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初出勤・午前

 少し早めに入社できないか……と言われ、私は3月下旬の月曜日に初出勤した。

 採用連絡から今日まで、不安でいっぱいだったが、もう後には引けない、覚悟はできた。

 元々やってみたい仕事だった。給料が少なくてもキツくても勉強だと思おう。どうしても嫌になったらここでの経験を生かして転職すれば良い。それに職場恋愛抜きにしても、毎日イケメンの顔を見ながら仕事ができるのは役得だ。


 定時は10〜18時。でも私は30分早く来た。新入社員は一番に早く来る物だろう。一番乗り……だと思ったらドアが開いていた。


「おはようございます」


 窓際に並んだデスクに2人、背を向けて仕事をしながら挨拶が帰ってきた。随分早いな。もう仕事してるのか……と驚くと、狩野さんがくるりと振り向いた。セットされてない無造作な髪、よれっとしたシャツ、疲れた笑み。あ……これは早く来たんじゃなくて、泊まり込みだ。疲れた姿もセクシーだ。


「古谷さん、悪いんだけど今手が離せなくてね。そこのデスクに置いてある本を読んで、自主勉強しててもらえる? パソコンも使っていいから」


 人のいないパソコンデスクに本が置いてある。今日からここが私のデスクなんだろう。本はInDesignというデザインソフトの初心者向けマニュアル本だった。

 書籍デザインの仕事なら、これを使う事になるだろうな……と予想はしていた。

 学校の授業で少しだけ触った事がある。ページ数の多い書籍の作成に使用するソフトだ。IllustratorやPhotoshopに比べ、使用目的が限られる為、あまり学校の授業はなくて、ソフトも高すぎて自分の小遣いでは買えず、まともに勉強はしていない。

 ソフトは本だけではちっともわからない。実際に動かしてみるのが一番だ。

 


 パソコンを立ち上げ、本を読みながら、InDesignを動かしてみる。すごく色んな機能があって覚えるのに時間かかりそう……。途方にくれつつちらりと2人の方を見ると、背中だけでもわかる鬼気迫った感じ。ああ……締め切り直前で追われてるんだな……。私もいずれあれに加わるんだ。

 ものすごい早さでキーボードを叩く音が響く。仕事の手をまったく緩めず、視線はパソコンを見たまま2人は話をしていた。


伊瀬谷いせたに君、そっちは後どれくらい?」

「1時間で終わらせます」


「まだ原稿残ってたよね。こっち回して。私がやるから」

「すみません。お願いします」


 先輩の名前、伊瀬谷さんって言うんだ……。悠長に自己紹介してる余裕も無いから仕方が無いのだが、どんな人なのか気になる。一緒に働く先輩なのだ。優しい人だといいな……。

 などとのんきに考えてたら、振り向いた狩野さんと目があった。


「古谷さんお願い。このUSBメモリに入った、InDesignのデータ全部印刷して。モノクロレーザーの方で」

「は、はひ!」


 いきなり振られて慌ててUSBメモリを受け取る。落ち着け。私なんかに頼まなきゃならない程、切羽詰まった状況なんだ。ミスしない事が一番重要だ。

 まず印刷機を確認する。大きなコピー機と小型の印刷機。小さい方がモノクロレーザープリンタだろう。プリンタの電源をさがしてつけた。パソコンにドライバが入ってれば、印刷機なんてだいたい同じだ。

 次にUSBメモリをパソコンに差し込んで読み込む。その間に本を開いてプリント機能のページを探した。本を読みながらデータを開いて、慎重に操作をする。

 印刷できた。すぐに狩野さんから指示が出る。


「古谷さん。印刷できたら枚数と内容チェックして。印刷トラブルがあるといけないから。問題なければキャビネットにクリアファイルがあるから、まとめてそれにいれて、テーブルに置いて」


 そうだ……何かのミスで印刷を間違う可能性もある。慎重に確認してファイルにまとめる。ほっと一呼吸置くとまた指示がきた。


「要領わかった? これからどんどんデータ渡すから、同じ様に印刷して纏めて。印刷物はフォルダ毎にクリアファイルに纏めてね」


 狩野さんは口頭で私に指示しながら、まったく手を止めてない。緊張でドキドキして、データを待つ間も勉強に手をつけられない。たいした仕事じゃないかもしれないが、私のミスで大きなトラブルになってはいけない。


