破水そして出産
ウィルに裁判所からの手紙を見せると、どう言うつもりなのかと問いただした。
『…別れたいのよね? ウィル? だからこれを出したんだよね?』
ふらりと立ち上がった芽依の口元には笑みまで出て来る。いつもなら化粧をしている顔も今は飾り立てる気もないのかスッピンだ。
『……』
段々と顔色が悪くなって来るウィルを見ながら、芽依は更に言葉を続ける。
『ねえ、ウィル知ってる? 離婚ってね、この紙を出しただけでは出来ないんだって。私が弁護士を雇って離婚を勧めるわ』
冷静沈着な芽依とは正反対でウィルは、広すぎる大きな額からダラダラ汗を滲ませている。
あれって何て言うんだっけ。あ!ガマガエルだ。テラテラと光るガマガエル。
『別れたいんでしょ? 私と。 いいよ別れてあげる』
『え?』
『でも、子供の親権は私が貰うわ! あんたになんか死んでも絶対に渡さない!』
微笑みながらも目だけは射る様にウィルを定めている芽依。ウィルは慌てふためいた。
『ま、待て!芽依!! 別れないでくれ!! オレはお前の事を愛しているんだ』
『悪いけど、今までのあなたの事を見る限り、信じろと言う方が無理なんじゃない?』
ウィルは本気で別れようとなんて思っちゃいなかった。ただいい気になってた芽依を少しばかり困らせようとしただけだったらしく、必死に弁解してくる…。
『努力する! 君しかいないんだ』
どの口が言ってんのよ!どの口が!
『努力? どこが? あんたが努力してんのは、代利子にフラレナイためにセッセとええ格好して貢ぐ事だけでしょうが!』
ウィルの隣にいた義母は、やるせない表情で小さく首を振った。そしてふがいない息子にとどめとばかり火を吹く。
『ウィル。あんたってバカよ。大体、今まであんたがやってきたことを考えてごらんなさい』
『……』
『芽依が妊娠してる間に、あんたは何してた? 他の女の尻を追いかけてたわよね。後、週末は女のところに泊まってたわよね。日帰り旅行もあったわよね。それも一回二回じゃないわよね』
泣き腫らした目でウィルを睨みつけたリズが、指折りで|ウィルのバカな所行を数えている。
『ウィル、あんたは芽依の愛情に胡座をかいているだけ。あんたは芽依のことを少しは考えたことあるの?』
『違う!俺は芽依のことを考えて…』
『芽依のことを考えてる? 違うわよ!あんたは芽依に甘えてるだけ! 考えても見なさい!これがアメリカ人女性だったら、どうなってるかわかってるの? 浮気がバレた時点で家の鍵ぜ〜んぶ取り替えられるのなんて当たり前なのよ。それであんたが家に入って来ようなんてしたら、即警察に通報。芽依がそうしなかったのはね、まだバカなあんたを愛していたからなのよ。』
『め、芽依…』
ふらりと近づいて来るウィルに思わず芽依は後ずさると、リズの後ろにさっと隠れた。
『全く、バカなところはほ〜んと、あの男そっくり。本当に信じらんない!親子して同じ事して妻を泣かせるなんて』
実の母親からは軽蔑した目で見られ、継父からはどうしてこんな子に育ってしまったんだと言う懺悔の目で見られ、ウィルは芽依の前に来ると縋った。
『芽依。お願いだ。やり直すチャンスをくれ』そう言って謝って来たウィルに戸惑いながらも芽依は、セカンドチャンスをあげた。
「ウィルに対して接近禁止命令を出しなよ」そう口を揃えて私の友人達は言って来るけど。
そこまでしなくても…と芽依が言う度、友人達は口々に励ましてくれる。
いつものようにああいう男は一度,酷い目に遭わないと!気が治まらない!!そうよ、あんな男こそ、◯◯◯をちょんぎった方が良いのよ!とまで過激な声も上がったほど。
『少し考えさせて』
やっとの思いで口にした言葉、拒否じゃなかった。今の私には考える時間が欲しい。私には何が必要かを。夫がいなくても、私には頼もしい友達、何より義母達がいる。そう考えれば自ずと答えは出て来た。
もう少しだけ頑張ろう。
『リズ、ジョー。私ね、もう一度ウィルを信じてみるから』
あの時は自分の考えが甘かった事を、後になって芽依は思い知らされる事になる。
『芽依。行こうか』
『え?なんで?』
『ほら、もうすぐ俺達の結婚記念日だろ?だから予約したんだ』
アレ以来、ウィルはとても優しくなった。週末に泊まりがけで代利子とデーツすることもなくなった。今ではすっかり元の良い旦那様になってきている。
