第一話「奈月」
奈月にとって先週と今週は〝人生最悪の二週間〟だった。仕事で些細なミスを繰り返し上司に怒られ、電車にスマホを置き忘れて高尾駅まで受け取りに行き、推しのライブチケットの争奪戦には惨敗──。それでも〝最悪〟をやり過ごせたのは、今日のためだ。
早川奈月は吉祥寺のカフェで〝あの人〟を待っていた。約束の時間は午前十時……のはずなのだが、時計はすでに午前十時三十分を回ろうとしている。
店内は朝の賑わいが一段落した気だるさに包まれていた。客は奈月の他に二三人。時折コーヒーカップのぶつかる音がするばかりで、会話のひとつも聞こえない。
窓際には黒っぽいビロードのソファーが二脚、道路を向いて、枝にとまるつがいの雀のように寄り添っていた。初夏の柔らかい日差しがソファーを照らすと、黒ではなく深い緑色であることがわかる。
奈月はお気に入りの右側席に座っていた。サイドテーブルには少し冷めたコーヒーが置かれている。
「遅れるなら、メッセージくらいくれてもいいのに⋯…」
通知のないスマホ画面を確認すると、奈月はため息混じりにコーヒーをすすった。そして、ぼんやりとカフェまでの道のりを思い返す。
実は、奈月も、待ち合わせに間にあわせようと焦っていた。余裕のないときの奈月は大抵、何かやらかす。案の定、吉祥寺駅からこのカフェに来るまでにも、まあ、いろいろあった。
駅でサラリーマンっぽい男性にぶつかり、商店街で肩にかけていたトートバッグを落として中身をぶちまけ、カフェの手前で転びそうなおばあさんを助けようとして逆に自分が転ぶ……。
冷静に振り返ると、さすがの奈月も自分の注意力の無さに不安を覚えた。でも結局、「無いものは無い」と開き直った途端、妙に晴れやかな気分になって、なぜか顔がニヤけてしまう。
そんな思いを巡らせているとスマホが鳴った。〝あの人〟からのメッセージだった。
「ごめん、トラブル発生。あと三十分ほど遅れそう」
奈月はスマホを伏せると、店員を呼んで言った。
「すみません。チョコレートサンデーをひとつください」
こんなときこそ、甘いものが心を落ち着けてくれる。少なくとも今だけは──、奈月の顔が思わずほころぶ。
そして、思い出したようにトートバッグから原稿の束を取り出すと、おもむろに読み始めた。すると、外を歩く人影も、カフェに響く音も、すっと遠のいていく。
そして、原稿の向こう側から〝あの男〟の声がした──。