 慎重に確認しながら作業をしていたら、「終わった……」という溜息の様な言葉が聞こえて来た。


「狩野さん、これで最後です。チェックお願いします」

「こっちはまだかかるから、ダブルチェックと入稿の用意をお願い」


 すぐに伊瀬谷さんがやってきて、私の仕事を確認していた。ああ……ミスが無いようにダブルチェックなのか。素早く確認した後、紙の原稿や、写真らしきものを纏め、USBメモリ、クリアファイルと一緒に、大きい封筒に入れて行き、封筒に手書きで文字を書く。


『パラオ編 P110〜125』


 ああ……今パラオの旅行雑誌を作ってて、ページ単位で封筒にいれて纏めるんだ。さっきの印刷の手順と、今伊瀬谷さんがやってる作業を素早くメモにとっておく。今後頼まれるかもしれないから覚えておこう。


 しばらく伊瀬谷さんの作業を見ていたらインターフォンが鳴った。


「えっと……古谷……だったけ? 玄関でてくれないか」

「はい」


 伊瀬谷さんに言われて玄関に向かった。ゆっくり扉を開けると、スーツ姿の若い男性が立っている。年はたぶん伊瀬谷さんと同じくらい。にこやかな笑顔を浮かべてハキハキと言った。


「日鈴印刷の営業の米沢です。原稿を受け取りにきました」


 あ……たぶん今準備中のだ。ちらりと振り向くと「少し待ってもらって」と返事が返ってくる。


「すみません……。まだ用意できてなくて」

「大丈夫ですよ。まだギリギリ間に合いますし、ここで待たせていただきます」


 玄関先から一歩も入らず立って待っている。ギリギリって事は時間がないんだ。申し訳ない気持ちになっておろおろしてたら声をかけられた。


「新入社員の方ですよね。米沢隆です。よろしくお願いします」


 慣れた手つきでさっと名刺を差し出され、慌てて受け取った。


「あ、あの……古谷萌です。よろしくお願いします。すみません。私まだ名刺持ってなくて……」

「いえいえいいんですよ」


 にこっと笑った顔は愛嬌がある。狩野さんや先輩を見た後だと見劣りするが、一般的にはそれなりに男前かもしれない。

 たまに腕時計をちら見してるから、本当にもう時間が無いのかも。私も釣られて焦っていたら、ひそっと耳元に声がした。


「ここ大変でしょう……良く入社しましたね」

「は、はあ……」


 待ってる間の世間話かもしれないが、なんと答えていいのか困る。


「万年人手不足の狩野デザイン事務所に期待の新人かな」


 持ち上げられてこそばゆい。さすが営業。お世辞がすらすらでてくる。


「ここが嫌になったらうちの会社に来ませんか? 優秀な人材は喉から手が出る程欲しいですしね」


 世間話の冗談にしても驚きだ。出会ったばかり、入社したばかりの人間に引き抜きの話をするなんて。


「いつでも名刺のメールに連絡ください。あ……プライベートのお誘いも歓迎ですよ」


 チャラい。世間話から始まって、引き抜き話を通り越してナンパか? 出会って数分で印象は最悪だ。


「米沢。うちの社員をナンパするな。とっととそれ持って帰れ」


 気がついたらものすごい不機嫌そうな顔をした伊瀬谷さんが後ろにいて、苛立たしげに原稿を差し出している。


「いつも酷いなぁ。伊瀬谷君は。一応僕も取引先の人間だよ」

「常識も理解してない相手に、返すビジネスマナーは無い」


 伊瀬谷さんの痛烈な皮肉にも米沢さんはけろっと笑って、原稿を受け取りさっと確認した。


「確かに受け取りました。お疲れさまです」


 明るい笑顔で言いながら、小走りに立ち去って行く。仕事で急いでるんだよ……ね? どうしてあんな余裕で調子の良い事を言えるのか。


「米沢の言う事は聞き流せ。相手にするな」


 扉の向こうを一睨みして伊瀬谷さんがデスクに戻って行く。


「あ、あの……でも、取引先なんですよね……いいんですか?」


 はははと、明るく笑う狩野さんの声が響いた。大きく伸びをして首を回しながらこっちを見てる。


「伊瀬谷君と米沢君。長い付き合いなんだよね。伊瀬谷君……気に入られちゃってるから。揶揄うと面白いって」

「狩野さんまで……古谷は気に入られないように気をつけろよ」


 伊瀬谷さんの深いため息を聞いて理解した。引き抜き話も、ナンパも、伊瀬谷さんを揶揄う為の冗談だったのだ。私まで巻き込まれたくないな……。米沢さんを要警戒人物リストにいれた。

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