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3. ゆきあう朝影

 翌朝、わたしは教室に入れずにいた。


いつも通りの時間に、いつも通りに校旗を揚げ、いつも通りに教室にやってきてスケッチを──と思ったところではたと気付いてしまったのだった。


 ──わたし、昨日、クロッキー帳どうしたっけ?


 突然の雨に千夏(ちなつ)と一緒に教室を飛び出した。クロッキー帳を机の上に置いたまま。


 そう、こんなことは初めてではない。一冊目のクロッキー帳を教室に忘れたことがある。あの時タクミさんはきっと表紙を見ただけで机にしまってくれたんだと思う。そしてノートの切れ端で声をかけてくれた。


 二冊目はどうだろう。


 開かない、と思う。他人の描いたものを勝手に見るような人ではないと思う。会ったこともない人の涙に気付くほどの人だから。


 でも。もし、わたしがわざと置いていったと思ったら?


 昨日目が合ったのはそういうことなんじゃないかと思い始めていた。わたしからのメッセージだと思っているんじゃないかって。自分に宛てた手紙のようなものだと思っていたとしたら? ……当然開くだろう。


 二冊目のクロッキー帳にあるのはすべて屋上からこの教室を描いたものだ。窓辺にタクミさんがいる風景。そんなものを見たら、それは、つまり、その……そういうことだとわかるに違いなくて。


 だから、わたしは教室に入れずにいた。


「なにしてんの?」


 突然耳元で聞こえた声に、わたしは文字通り飛び上がった。


「び、び、びっ……」

「あ、ごめん。びっくりさせちゃった?」


 昨日の帰り際の話が気になって早く来ちゃった、と千夏が笑っていた。その笑みに誘われるように、わたしは一気にこれまでのことを語った。

 とはいえ、わたしとタクミさんの間に多くのことがあったわけじゃない。一冊目のクロッキー帳を教室に置き忘れたこと、それにメモが残されていたこと、二冊目のクロッキー帳を教室に置き忘れたこと、その日に目が合ったこと。わたし達に起こったことはそれだけだった。ただそれだけ。たったそれだけ。

 なのになんでこんなにもわたしの中はタクミさんで溢れているのだろう。


「泣かないで」


 千夏が優しく抱き締めてくれる。


 泣く? 誰が? そう訊こうとした声が震えて嗚咽になった。


亜衣(あい)が羨ましいよ。あたしは彼のことそこまで想えていない気がする」


 千夏はわたしを抱き締めたまま頭を撫でてくれている。


「そんなに好きなんだねぇ……」

「うん。好き。わたし、タクミさんのことが大好きなの」


 初めて声に乗せたわたしの気持ち。

 心から外の世界に出したら、それはとてもたしかなことに思えた。


 千夏はうんうんとやわらかな声で頷いてくれる。そして抱き締めていた腕を緩めて教室の中へと誘う。

 わたしはといえば、こんなに気持ちが昂った状態でも頭の片隅では早くしないとクラスメイトが登校してきちゃうと冷静に考えているのが我ながらおかしかった。


「ほら、席に座って」


 千夏がひいてくれた椅子に腰かける。

 机の上にはクロッキー帳がまっすぐ姿勢を正していた。授業中もこのままだったはずはないのだから、一度は手にしてまた机の上に戻したということだろう。


「もしその人が亜衣からのメッセージだと思ってこのクロッキー帳を見たのなら、きっとまたメモを残しているんじゃないかな?」


 千夏はわたしの後ろに立ち、両肩に手を置いてくれている。その温かさに励まされて、わたしはひとつ頷くと、ページをめくり始めた。


 一ページずつ。ゆっくりと。丁寧に。


 同じようなスケッチばかりが続く。西棟の屋上から見下ろす東棟の四階。その窓辺にあるタクミさんの姿。

 途中で何度か「ああ……」という千夏の感嘆ともため息ともつかない声が頭上から聞こえた。


 メモはまだない。


 タクミさんはわたしのクロッキー帳になんて興味はないのかもしれない。あの時のメモだって、本当はなんでもないのかもしれない。わたしの勘違いなのかもしれない。

 きっとそうだ。そうに決まっている。だって、会ったこともないのにわたしの心の深いところに触れてくるなんてありえないもの。


 あと一枚――。


 スケッチしてある最後のページを開く。タクミさんがこの机に腰かけて、椅子に座る誰かと談笑している図。屋上から眺めるわたしの目に映るのはタクミさんだけで、そこにいるはずの相手の姿は描いていない──はずだった。


「……ねえ、これって」


 千夏がわたしの背中に覆いかぶさってきた。


「ねえ、これ、亜衣が描いたの……?」


 わたしはプルプルと首を横に振る。


「だったら、これって……」


 千夏の指が絵の一部をさす。

 その指先もそこに描かれた線もみるみる熱い水に沈んでいく。


 夕闇に浮かぶビジョンの中にしかいなかったあの人。重ならない時間。繋がらない空間。それが、重なって繋がっている。一枚の紙の上で。

 向かい合い、視線を合わせ、同じ時間、同じ空間にいる。

 聞いたことのない声が聞こえる。感じたことのない安らぎを感じる。見つけたことのない居場所を──


 千夏が背後から強く抱き締めたりするから、わたしの中の飽和状態だった水が絞られてしまう。ポタポタと滴が零れてしまう。

 だからわたしはクロッキー帳をパタリと閉じた。

 タクミさんと談笑するわたしの姿が濡れないように。ふたりの出会いが消えてしまわないように。



      *



 これからきっと次のページにもそのまた次のページにもふたりの姿は描かれていく。こんなモノトーンではなくて。もっとカラフルに。もっと近くに。互いの声も息遣いも聞こえるように。



 今度あなたに「大丈夫?」って訊かれたらこう答えるの。


 うん、大丈夫。あなたがいてくれるから──。





      * fin *



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