第2話:『沈黙の通帳(つうちょう)』
野内です。
第1話の陽子さんの物語、瑞々しくて胸に迫るものがありました。真由美さんがスニーカーで
踏み出した一歩は、一人の女性の自立として本当に美しかった。
さて、バトンを受け取った第2話の主人公は、鈴木という60歳の男です。
彼のような世代にとって、仕事は単なる生活の糧ではなく「アイデンティティ」そのものでした。
定年を迎え組織という後ろ盾を失った時男は自分が「中身のない空っぽの通帳」のように感じてしまう。
そんな不器用で、プライドが高く、そして今にも折れそうな男の背中を、我らが『ホテル・ブルートーン』の面々がどう迎え入れるのか。
今回は、男同士の静かな火花と、腹に響くような「苦味」の物語です。
よろしければ、少し重めのウイスキーでも片手にお付き合いください。
「失礼致します……。お荷物をお預かりしましょうか、鈴木様」
大島元町港から送迎車で着いた男を、須賀はいつも通りの無機質な、
しかし一切の妥協のない姿勢で迎えた。
鈴木は、長年の習慣だろうか、深すぎるほど深く頭を下げた。
だが、その肩は驚くほど薄く、手にしたボストンバッグが異様に重そうに見えた。
チェックインカウンターで、鈴木の手が止まった。
鈴木は、差し出された万年筆を握ったまま、動かなくなった。
ホテルの静寂が、かえって耳の奥でキーンと鳴っている。
「……鈴木様。お苦しいのでしたら、代筆いたしましょうか」
須賀の静かな、しかしすべてを見透かすような声が降ってきた。
鈴木は喉を鳴らし、掠れた声で言った。
「いや……。ただ、何と書けばいいのか分からなくてね。
昨日までは『銀行支店長』という四角い枠の中に自分を押し込めていれば、それで済んだ。
だが、昨日、最後の花束を受け取って、今朝この島行きのチケットを手に取った瞬間、
自分がただの『名前だけの記号』になったような気がしたんだ」
鈴木は、誰もいないロビーを見渡した。
「40年だ。40年間、私は他人の通帳の数字を追いかけ、他人の人生に印鑑を押してきた。
だが、自分の人生を振り返ってみると、ここには一文字も記帳されていない。
家族との会話も、趣味と呼べるものも、すべて銀行のシャッターの向こう側に置いてきてしまった。
……今の私の中身は、空っぽの金庫と同じですよ」
須賀は、鈴木が『無職』と書こうとして止まったペン先をじっと見つめていた。
「鈴木様。当ホテルには、かつて金メダルを逃し、
自らの価値を失ったと絶望して訪れた若者がいました。
また、自分の名前を捨てて海を見つめ続けた男もいました」
須賀は、鈴木の手から万年筆を奪うのではなく、その手に自分の手を添えるようにして言った。
「あなたが守ってきたのは『数字』だったかもしれませんが、私が見ているのは、
その数字を40年間守り抜いたあなたの『指のタコ』であり、その『真っ直ぐな背筋』です。
それは、組織を離れても消えることはありません。……無職? いいえ。
あなたは今、40年という長い勤務を終えたばかりの、『自由の入り口に立つ旅人』です」
鈴木は、須賀の言葉を咀嚼するように何度も瞬きをした。
「……自由の、入り口。そんな格好いいものじゃないが」
「十分、格闘してこられた。その証拠に、あなたの瞳はまだ死んでいない。
……鈴木様。ここでの滞在は、その『空っぽの金庫』に、
お金ではないものを詰め込むための時間にしてください」
須賀は、鈴木が震える手で『無職』と書いた文字の横に、小さく、
しかし力強い筆致で『自由人』と書き添えた。
「失礼致しました。当ホテルの帳簿では、本日からそのように扱わせていただきます」
鈴木は、鼻の奥がツンとするのをこらえるように、あえて厳しく、フンと鼻を鳴らした。
「……高い宿泊料を取るんだ。精々、楽しませてもらうよ」
「承知いたしました。では、まずはその強張った身体を、亮太の料理で『解体』していただきましょう」
