第三章 親鳥は歌い、雛たちは騒ぎ出す(七)
魔法が使えるようになったと言われて、さっそく魔道書を開いてみた。両方共に見たが、やはり、現代抽象画家の描いた絵本にしか見えなかった。
本が語り掛けてくるといったが、別に魔道書は、言葉を発したりしなかった。
(これは困った。二冊、最低でも一冊を読んで魔法を使えるようにしておかないと、月曜日の実習日が死刑執行日になりかねない。よし、まず一冊ずつじっくり、見ていこう)
神宮寺は表題が『異界の気配』となっている本を、難解なパズル雑誌と睨めっこするように、一ページずつ眺めていった。すぐに、夕食の時間になった。
神宮寺は本格推理小説でアリバイ・トリックが解けない無能探偵のように音を上げた。
「ダメだ、さっぱりわからない。本当にこれで、魔法を使えるようなるのか」
神宮寺は風呂の時間の兼ね合いもあるので、食堂に下りていった。すると、いつもなら混雑している食堂が、空いていた。
食堂の雰囲気が変だ。ただ空いているわけではない。皆、やりかけの面白いゲームを途中で抜けてやってきた子供のように、食事を素早く済ませると、部屋に戻っていった。
風呂の時間になったので風呂に行くと、いつも混雑している風呂場に、誰もいなかった。
ウルリミン寮の風呂場は大きくない。
風呂場体を洗う場所が六席しかなく、風呂は四人も入って足を伸ばせば、満員だ。女性は全員で五人しかないので、問題ないのかもしれないが、男は全部で十六人もいる。
入浴時間も制限されているので、いつ行っても、風呂は混んでいて、間が悪いと、体を洗って出てくるしかないような状況もある、なのに、一人もいなかった。
神宮寺は久々にのんびり風呂に入るが、いつも騒がしい風呂場が静かで不気味に思えた。
神宮寺は奇妙な雰囲気で風呂から上がって、玄関ロビーに出て、缶コーヒーを買った。
何気なく寮の電光掲示板を見ると、多くの人間が外出している状況がわかった。魔法がわからなくて逃げたとは思えないし、大事な実習前に遊びに行っているとは思えない。
何かが変だ。
コーヒーを飲み終えて、部屋に戻ろうとした時に、蒼井さんが一階に下りてきた。
蒼井さんは、ちょっと興奮した様子で話し掛けてきた。
「神宮寺君、ちょっと、いい? 来て」
訳もわからず、外に連れ出されそうになったので、飲み終わった缶コーヒーの缶を捨ててから外に出ようとすると、蒼井さんは「空き缶を持って従いてきて」と指示した。
外に出て寮からどんどん、蒼井さんは歩いていった。どこまで歩く気だろうか。
やがて、寮からだいぶ離れ、人気のない砂地の場所まで来た。
蒼井さんは神宮寺から空き缶を受け取り。地面に置いて、楽しそうに宣言した。
「ねえ、ちょっと、これ見てよ」
蒼井さんが手を広げ、魔法先生が話していた言葉と同じような言葉を唱えた。
小さな火球が蒼井さんの五指の先に現れた。小さな火は、まるで生き物のように一つに集まると、少し大きな炎の塊になった。
蒼井さんが火球を空き缶に投げた。火球が命中した空き缶は真っ赤になり、高温で飴が熔けるように崩れた。神宮寺は、風呂に誰もいなかった状況と、寮の外に大半の生徒が出ている状況を思い出した。
(相手を攻撃するような魔法なら、寮の中では使えない。使えるようになった人間は、威力を試すために、外で練習しているのか?)
蒼井さんは声を上げ、興奮したように言葉を紡いだ。
「ねえ、すごいでしょう、神宮寺。私、魔法が使えるようになったよ。きっと、もっと練習すれば、人を瞬時に焼き殺せるような火だって使えるようなる」
驚きだった。本当に魔法が使えている。
だが、衝撃だったのは、蒼井さんの人が殺せる宣言だった。いつか見た、自信なさげに相談を受けた蒼井さんは、もう、そこにはいなかった。力に酔っている。
蒼井さんの変わりように月形さんの「心に歪みが生じている」という言葉を思い出した。
蒼井さんの変わりようは心配だったが、それより神宮寺は未だ何一つ、魔法が使えない自身の状況に、焦りを覚え、蒼井さんに尋ねた。
「ねえ、蒼井さん、どうしたら、魔法が使えるようになったの」
蒼井さんは神宮寺に聞かれて、一瞬ちらっと、困ったような顔をした。
「どうしたらって言われてもね。魔道書を見ていたら、自然に言葉が浮かんできて。なにからなにまで、わかったよ」
蒼井さんはそこまで言うと、今まで見せなかった意地の悪そうな顔を見せた。蒼井さんは神宮寺を見下し、優越感に浸った声で答えた。
「まあ、これ、ばっかりはね。独力で頑張るしかないんじゃないの」
魔法が使えるようになって、蒼井さんは変わってしまったと思った。
以前は、こんな態度をする人じゃなかった。
(一時的な現象ならいいけど。これからどんどん、蒼井さんは、変わっていくのだろうか)




