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龍と虎の首縊りの迷宮  作者: 秦江湖


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ファンタジーの女王、過労で散る

「先生!起きてください先生!あと三時間で印刷所が爆発します!」


 耳元で響く悲痛な叫び声に、金崎愛結かなさきあゆは薄く目を開けた。


 視界に映るのは、山のように積まれた栄養ドリンクの空き瓶と、書きかけの原稿データが光るトリプルモニター。


そして、今にも泣き出しそうな顔をした長身のメガネ男子――担当編集の蛯原文吾えびはらぶんごだった。


「うるさいわね、文吾。印刷所は爆発しないわよ。物理的に」


「比喩です!僕の胃袋と編集長の血管はすでに爆発寸前なんですよ!お願いですから、あと三ページ、あと三ページだけ書いてください!」


 入社二年目、二十五歳の蛯原は、真面目で押しに弱い性格が災いし、社内でも「猛獣」と恐れられる愛結の担当を押し付けられていた。


 対する愛結は、二十代後半にして「ファンタジーの女王」の異名をとる大ヒット作家である。


彼女の生み出す作品は、常識を打ち破る展開と強烈なキャラクターで読者を魅了し続けていた。


代表作『龍と虎の首縊りの迷宮』は、累計発行部数一千万部を突破するメガヒットを記録している。


 しかし、その天才的な才能の裏で、彼女の執筆スタイルはまさに「傍若無人」そのものだった。


 思いつきでプロットをぶち壊し、気分が乗らなければ一文字も書かない。そのくせ、締め切り直前になると驚異的な集中力を発揮し、周囲を阿鼻叫喚の渦に巻き込みながら傑作を叩き出すのだ。


「ああもう、分かったわよ。書けばいいんでしょ、書けば」


 愛結は重い体を起こし、キーボードに手を伸ばした。


 しかし、その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。


 五日連続の徹夜、主食はエナジードリンクとグミのみ。強靭な体力と精神力で乗り切ってきた愛結の肉体も、ついに限界を迎えていたらしい。


「あれ……?なんか、モニターが、二つに……」


「先生?金崎先生!?ちょっと、息してませんよ!救急車!誰か!」


 薄れゆく意識の中で、愛結は最後に思った。


(あ、これ、死んだかも。……でもまあ、これで締め切りから解放されるなら、いっか)



     ♢



 小鳥のさえずりと、柔らかな日差し。


 ふかふかのベッドの上で、愛結はパッチリと目を覚ました。


「……よく寝た」


 大きく伸びをして、周囲を見渡す。


 そこは、見慣れた散らかった仕事部屋ではなく、天蓋付きの豪華なベッドと、アンティーク調の高級家具が並ぶ、お姫様のような部屋だった。


「どこ、ここ。病院? にしては趣味が悪いわね」


 愛結はベッドから降り、部屋の隅にあった大きな姿見の前に立った。


 そこに映っていたのは、ボサボサ髪で目の下に隈を作った徹夜明けの三十路手前の女――ではなかった。



 プラチナブロンドの艶やかな髪。

 サファイアのように青く澄んだ瞳。

 透き通るような白い肌と、まだあどけなさを残しつつも、完成された美貌を持つ十七、八歳ほどの少女。


「……は?」


 愛結は鏡の中の少女の頬をつねった。痛い。


 次に、少女の顔をまじまじと見つめた。


 見覚えがある。ありすぎる。なにせ、この顔は――。


「これ、私がデザインした『エレノア』じゃない!」


 エレノア・フォン・クライス。


 愛結の大ヒット作『龍と虎の首縊りの迷宮』に登場する、傾国の悪役令嬢である。


 国を三つ傾かせ、勇者たちを返り討ちにし、ライバルの聖女から王子様を奪い去るという、作者の愛結ですら「ちょっとやりすぎたかな」と思うほどの無双キャラクター。


 ちなみに、その容姿は愛結自身の顔を「これでもか」と美化してモデルにしたものだった。


「ってことは、もしかして……転生? 異世界転生ってやつ!?」


 自分が書いた小説の世界に、自分が作ったキャラクターとして生まれ変わった。


 普通なら混乱し、パニックに陥るところだろう。しかし、愛結は違った。


 彼女は鏡に向かって、満面の笑みを浮かべた。


「最高じゃない!締め切りがない!担当編集もいない!しかも実家は超金持ちの公爵家!よーし、決めたわ。私、この世界でテキトーに商売でもしながら、のんびりスローライフを送る!」


 原作では、エレノアは最終的に世界を巻き込む大戦争を引き起こす運命にある。しかし、そんな設定は今の愛結にとってはどうでもよかった。


 大事なのは、今ここが「締め切りのない世界」であるということだ。


「お嬢様、お目覚めですか」


 その時、控えめなノックの音と共に、部屋の扉が開いた。


 入ってきたのは、黒の燕尾服をビシッと着こなした、長身の若い執事だった。


 銀縁の眼鏡の奥にある、真面目そうな瞳。

 愛結はその顔を見て、ピタリと動きを止めた。


「……えっ?」

「……は?」


 執事もまた、愛結の顔を見て絶句していた。

 数秒の沈黙の後、執事は眼鏡を中指で押し上げ、震える声で言った。


「……金崎、先生……?」


「文吾ぉおおおおお!? なんであんたまでいるのよおおおおお!!」



 かくして、ファンタジーの女王と苦労人編集者の、異世界スローライフ(未遂)が幕を開けたのである。



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