「お部屋へ行く前に、ダイニングへ。亮太が、あなたのために『食べにくい料理』を用意しております」
ダイニングで出されたのは、大島産の大きな殻付きの蟹と、
数種類の小さなハサミやピックが並んだ
一皿だった。
「……これは、どう食べればいいんだ」
「無心になって、格闘してください。数字の計算も将来の不安もその殻を割る音でかき消せるはずです」
亮太の言葉通り、鈴木は無言で蟹と向き合った。40年間、効率とスピードを求めてきた彼が、
たった一口の身を得るために、指先を汚し、時間を忘れて没入する。
気づけば、一時間以上が経過していた。額には汗が浮かび、頭の中を占領していた
「退職後の虚無感」は、いつの間にか霧散していた。
その夜、鈴木は吸い寄せられるようにBARの扉を叩いた。
カクテルを注文する勇気もなく立ち尽くす彼に、GMの佐々木が静かに声をかける。
「お疲れ様でした、鈴木様。蟹との戦いは、お客様の勝利だったようですね」
「……疲れましたよ。でも、不思議と嫌な疲れじゃない。今までこんなに何かに没頭
したことはなかった」
佐々木は頷き、バックバーから一本のウイスキーを取り出した。
「鈴木様。銀行員として、多くの人の『信用』を記帳されてきたあなたに、今夜はこの一杯を」
差し出されたのは、重厚なロックグラス。
「ウイスキーは、樽の中で何十年も眠り、静かに熟成の時を待ちます。
外からは何も変わっていないように見えても、その中身は一分一秒、深みを増していく。
退職とは組織という樽から出され、ようやく『個』としての琥珀色を世に問う瞬間だと私は思います」
鈴木は、琥珀色の液体を口に含んだ。
ピートの煙たい香りと、熟成された深いコク。
それは、彼が歩んできた40年という歳月の重みそのもののように感じられた。
「……私の通帳は、もうゼロだと思っていました。でも、この味は……私の残高ですか」
「ええ。誰にも引き出せない、あなただけの残高です」
佐々木が差し出したウイスキーを口に含み、鈴木がその重厚な余韻に浸っていた、その時だった。
ロビーの吹き抜けから、一本の柔らかな、しかし心臓の鼓動を直接掴むようなサックスの音が
流れ込んできた。それは、カイトがいつも聴かせる、嵐のようなスピード感溢れるフレーズではない。
一音一音が、深い夜の底へ沈み込んでいくような、重厚で温かいバラード。
鈴木は、グラスを口元に運ぼうとした手の動きを止めた。
「……っ!」
背筋に電撃が走る。心臓が、自分でも驚くほどの速さで脈打ち始めた。
「この曲は……」
それは、スティーヴィー・ワンダーの名曲を、デヴィッド・サンボーンがむせび泣くような
アルト・サックスでカヴァーした『Isn't She Lovely』だった。
だが、カイトの演奏は単なるコピーではない。
もっと深い、人生の夕暮れを知る男に寄り添うような、慈愛に満ちた響き。
鈴木の脳裏に、40年前の光景が鮮やかに蘇った。
銀行に入って間もない頃、まだ「支店長」という重圧も知らなかった若き日の自分。
初めてのデートで、背伸びをして入ったホテルのラウンジ。緊張で味のしなかったジンのグラスを
握りしめる自分の横で、「素敵な曲ね」と微笑んでいた彼女の横顔。
「……忘れていた。あいつが、あんなに綺麗に笑う人だったなんて」
鈴木の指先が震える。
仕事に追われ、数字に追われ、いつの間にか妻の笑顔を「当たり前の背景」
として処理するようになっていた。守ってきたはずの家族を、
守るべき「数字」の一部としてしか見ていなかったのではないか。
佐々木が、静かにカウンターを拭きながら言った。
「カイトくんは、人の記憶の断片を音にする天才です。
鈴木様、その曲を聴いて思い出したのは、
数字ですか? それとも、誰かの笑顔ですか」
鈴木は答えられなかった。ただ、溢れそうになる涙を隠すように最後の一口のウイスキーを飲み干した。琥珀色の液体が、後悔と感謝の混ざり合った感情と一緒に、喉を熱く焼いていく。
