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『ホテル・ブルートーンへようこそ』  作者: マサ


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3/5

第3話:『フォロワーの向こう側』

もし、ある朝目覚めて、自分の顔が自分の意志で動かなくなっていたら――。


今回の主人公、浅川さんは、SNSという煌びやかな光の中で、自分自身を削り続けてきた女の子です。

24時間、誰かの「いいね」を求めて完璧な自分を演じ続けた結果、彼女の身体は、

悲鳴を上げる代わりに「沈黙」を選んでしまいました。


顔の半分が麻痺し、鏡を見ることを恐れるようになった彼女が、なぜ大島の

『ホテル・ブルートーン』を訪れたのか。

そこには、かつて同じように自分を見失い、この場所で救われた真由美さん(第1話)からの、

切実な願いがありました。


画面を閉じたときに残る、本当の自分。

動かない頬に触れる、冷たくも優しい潮風。

彼女が自分自身の「家(心)」へと帰還する物語を、カイトさんの奏でるサンボーンの調べと共に、

静かに見守っていただければと思います。

「……あ、電波。入んないんだ」


ホテルのテラスに立った浅川は、スマートフォンを高く掲げて呟いた。

フォロワー数20万。彼女の日常は、24時間「映え」と「いいね」に支配されていた。

どこへ行き、何を食べるか。そのすべては自分自身の欲求ではなく、

画面の向こう側の「数字」が決めること。

一週間前、鏡に映った自分の顔が、自分ではなく「誰かが加工したフィルター越しのアイコン」

に見えたとき、彼女は逃げるようにこの島行きの船に乗った。


「高木様から伺っております。浅川様、ようこそいらっしゃいました」


須賀が静かに頭を下げる。浅川は、癖でスマートフォンのインカメを自分に向けようとして、

そのレンズの暗さに指を止めた。

「高木さん……。私のこと、なんて言ってた?」


「『自分を見失っている迷子が一人行くから、一番厳しい風に当ててくれ』と」


須賀が案内したのは、切り立った崖の上のテラスだった。

そこには、三脚も、ライトも、レフ板もない。ただ、暴力的なまでの自然の風と、

荒れ狂う海があるだけだった。

「ちょっと! 髪がボサボサになっちゃう。これじゃ写真撮れない……」


「撮る必要はありません」

須賀の声が、風を切り裂いた。

「今、ここであなたが感じている『不快感』こそが、あなたの本物リアルです」


そこへ、料理長の亮太が、湯気の立つ一皿を運んできた。

「……島で採れた明日葉のポタージュです。少し苦いですよ」


浅川は、無意識にスマートフォンで料理を撮ろうとしたが、そのレンズを自分の指で遮った。

そして、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。


「にがっ……」


強烈な苦味。けれど、その後に訪れる鮮烈な緑の香りと、喉を通る熱。

加工されたスイーツや華やかなカクテルにはない、残酷なまでの「生命」の味だった。

「私……。何を食べても、写真のことしか考えてなかった。味がどうなんて、どうでもよかったんだ」


その時だった。

背後のラウンジから、重厚でファンキーなベースラインに乗り、突き抜けるようなサックスの

音が鳴り響いた。


デヴィッド・サンボーンの『Comin' Home Baby』。


カイトが吹くその旋律は、第1話や第2話の時のような寄り添うバラードではなかった。

もっと攻撃的で、それでいて「ここへ帰ってこい!」と叫ぶような、圧倒的な生命の咆哮。

サンボーン特有の、あの「高いフラジオ」が、浅川の頭の中にあった雑音を

すべてなぎ倒していく。


「Comin' Home……。帰る場所なんて、私には……」


浅川の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。フィルターも、加工アプリも、フォロワーからのコメントも

