異世界生活
没落寸前の伯爵令嬢だった私が、前世の記憶を取り戻し、半年経った、とある日の午後。
ここ、ルーメン国の王都には涼やかで心地よい風が吹き抜けていた。高く澄み切った青空の下、街を行き交う人々の足取りもどこか軽やかに見える。そんな穏やかな日和の中、私は自分の店、ひいては生活の基盤となる大切な城から離れ、少しばかり落ち着かない日々を過ごしていた。
現在、私の店舗兼自宅になる予定のお店は、大規模な改修工事の真っ最中である。それに伴い、お店はしばらくの間お休みしていた。店の周囲には足場が組まれ、朝から夕方まで職人たちの活気ある声と、木材を切り出す小気味良い音が響き渡っている。工事が完了するまでの間、私と幼少期からの専属護衛騎士であるカシウスは、こぢんまりとしたアパートを仮住まいとして借り、そこで生活を送っていた。
実は、この改修工事に踏み切るまでには、私の中でかなりの葛藤があったのだ。当初の計画では、アパートの仮住まい期間を長めに設定し、その間にどこかに小さくとも快適な家でも建てようかと迷っていた。手持ちの資金に余裕がないわけではなかったが、見通しの甘い投資は身を滅ぼす。
私が独自に足を使って商人たちから集めた情報や、最近の不動産に関するリサーチ結果を総合した結果、ある恐るべき事実が判明したのだ。
それは、ルーメン国の地価が、ここ数カ月でかつてないほどの急速な上昇を見せているという事実だった。商業の発展とともに人口が流入し、王都の中心部だけでなく、周辺地域の土地までが投機の対象になり始めている。この「地価高騰」という言葉は、私の前世の記憶――正確に言えば、前世における「家賃上昇のトラウマ」を容赦なくえぐり出した。
前世の私は、不便ではないが、決して裕福とは言えない生活を送っていた。毎月の家賃の支払いに頭を悩ませ、ようやく今の生活リズムに慣れてきたと思った矢先に訪れる「契約更新」の通知。そこには、無情にも「周辺相場の変動に伴う家賃の改定」という名目で、数千円、時には一万円以上の値上げが記されていた。たかが数千円と侮るなかれ。それは毎月の固定費として重くのしかかり、私のささやかな娯楽費や食費を確実に削っていった。結局、家賃を払い続けることが困難になり、泣く泣く初期費用をかき集めて、より家賃の安い、不便な土地へと引っ越しを余儀なくされた絶望感。あの時の、自分の居場所を根こそぎ奪われるような無力感と恐怖は、転生した後も、魂に深く刻み込まれていたのである。
「自分の城は、絶対に誰にも脅かされない完全なものにしなければならない」
その強い思いが、私に決断を促した。これ以上、地価や建築資材が高騰する前に、中途半端な計画ではなく、お店に根本的な改修と増築を行い、完全な持ち家兼店舗として盤石な地盤を固める。たとえ一時的に大きな出費になろうとも、長期的な安心には代えられない。そうして私は、思い切って大改修の依頼書にサインをしたのだった。
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「カシウス、じゃあ今日の午後は大工さんたちの対応、お願いね!」
「はい、承知いたしました。怪我のないよう、しっかりと監督しておきます。ルキア様もお気をつけていってらっしゃいませ」
実家が家具店で、ほぼプロの大工に等しい騎士のカシウスが、現場監督として職人さんたちと打ち合わせをしてくれている。
その間、私は今日、ある人の屋敷を訪れる為、王都の高級住宅街である『白亜の丘』へと足を運んでいた。
王都の喧騒から少し離れた、静かで洗練された高級住宅街の一角。そこは、一歩足を踏み入れるだけで空気の質が変わるような、選ばれた者だけが住むことを許されるエリアだった。その中でも一際広大な敷地を誇るのが、大商人であるロマーナ氏の屋敷である。