今日、ウィルが連れて行ってくれたのは、いつものレストラン。そう、ここは結婚記念日や互いの誕生日になると必ず訪れていた、2人にとって特別な場所。
『……』
『芽依。これもほら君に』
ウィルが手渡して来たのは私が一番好きなバラのブーケ。おもわず頬を抓ってしまったのは、愛嬌ってことで。そのこともシツコクウィルに聞かれちゃった。
『あ、ありがとう…これってもしかして夢?それともどっきりで全部ウソなんじゃないの?』
がっくりと肩を落としたウィルは、信用ないな〜とぼやいていた。
まあ、信用ないのは自業自得だけどね。
『芽依。いくらオレが浮気してて悪かったのは認める、でもさ人が更生しようって時にそうやって茶々入れられるとねぇ』
恨めしそうにぶつぶつと過ぎたことを愚痴ぶち言ってる。
『あ…ごめん。でもそれって本当のことだから』
『いいよ、判ってるから』
『ウィル。携帯なってるよ。出ないの?』
『良いんだ。今は芽依が側にいるだけで幸せなんだから』
ウィルの携帯電話が何度も鳴っていたけど、ウィルは言葉通りにこの日だけは私の手を離さなかった。
『芽依。離婚はしたくないんだ。オレがバカだった。全てが欲しいと思ってしまったから』
|全てが欲しいと思ってしまったから《、、、、、、、、、、、、、、、、》?それって、今でもって言う事よね?過去形じゃなくって、これからもずっと続く、現在進行形…。
『い、今はそんな話をしたくない。ウィル私はあなたに私とやり直すチャンスをあげたの。だから、分かってよ』
小首を傾げてグラスを傾ければ、互いに笑みを見せる。どちらとも目が鋭く相手を射抜く。
芽依はカフェインフリーのお茶、そしてウィルはワイン。それぞれ好きな物を飲みながら、久々に夫婦らしい雰囲気を味わった。
『ん?あら、やだ』
さっきからストローを使って飲んでいるのに、右側の口の端からお茶が零れだしている。
何度もハンカチで口元を当てながらも、食事を続けた。
『……』
サラダも、スープも溢れてく。一体どうしたの?口を開けようとしても上手く開かない。そんな自分に芽依はイライラしていた。
それなら、食べ物を普段食する時よりも小さく切れば良いだけのこと。
目の前に置かれたヒレ肉をサイコロ大に切ると、それをまた半分に切って食した。
『芽依。店を出たら、モールに行かないか?』
『ええ良いわね』
昔みたいに冷やかしで色々なブティックに入ってはと本当に昔に戻ったように思える。
『リック。私ちょっとおトイレに行って来るから、その辺で待ってて』
妊娠後期にもなると、母体の中の胎児の位置が下に下りて来るため、膀胱ば圧迫されすぐにトイレに行かないといけなくなる。
化粧室で手を洗っていると、鏡に映る自分に笑顔を見せたつもりだった。
カラン…
「う、うそ…な、何これ…、一体どう言う事なの?!」
麻衣子は自分の頬に手を這わせると右側だけ何も感じない。
自分の手の暖かみもさえも。
笑おうと両方の口角を上げているのに、右の口角だけがそのまま。
あまりのショックに震えている麻衣子は、何とか平常心を取り戻そうと両方の手でお腹を抱きしめる。
−私は大丈夫。
何度もそう自分に言い聞かせると、もう一度鏡を見た。
ゆっくりと笑顔を作ると,普通にだが笑顔が出来てる。
ー何だ…やっぱり気のせいだったのね。
ー一瞬、顔面麻痺になったのかって思っちゃった。
化粧室から出た麻衣子はリックが行きそうなお店へと向かった。
リックはすぐに見つかった。
1人で自分を待ってくれていたリックに、麻衣子はホッとしながらも脅かしてやろうと思ってそっと近づいた。
「ああ。分かっている。妻とは別れる。オレには君だけしかいないんだ。まあ、お袋達の手前だったからやり直すチャンスをくれっていったけどさ。そんなのこっちがごめんだ。 分かってるよ。君が一番だ。ああ…早く君に会いたいよ。代利子…」
麻衣子は、自分の足下から全てが崩れて行くのを感じた。
パチン
何かが切れた。
足下に水が滴り落ちる。
子連れの女性が麻衣子に気がついて、『大丈夫ですか?』と声をかけて来た。
お腹が痛い。
立っていられないくらい。
助けてよ。
リック。
どうして、私から目を反らすの?
どうして、私に背を向けようとするの?
薄れて行く意識の中に最後に見たのは、自分の周りに出来た人だかりの向こう側で電話をしていたリックがようやく麻衣子に気がついて駆けつけて来たところだ。
私は、裏切られたんだ…。
麻衣子は、自分の愛情がリックには届かなかったんだと、ようやく自覚した。