帳簿の余白と、認めたくない感情
クロエを見送ってから数日後。
愛結商店の社長室には、社交シーズンの収支をまとめた帳簿が、机を埋め尽くすほど積み上げられていた。
「ドレス部門の利益は前年同期比三百二十パーセント増。宝飾品部門も四百十パーセント増。ガレット商会の店舗と在庫も手に入った。……ふふふ、完璧すぎるわ」
愛結は帳簿を抱え、満足げに高笑いした。
「先生。喜んでいらっしゃるところ恐縮ですが、数字を一桁読み違えております」
向かい側から、静かな指摘が飛んでくる。
「は?」
確認すると、利益率の欄に余計な零を一つ書き足していた。
「……疲れてるのよ」
「先生が、ですか」
「なによ。その意外そうな顔は」
ナイジェルは銀縁メガネを押し上げ、何事もなかったように書類を整理している。きちんと整えられた黒髪と、相変わらず濃い目の下のクマ。公爵の襲来以来、彼は胃薬を手放せなくなっていた。
「まだ飲んでるの、その胃薬」
「公爵様が、いつ再訪されるかわかりませんので」
「お父様はそんなに暇じゃないわよ」
「抜身の剣を持って夜会へ来る方です。警戒して当然でしょう」
愛結は反論できず、咳払いをした。
「とにかく。もう一度言っておくけど、あの恋仲宣言は、お見合いを断るための方便だったんだからね」
「承知しております」
あまりにも迷いのない返事だった。
愛結の胸の奥に、またあの意味のわからない苛立ちが湧き上がる。
(承知しております、じゃないわよ。そこは少しくらい、困るとか、嬉しいとか……何か言いなさいよ)
愛結は羽ペンの先で帳簿を叩きながら、無意識にナイジェルを盗み見た。
自分がどんな無茶を言っても、ため息をつきつつ必ず隣に立つ男。砂漠の女王に売れと言われた時も、他の令嬢と踊る時も、父親の剣が彼へ向けられた時も――胸の奥は、ひどく騒がしかった。
(あいつがいなくなったら困る。優秀な社員だから。私の事業計画が狂うから。それだけよ)
けれど、優秀な社員なら他にも雇える。
有能な執事なら、金貨を積めば探せる。
それでも、ナイジェルが他の誰かの隣で笑う姿だけは、どうしても想像したくなかった。
(……あ)
愛結は羽ペンを取り落とした。
(私、ナイジェルのことが……好き、なの?)
心の中で言葉にしただけで、顔から火が出そうになる。
「先生? どうかなさいましたか」
「な、なんでもないわよ! もっと利益を増やせる余地があると思っただけ!」
愛結が取り繕うように机上の書類を掴むと、その中から王立学園の紋章が刻まれた招待状がひらりと落ちた。
「同窓会の案内状ですね」
ナイジェルが拾い上げる。
「行くわよ。学園に集まる元貴族どもは、金の匂いしかしないじゃない。新規顧客の開拓にはうってつけよ」
愛結は、胸の騒ぎを誤魔化すように招待状をひったくった。
「それに……あんたも来なさい。私の専属執事なんだから、勝手にどこかへ行くんじゃないわよ」
「畏まりました、先生」
ナイジェルは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
その微笑みに、愛結の心臓がまた一つ跳ねる。
(恋愛感情なんて、事業の役に立たない。コストばかり掛かる不良債権よ)
それでも愛結は、ナイジェルが自分の隣にいることを、ほんの少しだけ嬉しいと思ってしまった。
「勘違いしないでよね。あんたは、これからも私のものなんだから」
「はい。喜んで」
即答された言葉に、愛結は真っ赤になって顔を背けた。
帳簿の余白には、いつの間にか羽ペンで乱れた文字が書かれている。
――ナイジェルは、渡さない。




