初出勤・午後……それから2日目
入稿が終わったので、初めての仕事の説明。気合いが入る。長い髪が邪魔だな……と、飾り気の無い茶色のヘアゴムを使い、首の後ろで髪を縛る。色気より仕事。邪魔な物は封印して集中しなきゃ。
「最初にスキャンの仕事説明するな。あ……えっと……篠原さんの原稿だから、一番やりやすいと思う」
そう言って先輩は封筒に入った原稿を持って来た。どうしたんだろう? 名前の前で言いよどんで……。ちょっと引っかかったが、気にせず封筒から中身を取り出した。
「ポジフィルム……ですか? 今時……」
デジタルが普及した現在では随分レトロだ。一応学校でカメラの授業があって見た事はあったが……プロだと未だに現役なのかな?
「デジタルデータが来る事もあるけど、まだこっちも多いんだ。このフィルムをスキャンして画像データにしてもらう」
A4サイズのポケット式のビニールのシートに、綺麗に一コマづつ並べられたフィルム。丁寧な字で書かれたナンバリングのラベル付き。それが3〜4シート。
「シート1枚づつ、Photoshopでスキャンして、1コマづつ切り抜いて、ナンバリングと同じ名前でデータにする。それだけだ。写真はデザイン用の仮データだから解像度は低くて良い。終わったら声かけて」
「わかりました」
スキャナーの蓋が重いな……という事を除けば問題ない。とても簡単な作業だ。最初だから間違えないように丁寧にやったが、それでもそれほど時間がかからずに終わった。先輩にチェックしてもらって問題無し。
「じゃあ、次はこっち」
分厚い封筒を渡され、中身を取り出して絶句。フィルムサイズがバラバラの大量の写真。写真が1枚づつ別個のビニール袋にいれられている。手書きの殴り書きナンバリングは汚すぎて5と6の違いすらわかりづらい。
大雑把に纏めたつもりかもしれないが、一から整理しなおさないと混乱する。フィルムサイズがバラバラだから、スキャナーに纏めて並べる時も工夫が必要そうだ。
「門倉さんの原稿はいつもこんな感じ。割とこういう人多いから。篠原さん程綺麗に纏めてる編集さんの方が少ないかな」
ああ……なるほど。編集さん次第でこんなに難易度変わるのか……。写真だけじゃなくて、他の作業でも違うんだろうな……。ちょっと遠い目をしつつ整理に取りかかる。
「解らない事あったら聞いてくれ。時間かけてもいいから、できるだけミスしない様に」
数字の見間違えでミスしそうだ。気をつけよう。暗号解読に四苦八苦しながら、丁寧にデータ化を続け、だいぶ時間をかけて終わった。
「癖のある字だろう?」
「なんとな……く、わかってきた気がします」
「じゃあ大丈夫そうだな。続きもよろしく」
どさりと渡された大量の写真。門倉さんの原稿の続きらしい。くらり……としながら、また取りかかった。何度も同じ作業を繰り返しているうちに、あっという間に時間が過ぎて行く。
「古谷さん、区切りの良い所であがっていいよ。続きは明日でも間に合うから」
狩野さんに言われてはっと気がついた。もう8時だ。午後はあっというまだったな……。私は明日やりやすいように整理して、デスクを片付けた。さあ帰ろうかな……とした所でにこりと微笑んだ狩野さんと目が合う。
「古谷さん、InDesign持ってないよね? フォントも基本とフリーフォントくらいかな?」
「そう……ですね」
「じゃあ……これ、明日までに自宅のPCにインストールして、軽く触って自主勉強してみてね」
ぱっと渡されたのはInDesignのソフトとフォントのCD。そしてInDesignの入門書。明日までにって……これから帰ってインストール終わらせるだけで日付変わりそうなんですけど……。
「また明日以降時間あるし、勉強は軽く……で、いいからね」
笑顔でさらりと言われて、断れるわけも無い。力なくおつかれさまです……と言って帰った。
予想通りインストールが終わったのは日付が変わった後。その後入門書を見ながら動かしてみるが、昼間の疲労と眠気で集中できない。いつのまにかうとうとしてデスクでそのまま寝落ちた。
