第1話 尻尾って、意外とあったかい
いやいやいやいやいやいやいや、そんなわけがない。そんなわけがあってたまるか。俺は自分の人生に対してそこまで高望みをした覚えはないし、平凡でいい、慎ましくていい、できれば家賃が毎月きちんと払えて、給料日前に具なしパスタを「素材の味がする」と強がらなくて済むくらいの生活ができればそれでよかった。朝起きたら同居している美女にツノと尻尾が生えていた、なんてイベントは、もっとこう、選ばれし主人公とか、異世界転生者とか、実家がやたら広い高校生とか、親が海外出張中で家に誰もいない少年とか、そういう物語上の都合に愛された人種へ配布されるべき高カロリー展開であって、俺みたいな週五でシフトに入りながら店長の機嫌と客の無茶振りのあいだで心をすり減らし、帰宅後に半額弁当を温める三十秒すら人生の貴重な休息として噛み締めている人間に割り当てられるものではない。そもそも昨日は飲みすぎた。間違いなく飲みすぎた。彼女が「今日は安い発泡酒じゃなくて、ちゃんとビールにしよ」と言い出した時点で警戒すべきだったし、「あたし、これ好きなの」と少し高めの缶を抱えてレジへ向かった時、俺は財布の中の小銭たちへ黙祷を捧げるべきだった。二人で飲んだ量を正確に思い出そうとすると、脳内に霧がかかる。缶の本数、つまみの袋、途中でなぜか買い足された激辛チップス、俺が「もう無理」と言ったあとに彼女が「弱いねぇ」と笑いながら追加で開けた一本、それらの記憶が、洗濯機の中で派手に絡まった靴下みたいにぐちゃぐちゃになっている。つまり、これは幻覚の可能性が高い。寝起きで頭がぼんやりしているうえ、アルコールが体内に居座り、貧乏生活による栄養不足と精神的疲労が合わさった結果、俺の脳が紫髪の美女へ勝手にファンタジー要素を追加したに違いない。最近の脳は勝手に画像生成までしてくれるのか。便利な時代になったものだ。できれば家賃を生成してくれ。
俺は布団の上で固まりながら、もう一度、視線だけをそろりと彼女の頭へ向けた。紫の髪は寝乱れていて、昨夜シャワーを浴びたあと乾かしきらずに眠ったせいか、ところどころが艶っぽく跳ねている。普段は余裕ぶった目つきと、相手を値踏みするような薄い笑みで人の心臓を雑に掴んでくる女なのに、眠っている顔だけは妙にあどけない。長いまつ毛が頬へ影を落とし、少し開いた唇から静かな寝息が漏れ、いつもなら煙草やビールの匂いをまとっている彼女が、今だけはシャンプーと体温と昨夜の名残を混ぜたような、やたら生活感のある匂いを漂わせていた。ここまでは人間。かなり危険な種類の人間ではあるものの、少なくとも分類上は人間。問題は、髪の隙間から覗く二本の黒い突起物だった。小さな山羊の角にも似ているし、悪魔の角にも見える。コスプレ用品にしては皮膚との境目が自然すぎる。接着剤の跡もない。寝相でずれた様子もない。触ったら取れそうな安っぽさもない。むしろ、これまで隠していたものが本来あるべき場所へ戻ったような、あまりにも堂々とした存在感がある。俺は自分の理解力へ必死に言い聞かせた。これはツノではない。髪飾り。寝る時までつけっぱなしにするタイプの髪飾り。お洒落への意識が高すぎる女。あるいは、美容院でそういう加工をされた新時代のヘアスタイル。名前はたぶん、デビルホーン・レイヤー。若者文化は難しいからな。俺は二十五だが、すでに流行の九割を見失っている。
続いて視線を下げる。毛布は半分ほど床へ落ち、彼女の腰から伸びた黒紫色の尻尾が、布団の上へだらしなく横たわっていた。先端は細く、少しだけ尖っていて、漫画やゲームで見た悪魔の尻尾に近い。見間違いにしては輪郭がはっきりしすぎているし、影の落ち方も自然だった。何より、さっきから時折ぴくぴく動く。夢の中で虫を追いかける猫みたいに、気まぐれに揺れる。尻尾という概念が俺の部屋でくつろいでいる。こちらは家主なのに、尻尾のほうがよほど堂々としている。
「……いや、ない。これはない」
自分へ聞かせるための小声は、情けないほど震えていた。部屋の中はいつもと変わらない。四畳半より少し広いと言い張るには無理がある、六畳表記の詐欺まがいワンルーム。壁際には安物のカラーボックスがあり、その上に給与明細、督促ではないが見ると胸が痛む公共料金の紙、開封済みのスナック菓子、彼女が勝手に置いた使いかけのリップ、銘柄の違う煙草の空き箱が積み上がっている。シンクには昨夜使ったグラスが二つ、フライパンにはウインナーを焼いた名残の油が光り、床には彼女の脱ぎ捨てた黒い上着と、俺のしわくちゃになったTシャツが距離感のバグったカップルみたいに重なっている。ベランダの窓は閉まっているものの、薄いカーテンの向こうから朝の光が遠慮なく入り込み、古いエアコンは沈黙したまま、働く気のない公務員みたいに壁へ張り付いている。何もかも昨日までの俺の部屋だ。安っぽくて、狭くて、生活臭が濃くて、夢よりも残高のほうがよく見える、紛れもない俺の部屋。そこに、ツノと尻尾を備えた美女が寝ているという一点だけが、現実の色合いを根本から狂わせている。
