第1話 消えた婚約者
神代先生と出会ったのは事故みたいなものだった。
その日、俺は友人の山口に呼び出された。
「頼む。一緒に来てくれ」
嫌な予感しかしなかった。
大学時代からの付き合いだが、山口の頼み事は大抵ろくなことにならない。
話を聞けば、婚約者が失踪したらしい。
警察は取り合ってくれない。
探偵も成果なし。
そして最後に紹介されたのが神代先生だった。
「何の先生なんだ?」
「知らない」
「知らないのかよ」
「でもすごい人らしい」
その時点で胡散臭かった。
だが山口の顔は本気だった。
仕方なく付き添うことにした。
それが始まりだった。
──────
神代先生の家は住宅街の奥にあった。
古い二階建て。
表札には『神代』とだけ書かれている。
出てきた男は思ったより若かった。
三十代半ばくらい。
眠そうな目。
黒縁眼鏡。
白いシャツ。
だが目だけが妙に静かだった。
まるでずっと何かを観察している人の目だった。
──────
山口は三十分以上話し続けた。
婚約者のこと。
突然消えたこと。
部屋が空になっていたこと。
連絡が取れないこと。
神代先生は黙って聞いていた。
そして初めて口を開いた。
「婚約指輪は?」
山口が止まる。
「まだ買ってません」
「ご両親には?」
「会ってません」
「職場は?」
「詳しく知りません」
「友人は?」
「紹介されてません」
神代先生は頷いた。
そして静かに言った。
「彼女は本当に婚約者だったのでしょうか」
山口の顔色が変わった。
俺も思わず神代先生を見る。
失礼にも程がある。
だが神代先生は続けた。
「失礼を承知で聞きます。婚約の話は、誰がしましたか」
山口は答えない。
「彼女ですか」
沈黙。
「それとも、あなたですか」
山口は俯いた。
その瞬間だった。
俺は初めて違和感に気づいた。
山口はずっと、
『婚約した』
と言っていた。
だが不思議なことに、
式場の話も、
両親の話も、
指輪の話も出てこない。
彼女との未来は語るのに、
彼女と決めたことは何一つ語らない。
──────
調べるのに時間はかからなかった。
彼女は失踪していなかった。
事件でもなかった。
ただ引っ越していた。
職場も変わっていた。
生きていた。
元気だった。
警察が動かなかった理由もそれだった。
事件性がなかったからだ。
そして彼女は神代先生との面談を了承した。
そこで初めて全てが分かった。
彼女は山口と付き合っていた。
それは事実だった。
だが結婚の約束はしていない。
同棲もしていない。
親への挨拶もしていない。
未来の話はした。
だがそれは未来の話だった。
約束ではなかった。
山口のことが途中から怖くなって逃げたのだ…と彼女は言う。
山口だけが、
それを確定した未来だと思っていた。
──────
帰り際。
山口は泣いていた。
怒りではなかった。
絶望でもなかった。
何かから目が覚めた人の顔だった。
「俺は嘘つきだったんですかね」
そう呟いた。
神代先生は首を振った。
「いいえ」
「でも婚約なんてしてなかった」
「そうですね」
「じゃあ何だったんですか」
神代先生は少し考えた。
そして答えた。
「願望です」
山口は黙る。
「人は時々、現実より願望を信じます」
「俺だけじゃなく?」
「ええ」
神代先生は窓の外を見た。
「かなり多くの人が」
──────
山口を駅まで送った帰り道だった。
俺は車を運転していた。
助手席には神代先生がいる。
なぜいるのかは知らない。
気づいたら乗っていた。
「先生」
「はい」
「最初から分かってたんですか」
「いいえ」
「でも怪しんでましたよね」
「少し」
「なんでです」
神代先生はしばらく考えた。
「彼は彼女の話をしていませんでした」
「え?」
「彼が話していたのは、自分が信じていた未来です」
俺は黙った。
神代先生は続ける。
「消えた人を探しているようで、消えた未来を探していたんです」
車内が静かになる。
妙にその言葉だけが残った。
──────
神代先生の家に着いた。
俺は先生を降ろす。
これで終わりだと思った。
二度と会うこともないだろうと思った。
ドアを閉めかけた時だった。
神代先生が言った。
「田中くん」
初めて名前を呼ばれた。
「何ですか」
「あなたは頼まれると断れない人ですね」
俺は眉をひそめる。
「普通ですよ」
「そうでしょうか」
「友達だから付き添っただけです」
神代先生は少し首を傾げた。
そして言った。
「それは違う気がします」
「何がです」
「まだ分かりません」
相変わらず変な人だった。
だが、なぜか腹は立たなかった。
神代先生は続ける。
「ただ、引っかかります」
そう言って家の中へ消えた。
俺はしばらく玄関を見ていた。
その時はまだ知らなかった。
あの日。
付き添いで訪れただけの家が。
これから何年も通うことになる場所だとは。
ましてや。
人生で最も影響を受ける人との出会いだったとは。
思いもしなかった。