「萌、大丈夫?」
朝7時。母に声をかけられて目覚めた。学生時代から徹夜でデスクで寝落ちはよくある事。睡眠時間4時間か……と、どんよりしつつ、慌てて着替えて朝食を食べる。
「今日も遅いの?」
「たぶんね」
母の顔にありありと、そんな仕事やらなきゃいいのにって書かれてる。でもすぐにはっと気づいたみたい。とってつけたように、慌てて言い訳した。
「あ……でも萌のやりたかった仕事だものね。お母さん応援するから」
「ありがと」
理解のある親の振りか……。溜息を飲み込んで出かけた。
「おはようございます」
今日も会社に着いたら、すでに2人とも仕事中。先輩は本棚から何冊か本を選んで見ている。自分のデスクに向かおうとして、先輩の横を通り過ぎた時ぎょっとした。
風呂上がりの良い香りがする……。思わず振り向いて先輩を凝視した。ちょっと髪もしっとりしてる。朝から風呂上がりのイケメン……の威力に目眩がした。
「どうした?」
「い……いえ……その……ここ、お風呂場使えないんですよね?」
言いよどむ私にああ……と気づいたように先輩は言った。
「この近くにシャワー付きのネカフェがあるから、朝そこに行って来た。24時間いつでも使えるのは便利だよな」
な、なるほど……今日も泊まり込みですか。そしてネカフェは銭湯代わり。もしかして狩野さんも……と見るとさっぱりしてるのに、髪はまだセットされてない。
「今日は取引先との打ち合わせで外出するから、さすがに汚い姿で出かけられないよね」
「お……お疲れさまです。大変ですね」
「昨日よりマシかな。そこのソファで交代に仮眠する時間あったし」
2人とも背が高いから、この小さいソファじゃ、絶対に窮屈で寝苦しいだろう。デスクで寝落ちとどっちがマシだ? 家に帰れただけ感謝するべきなんだろうか……と、遠い目。
朝から風呂上がりのイケメン2人って眼福か、目の毒か……。ドキドキしてきた。仕事に集中しないと。
昨日のスキャンの続きをしばらく作業して1時間程。
「打ち合わせ行ってくるね。ついでにお昼も食べてくるから戻りは13時くらいかな。それまでよろしく」
ぱっと身支度をして、カジュアルだけどびしっと決めた狩野さん。かっこいいな。スーツ姿はもっとかっこいいだろう。見てみたいがそんな機会はなさそうだ。
いってらっしゃいと見送って、職場でイケメンな先輩と2人きり。漫画なんかだとすごい美味しい展開で、ドキドキオフィスラブ……なんだろうけど、現実そんな事ないよね。
2人で無言で作業をしている。昨日狩野さんと先輩は仕事中雑談してたけど、あれはだいたい狩野さんから話題ふってるし、先輩は雑談を自分からって苦手なんだろうな……。
「古谷。そろそろ昼飯行っていいぞ。ついでに俺の分コンビニで買ってきてくれないか?」
「はい。何がいいですか?」
お金を差し出しながら、ちょっと小首を傾げてぽつり。
「う……ん。サンドイッチと眠眠打破かな」
ブラック珈琲じゃ間に合わないレベルなんですね。本当にお疲れさまです。
給料日まで小遣いも少ないし、安上がりにすませたくて私もコンビニでおにぎりと牛乳を買った。眠いしカフェオレを作ろう。
「戻りました」
「そこ、置いておいて」
先輩のデスクの端にサンドイッチと眠眠打破をそっと置き、カフェオレを作りに行く。先輩がサンドイッチに手もつけないので、一人だけ休むのが申し訳ない気分がしつつ、ソファに座っておにぎりをかじる。
無言でおにぎりもぐもぐ。先輩がキーボードを叩く音、マウスのクリック音が妙に響く。そこに電話が鳴った。
「はい。狩野デザイン事務所です。いつもお世話になっています」
先輩の涼しげで綺麗な声。電話だと落ち着いた大人っぽい話し方。素敵……なんて思っていられたのも数秒。先輩の声のトーンが落ちてきた。
「申し訳ありませんでした」
電話しながら頭さげてる。あ……なんかトラブル発生? ヤバい展開? 狩野さんいないのに?