「……あいつに、謝らなきゃいかんな」
「謝る必要はありませんよ」
佐々木は微笑み、空になったグラスを下げた。
「明日、島を去る船の上で、ただ『ありがとう』と言えばいい。カイトの音は、その勇気を
チャージするために鳴っているのですから」
ロビーでは、カイトのサックスが最後の長い一音を、祈りのように響かせていた。
鈴木はゆっくりと立ち上がり、二階のラウンジで楽器を下ろしたカイトに向けて、
一度だけ、深く、静かに頭を下げた。
それは、「元銀行支店長」としてではなく、一人の「不器用な夫」としての、精一杯の礼儀だった。
翌朝。
チェックアウトを終えた鈴木は、昨日と同じボストンバッグを肩にかけ、エントランスに立った。
須賀が、昨日預かったままの「一通の封筒」を差し出す。
「鈴木様、お忘れ物です。……奥様からのメッセージカードが、チケットの裏に隠れておりましたよ」
鈴木がカードをめくると、そこには簡潔な手書きの文字があった。
『40年間、本当にお疲れ様。これからは、二人で新しい通帳を作りましょう』
鈴木の目から、初めて一筋の涙がこぼれた。
「……須賀さん。私は、またここに来てもいいですか。今度は、家内と一緒に」
「もちろんです。その時は、職業欄に『旅行家』とでもお書きください」
須賀に見送られ、鈴木は「さるびあ丸」のタラップを踏みしめた。
昨日、この島に降り立った時の、何かに怯えるような、あるいは過去にすがりつくような
足取りではない。一歩一歩が、自分の体重をしっかりと大地に、
そして船体に預ける、力強い歩みだった。
船がゆっくりと岸壁を離れる。
鈴木はデッキの一角、風が一番強く当たる場所に陣取った。
ふと横を見ると、昨日の自分と同じように、疲れ果てた顔で海を見つめる若いサラリーマンの姿が
あった。かつての自分なら「甘えるな」と心の中で一蹴していただろう。
だが、今の鈴木は、その青年の背中に、かつての自分の孤独を重ねていた。
鈴木は、内ポケットからスマートフォンの電源を入れた。
40年間、それは「指示」と「報告」のための機械だった。
だが今、彼は初めて自分の心からの言葉を綴るためにその画面に向き合った。
『今、船に乗った。
今まで、君のことを家の景色の一部のように思っていた。苦労ばかりかけて、本当にすまない。
帰ったら、あの時のホテルのラウンジで聴いた、あの曲を一緒に聴かないか。
……40年間、俺を支えてくれて、ありがとう。』
送信ボタンを押す指に、迷いはなかった。
すぐに返信が来ることは期待していない。だが、言葉を「送る」という行為そのものが、
彼の空っぽだった心(通帳)に、確かな重みを与えていた。
「……さあ、仕事だ」
鈴木は小さく呟いた。それは銀行員としての仕事ではない。
一人の男として、一人の夫として、残りの人生をどう豊かに「記帳」していくかという、
終わりのない、しかし最高に贅沢な仕事だ。
遠ざかっていく大島の、白亜の『ホテル・ブルートーン』。
そのテラスに、白銀のサックスを構えたカイトの姿が、一瞬だけ見えたような気がした。
耳を澄ませば、風の音に混じって、あの重厚な『Isn't She Lovely』が、背中を押すエールのように
聞こえてくる。
鈴木は、もう一度だけ深く、島の方向に頭を下げた。
そして、真っ直ぐに前を向き、水平線の向こうにある自分の家へと、誇りを持って帰っていった。
(第2話:沈黙の通帳 完)
男の再生とは、きっと「謝る勇気」と「感謝する勇気」を持てた時に完成するのだと思います。
鈴木さんの「さるびあ丸」での背中は、きっと定年を迎えたどの男よりも格好良かったはずです。
陽子さん、野内のターンはここまでです。
次回の第3話、SNSの数字に支配された少女が、どうやって自分自身という
「一人の人間」に戻っていくのか。
陽子さんの、優しくも鋭い「言葉の処方箋」を、心から楽しみにしています。
野内より、感謝を込めて。