高い石造りの門をくぐり、丁寧に手入れされた庭園へと案内された私は、思わず感嘆の息を漏らした。この世界の裕福な貴族や豪商の館といえば、金や白大理石をふんだんに使い、過剰なまでの彫刻や装飾で豪華絢爛さを競うのが一般的だ。しかし、ロマーナ氏のお屋敷は、そういった趣味とは一線を画していた。
いかにも異国風の、深い青色と黒を基調にした落ち着いた外観。無駄な装飾を削ぎ落としながらも、建物のフォルムそのものが芸術的な美しさを持っており、周囲の自然と見事に調和している。前世の感覚で言うところの、一流の建築家が手掛けた「モダンなお屋敷」に限りなく近かった。庭園には、珍しい青紫色の花を咲かせる低木が幾何学的な美しさで配置され、黒い石畳が緩やかなカーブを描いてガゼボ(西洋風のあずまや)へと続いている。
そのガゼボの白いテーブルの向こう側で、ロマーナ氏は優雅にお茶の準備をしていた。
彼女本人の装いもまた、屋敷の雰囲気と合致していた。裕福な女性商人といえば、これ見よがしに宝石を散りばめたドレスを着飾りそうなものだが、今日の彼女は驚くほどカジュアルな格好だった。体のラインを美しく見せる濃紺の細身のパンツに、ゆったりとした白いブラウス。一見すると街を歩く一般市民のようにも見えるが、目を凝らすと、その素材が只者ではないことがすぐにわかる。ブラウスの生地は、かすかな光沢を放ち、風に揺れるたびにシルクよりも滑らかに波打っている。おそらく、希少な魔獣の糸を卓越した職人が織り上げた、見ているだけで目の飛び出るような高価な代物だろう。シンプルであるがゆえに、彼女自身の持つ知性と商人としての圧倒的なカリスマ性が引き立っていた。
「ようこそ、ルキアさん。お待ちしていたわ」
ロマーナさんが私を笑顔で出迎えてくれた。
「ロマーナさん、本日はお招きいただきありがとうございます」
「ふふ、そんなに硬くならないで。今日はお店のお休みを利用して、ただのお茶会に誘っただけなのだから。さあ座って」
「先にどうしてもお礼を申し上げたくて。ペンギンの商標登録の件では、多大なるご支援をいただき、本当にありがとうございました」
私は席に着くや否や、深く頭を下げた。私が前世の動物から持ってきたペンギンのキャラクターは、今や私のお店の看板であり、大切なブランドとなっている。
あまりの人気ぶりに、神聖な聖鳥だのと宗教化し始め、王都のあちこちで粗悪な模倣品や偽物が出回る気配があったため、私は国ではなく、大陸一のメガギルドへ「商標登録」の手続きに走った。しかし、ギルドの煩雑な審査を何ヶ月も待たされる可能性が高かった。
そんな窮地を救ってくれたのが、他ならぬ大商人のロマーナさんだった。彼女の鶴の一声と絶大な影響力により、ペンギンの意匠権は瞬く間に私とカシウスの工房に独占登録されたのである。商標という概念がまだ発展途上であるこの国で、ペンギンの権利を独占的に保護するための法的手続きは、素人の私には到底不可能なものだった。それを裏から手を回し、強力な代弁官やギルドの役人を動かして見事に登録を完了させてくれたのだ。
ロマーナ氏は、ふんわりと余裕のある笑みを浮かべ、細く美しい指先で軽く手を振った。
「いえいえ、いいのよ。気にしないでちょうだい。私はただ、この子に惚れてしまっただけだから」
そう言って彼女が視線を落とした先には、今まさに私に差し出されたティーカップがあった。白磁のカップの側面に、私がデザインしたあの愛らしいペンギンの姿が、高度な焼き付け技術によって鮮やかに描かれている。彼女は自分のカップのペンギンを指先で優しく撫でた。
「こんなに愛らしくて、それでいてどこかユーモラスな生き物、今まで見たことがなかったわ。この意匠が街中に溢れたら素敵だと思っただけよ。好きな物に囲まれるって、とても気持ちが良いもの」
流石はロマーナさんだ。恩を着せることなく、自らの審美眼とビジネスの直感に従っただけだとスマートに言い切る。その洗練された立ち振る舞いに、私は改めて感服した。