届かない場所で、彼女は初めて、自分自身の「苦しみ」と「寂しさ」を真正面から受け止めていた。


カイトの吹き鳴らす『Comin' Home Baby』の余韻が残る中、浅川はBAR『ブルートーン』の

カウンターで、左側の頬を無意識に指でなぞっていた。


GMの佐々木は、彼女のそのわずかな動作を優しく見守りながら、温かいスチームミルクに

数滴のハーブエッセンスを垂らしたグラスを差し出した。


「……浅川様、お顔の具合はいかがですか」


浅川は、まだ少しだけ動きの鈍い口角を無理に上げようとして、途中で諦めたように溜息をついた。


「わかっちゃいました? ……1ヶ月前、病院のベッドで目が覚めたとき、

顔の左半分が全く動かなかったんです。鏡を見るのが仕事だったのに、その鏡が一番の

恐怖になりました。SNSの更新が止まるのが怖くて、寝不足とストレスをエナジードリンクで

誤魔化し続けた結果が、顔面麻痺と1ヶ月の入院生活でした」


彼女は、少し震える手でグラスを包み込んだ。


「退院した私に、高木(真由美)さんが言ったんです。


『今のあなたには、フォロワーの励ましじゃなくて、大島の厳しい潮風が必要よ。

あそこの相談役やスタッフは、あなたの顔じゃなくて、あなたの魂を診てくれるから』って」


佐々木は、ゆっくりと頷いた。

「高木様らしい処方箋です。……浅川様、左の頬が動かないのは、あなたの身体が

『もう、誰かのための顔をしなくていい』と、強制的にシャッターを下ろしたからかもしれませんね」


「……誰かのための、顔」


「ええ。24時間、完璧な自分を演出し続けることは、魂を削る作業です。ここでの滞在は、その

シャッターを内側からゆっくりと開けていくための時間。動かない半分は、あなたが今まで

頑張りすぎてしまったあかしですよ。恥じることではありません」


佐々木は、氷を使わないカクテルを静かに差し出した。


「カイトが先ほど吹いた曲は、『家(自分自身)へ帰ろう』というメッセージです。

麻痺が残っている今のあなたも、治りつつあるあなたも、どちらも欠けていない『浅川様』

ご自身です。半分が動かないのなら動く方の半分でこの島の空気を思い切り吸い込んでください」


浅川は、言われた通りに深く息を吸い込んだ。ハーブの香りが、こわばっていた表情筋を内側から

解きほぐしていくのを感じた。


「……佐々木さん、不思議ですね。病院の先生には『安静に』としか言われなかったのに、

ここでカイトさんのサックスを聴いて、亮太さんの苦いスープを飲んだら、なんだか、

動かない左の頬が少しだけ温かくなった気がします」


「それは、あなたの生命力が『 Comin' Home 』……本来の居場所を見つけた合図かもしれません」


佐々木は、父親のような慈愛に満ちた眼差しで、彼女のグラスが空になるのを静かに待っていた。


「20万人のフォロワーより、今、あなたの目の前でサックスを吹いているカイトや、

料理を作った亮太、そしてこの一杯を作った私。その『三人の体温』を感じてください。

それが、あなたが今、この世界に存在している証明です」


浅川は高木がこのホテルで静養するよう言われた意味がドミノ倒しのように分かっていった。

そして、その計らいに深く感謝した。


翌朝。

チェックアウトを終えた浅川の首には、昨日までぶら下がっていた高価なスマートフォンがなかった。

それは、大切にカバンの奥に仕舞われていた。


「須賀さん。私、都会に帰ったら、一度アカウントを消してみます」


「いい決断です。……ですが、いつかあなたが、本当に自分の心から美しいと思った瞬間が訪れたら、

またその時は、誰かに伝えても良いかもしれませんね」


「かめりあ丸」のデッキ。

船が島を離れ、白亜のホテルが小さくなっていく。


その時、潮風に乗って、清らかな、どこまでも優しいサックスの旋律が聞こえてきた。

カイトがテラスから送る、最後の処方箋。

チャップリンが愛した、あの『Smile』だった。


――たとえ心が痛んでも、微笑んで(Smile, though your heart is aching)――


浅川は、カバンの中からスマートフォンを取り出した。だが、レンズを自分に向けることはなかった。

画面の電源は切れたまま、黒い鏡となって今の彼女を映している。


左側の頬は、まだ完全には動かないかもしれない。

けれど、彼女は周りの目を気にすることなく、真っ直ぐに海の向こうを見つめ、静かに微笑んだ。


それは、フォロワーに見せるための「加工された笑顔」ではない。

苦いスープを飲み干し、荒い風に吹かれ、自分の足で大地を踏みしめた者だけが持てる、

ありのままの、いびつで、美しい、本物の微笑み。


「……行ってきます」


潮風が、彼女の飾らない髪を自由に躍らせる。

耳の奥で鳴り響くサックスの音色は、彼女を縛り付けていたデジタルの鎖を解き放ち、

自分自身の心へと帰還する、長い旅の始まりを告げていた。


(第3話:フォロワーの向こう側 完)

書き終えた今、心地よい潮風が吹いた後のような、清々しい気持ちでいっぱいです。


浅川さんが最後に浮かべた「微笑み(Smile)」。それは、たとえ半分が動かなくても、

たとえ完璧な左右対称ではなくても、自分の魂が確かにそこにあることを証明する、

世界で一番美しい表情だったと確信しています。


「かめりあ丸」のデッキで彼女がスマートフォンではなく、真っ直ぐに海を見つめた瞬間、

彼女を縛っていた「数字の呪縛」は消え去りました。

カイトさんの吹く『Smile』は、彼女だけでなく、日々何かに追い詰められている

私たちへのエールでもあったのかもしれません。


陽子マサ

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