第3話 ナンピン地獄
誰もが勘違いしている。
ダイバーは船のヘリに腰かけ、バク転するようにエントリー(海中にドボン)するものだと思っていることだろう。
カッコいい。できることならそうしたい。
しかし、多くのダイビングショップの船はクルーザータイプで、水面まで階段のようなプラットホームを降ろしてくれる。
つまり、水面ギリギリから、大きく一歩踏み出すようにドボンするのが一般的だ。
まあ、俺は年に一度ダイビングを楽しむ万年ブランクダイバー(前回のダイビングから半年以上の間隔がある)だから、一本目は少なからず緊張する。
ゆえに、ポカをする。
日焼け止めに気をとられて、マスクに曇り止めを塗るのを忘れていた。
これは、一番やってはいけないポカだ。
なぜなら、ほとんど何も見えなくなるからだ。次第に次第に、白い雲が視界を覆っていく。
基本的にダイビングは一日三本。価格は三万円~が相場だ。
つまり、一万円をドブに捨てることになる。
いやぁサンゴがキレイだな~とか、ニモだぁ~、などというウキウキは一切なくなる。
言うなれば、パチスロで天井まで回して、BERの単発で終わった絶望感だ。
引率のインストラクターはそこまで親身ではない。安全管理が優先なのだから。
――俺は、白く染まっていく視界の中、あの頃のことを思い出していた。
2023年の冬、資産を700万円まで増やした俺は、絶頂の中にいた。
連戦連勝。負ける気がしなかった。
わずか数分で日当にして三万円ほどを稼げる。月にすると月給を超える含み益が積み上がっていくのだ。
しかし、この勝利の方程式は長く続かなかった。
どういうわけか、すべて逆の値動きをするようになってしまった。
下がりきったと思った株がさらに下がる。
逆に上がっている株を買えば、勝った途端に下がる。
それは誰しもが通る道なのだが、すでにデイトレーダーを自称している俺は、どうしても納得できなかった。
今でもそうなった理由は説明できない。
要するに、運よく波に乗れていただけのことだったのだ。
まさに生き物。どうすればいいのか分からなくなってしまった。
だが、ここまできて「もうええわ」とはならない。
しかし、デイトレを続けてもジリ貧だった。どんどんバクチの方向に行ってしまうからだ。
デイトレを封印するわけではないが、同じ波が来るまでは別の方法を考える必要があった。
そこで考えたのは、『中間』を行くことだった。
有名どころの安定した大企業でもなく、乱高下の激しい新興企業でもない、その中間だ。
適度に上下する株価で一点張りする。そして、超短期ではなく月単位のスパンで利益を出すのだ。
幸い、デイトレ用にピックアップしていた企業の中に、これと思える株があった。
明確な理由はない。四季報(企業の情報を簡潔にまとめたもの)を見ていると、なぜか惹かれるものがあったからだ。
それは、フィックスターズという会社だ。
ソフトウェアの開発会社で、高度な技術を持つエキスパート集団だという。
スーパーコンピュータや量子コンピュータ、ハードウェアの性能を引き出すプログラムの最適化、高速化、はては乳腺エコーのAI診断など事業は多岐にわたる。
なかなか理解の及ばない業態だが、その職人気質の姿勢に惹かれたのかもしれない。
株価のチャートは、落ち切ったと思われるところから緩やかに上昇中。業績、財務ともに優良。
誰しもが見ているだろうYahooファイナンスの掲示板にも、天才集団などの絶賛コメントが並んでいた。
視野狭窄と言われれば、そうかもしれない。だが、この会社しかないと思った。
株価は、1,200円ほど。
さすがに全財産を投入するのはためらわれたので、360万円で3,000株を購入した。
多少下がることはあるだろう。しかし、月のスパンで見れば確実に上がっていくと思われた。
その予想は、当たった。
株価は上昇気流に乗り、2024年3月には、2,400円をつけた。
1,200円の上昇。320万円の含み益だった。
毎日コツコツ数万円を積み重ねて、300万円得るには年単位かかる。
自分の信念に従った結果は格別だった。
残りの資金で運用した損失もあったが、資産は900万円となり、俺は再び絶頂を迎えた。
もう1,000万円の大台を確信していた。
そして、フィックスターズを持ち続けることに決めた。
高い技術力があり、将来性も明るい。
そう思っていたが、ここでも問屋は簡単に卸してくれなかった。
俺は甘く考えていた。業績に関係なく、じわじわと下がっていく株の恐怖を。
そして知らなかった。『買い残』という魔物の存在を。
フィックスターズは、買い残がかなり多かった。
買い残とは、信用取引で買われた株(買い建玉という)がどれだけ残っているかという指標だ。
信用取引とは、自分の持っている資金で買うのではなく、その金を保証金として証券会社から金を借りて3倍から5倍程度の売買ができる方法である。
つまり、借金だ。借金して自己資金の何倍もの取り引きを行うわけだ。
また信用取引は、実物の株(現物という)を買うわけではない。他人の株を借りている状態で、必ず期限内に返済しなければならない。
この場合は、期限内に売らなければならず、その差額が利益となるわけだ。
したがって、買い残の数 イコール 売らなければならない数となる。
当然、俺はそんなことを深く考えてはいなかった。
信用買いしてまで欲しい株、将来有望な株だと思っていた。
これは初心者が嵌まるワナで、多くの場合、期待値から買い残が増えているわけではない。
それから、株価はじりじりと下がり始めた。
900万もあるのだから、動じなければいいと思うだろう。
しかし、内心は焦っている。目の前に大台の1,000万がチラつくからだ。
なんとかしなければ。そう思うと、もうこれが底だろうと思って買い足していく。
次の日も、その次の日も。もう下がらないだろうと思って買い足してしまうのだ。
このように、下落したときに買い足して平均取得単価を下げることを『ナンピン』という。
まだ余裕がある。これで上がれば逆に一気に跳ね上がる。そう思うともう止まらない。
あっという間に、全財産をナンピンするハメになる。
買い残の多さは、たいていがこのナンピンなのだ。
フィックスターズは、信用倍率(買い残を売り残で割ったもの)が100倍もあった。
これは業種によってまちまちだが、一般的に一桁台が適正とされる。
もっとも、フィックスターズは信用売りに制限がかかっており、当日中に返済する必要があるので、買い残が多いという側面もあるのだが、そんなことを俺が理解しているはずもない。
いずれにしても、この状態になると株価は長期低迷する。
なぜなら、買い残数は将来の売り確定数だからだ。必ず売られる株が残っているのだから、株価は下がるだろう。そう判断されるわけだ。
2026年の任天堂のように、業績に関係なく株価は下落の一途を辿る。
2024年から約一年間、俺はこのナンピン地獄を彷徨った。
――まるで、マスクに白い雲がかかったように。




