうか」
蒼井さんが疲労困憊した様子で小さな声で答えた。
「お願い、できれば、甘いのを」
神宮寺は先行投資が〝末期の水〟にならないように、素早く二百円を出して、スポーツドリンクの五百㏄ペットボトルを自動販売機で買ってきて渡した。
蒼井さんは喉が渇いた馬のように一気に飲み干し「もう一本」と告げた。お金は渡されない。ずうずうしさに腹が立ったが、成行き上、お金を請求するわけにもいかなかった。
死んだら財布から代金だけ抜いてやれと思い、神宮寺は残り少ない財布から貴重な二百円を取り出し、今度はお茶を買って渡した。すると、これも一気に飲み干した。
そのあと、蒼井さんは息を浅く、何度も繰り返した。浅く息を繰り返す蒼井さんは、息を吹き返しつつあった。恩返しを当てにする作戦は、順調に思えた。