受話器を置いた先輩の背中から、すごく焦ってるのがひしひしと伝わってくる。慌てて何か作業して立ち上がった。
「古谷……Illustrator使えたよな?」
「は、はい」
「ミスがあって急ぎ修正しなきゃいけない。手伝ってくれないか」
鬼気迫る先輩の勢いに、大きく頷いてデータを受け取る。
「この地図データの修正。背景の色にC20足して、この文字こっちに移動して……」
早口でどんどん言われる指示に慌ててメモをとる。でも早すぎて全部書ききれない。
「わかったな。じゃあ頼む。急ぎでな。解らない事があったら聞いて」
質問しようとしたが、もう先輩はデスクに座って仕事を始めてる。凄い焦った感じでとても声をかけづらい。私も急がなきゃ。
C20というのは色の事で、Cはシアンで青、Mはマゼンタで赤、Yはイエローで黄色、Kはブラックで黒だ。数字は%。C20足すという事は、青を20%増やした色に変更って事。
慣れてくるとこの数字だけで色が解る。C70にY30だと鮮やかな青みがかった緑。そこにM10を足したら少し色がくすむ。色数が増えると色が濁るのだ。
私も慌てつつ、急いで指示通りなおすのだが、いくつか解らない所もあって手こずった。
「終わったか?」
いきなり先輩に声をかけられてびくっとする。画面を睨んでキツい目で私を見た。
「ここ違う。色の変更も違うだろう。ああ……こっちも違う。人の話聞いてたのか? 解からなかったら聞けって言っただろ」
苛立たしげに怒られてびくっとした。凄い怖い。ミスした所を再度メモしてやり直す。怒られたから余計に慌ててどんどん解らなくなる。先輩に聞かなきゃって思うのに、忙しそうで声をかけづらいし、さっき怒られたのを思い出すと怖い。
どうにか自分でできないかと四苦八苦してるとまた先輩がやってきた。
「なんだよこれ。全然違うじゃないか。なんでここまでおかしくしたんだ。こんなに悪くなる前に早く言えよ!」
怒鳴られて泣きそうになった。先輩怖いし、急がなきゃって焦るし、ミスがミスを招いて混乱するし。もうどうしたらいいの?
「伊勢崎」
鋭い声が背後から飛んで来て、振り向くと怖い顔をした狩野さんがいた。帰ってきたんだ……よかった……とほっとして泣きそう。狩野さんはすぐに真剣な顔で先輩に話しかける。
「伊勢崎君。状況報告」
狩野さんの落ち着いた声に先輩も冷静になったのか、淡々と説明していた。
「伊勢崎君はそっちの直しに集中して。古谷さん、ごめんね。大丈夫?」
狩野さんに心配そうに微笑まれて凄く安心した。私のパソコン画面をさっと確認して一言。
「これ……データ破棄して。元のデータ渡すから最初からやり直し。その方が早いから」
そこまでおかしくなってたのか……と焦りつつ、データを破棄して入れ直す。その間に狩野さんは地図データをプリントして手書きで指示を書き始めた。口頭で説明されるより、こうして視覚化された方が凄いわかりやすい。
さらに追加で口頭の指示があったけど、ちゃんと私がメモする余裕もくれたし、質問したら簡潔に答えてくれる。
「解らない所があったら、私に聞いて。忙しそうって遠慮する方が困るから。よろしくね」
「はい、頑張ります」
私は深呼吸して指示を確認し、解る所から一つ一つ修正していく。急ぐけど、間違えない様に確認し、ミスが無いように……と気をつけた。いくつか解らない所があって狩野さんを見る。凄い忙しそう……。でも遠慮する方が困るって言われたし。
「あの……ここ解らなくて」
くるっと振り向いた狩野さんは余裕の笑顔で「どこ?」と聞いてくれた。ほっとして解らない所を質問したら、解りやすく教えてもらえた。
それで安心して作業に取りかかる。
「……終わった」
「できた? じゃあ私にデータを送って。チェックするから。少し休憩していいよ」
狩野さんの言葉に甘え、カフェオレを入れて一呼吸。まだ2人は急いで仕事してる。先輩をちらっと見て、さっき怒鳴られた事思い出した。
怖かった。怒鳴られる事もだけど、私のミスで先輩の足を引っ張ってるのも、ミスを挽回しようと頑張ってるのに、ますます悪くなるのも。自分のせいで仕事がダメになったらどうしようってプレッシャーも。
こんな焦るような状況でも、2人はミス無く仕事してるんだな……と、改めて尊敬してしまう。