とりあえず触ってみるか、という考えが浮かんだ時、俺は自分の理性の首根っこを掴んで壁に叩きつけた。何を言っている。なぜ触る必要がある。目視確認だけで十分だろ。未知の生物の器官を素手で触るな。理科の授業でももう少し慎重だったはずだ。小学生のころ、校庭で拾った謎のキノコを担任に見せたら「触らないで!」と本気の声を出されたことがある。あの教訓はどこへ行った。尻尾はキノコではないにしても、未知という点では同じ土俵にいる。触るな。絶対触るな。そう思った俺の手は、なぜか、ゆっくりと尻尾へ近づいていた。
好奇心とは、人類を発展させた偉大な力であると同時に、俺のような凡人を破滅へ導く最低の道案内でもある。
指先が、そっと尻尾に触れた。
「…………」
柔らかい。
いや、待て。
柔らかい。
妙にしなやかで、肌より少し張りがあり、爬虫類のように冷たいのかと思えば、ほんのり温かい。表面はなめらかで、作り物特有のビニールっぽさがなく、内部に確かな筋肉の動きがある。俺が指を乗せた場所から、彼女の寝息に合わせてわずかな振動が伝わってきた。生きている。完全に生きている。尻尾ってこんな感じなんだ。へえ、想像より優しい手触りなんだな。猫の尻尾とも違うし、犬の尻尾とも違うし、なんというか、未知の生物のチャームポイントを触らせていただいております、という感動が――
「感動してる場合じゃないだろ、俺」
自分で自分に突っ込んだ拍子に、尻尾がびくんと跳ねた。俺は反射的に手を引っ込め、心臓が喉から出かける感覚に襲われた。危ない。今、尻尾に怒られた気がする。尻尾に怒られる人生、かなり珍しい。履歴書の特技欄に書けるかもしれない。「怪人と思しき女性の尻尾に接触し、生還」。採用担当者は間違いなく面接を切り上げる。
しっかりしろ。まずは状況整理だ。俺は布団の端に正座し、膝の上に両手を置き、まるで校長室へ呼び出された中学生みたいな姿勢で思考を整えようとした。名前、年齢、関係性、生活状況。彼女は二十歳。元々は隣の隣の部屋に住んでいた。最初に話したのは三か月と少し前、俺がバイト終わりにベランダで煙草を吸っていた時だ。夜風は生ぬるく、給料日まであと五日、財布の中身は千円札一枚と小銭だけで、俺は今月も人間らしい食生活に敗北するのだろうと悟りながら、安い煙草を一本くわえていた。そこへ彼女が隣のベランダから顔を出した。紫の髪を片側に流し、だるそうな目でこちらを見て、「ねえ、一本もらえない?」と、初対面とは思えない距離感で言った。俺はなぜか断れなかった。たぶん顔がよかったからだ。人間は顔に弱い。世界の仕組みは不公平である。そこから彼女は、会うたびに煙草をねだり、たまに缶ビールを持ち込み、俺の部屋へ勝手に上がり込み、気づけば「ちょっとだけ泊めて」が「今日からここね」に進化していた。
おかしい点はいくつもあった。まず、彼女は仕事をしているのかしていないのかよくわからない。昼間は寝ていることが多く、夜になると化粧をして出かける。帰ってくる時間はまちまちで、妙に羽振りがいい日もあれば、缶ビール一本を買う金すらない日もある。誰かから電話がかかってくると、やけに低い声で短く返事をし、相手の名前は絶対に口にしない。たまに黒い封筒を持ち帰り、俺が覗こうとすると「見たいの?」と笑う。あの笑い方は、見たら人生が少し短くなる類の笑い方だった。薬物めいたものに手を出している気配もあった。俺が問い詰めても、彼女は「気にしなくていいことってあるでしょ」と煙草の煙を吐き、話題をビールのつまみにすり替える。普通ではない。どう考えても普通ではなかった。俺はこれまで、それを「夜の仕事をしているミステリアスな美女」くらいに変換して受け入れていた。人間、都合の悪い情報には可愛いラベルを貼って棚にしまい込む能力がある。俺の場合、その棚の耐荷重が限界を超えて、今まさに崩落している。
彼女が怪人だとすれば。
いや、考えたくない。考えたくないというより、考えると俺の生活が終わる。怪人。人間社会の影に紛れ込んでいる、人ならざる存在。小学生の頃から避難訓練と同じくらい当たり前に教育されてきた言葉であり、ニュース番組では物騒なテロップと一緒に流れ、ネットでは目撃情報や討伐動画が日夜拡散され、居酒屋では酔ったサラリーマンが「昔、知り合いの知り合いが怪人に襲われたらしいぞ」と信憑性の薄い武勇伝みたいに語る、現代日本の闇そのもの。怪人と一口に言っても種類は多い。体の一部が獣に似た者、毒や炎を扱う者、異常な再生能力を持つ者、姿を変えて人間に紛れ込む者。公安は危険度を段階的に分類していて、確か低い順にD、C、B、A、特A、さらに公表されていない上位区分があるとかないとか、そういう噂も聞いたことがある。D級は単独なら拘束可能、C級以上は専門装備を持った職員が対応、B級からは民間ハンターの応援要請が検討され、A級ともなれば地域封鎖、避難勧告、ニュース速報、ネットのまとめサイトが大歓喜、近所のスーパーから水とカップ麺が消える騒ぎになる。特A級に至っては、もはや災害に近い。台風、地震、怪人。日本人は四季だけでなく脅威の種類も豊富に抱えている。
もちろん怪人すべてが暴れ回っているわけではない、と学校では一応教えられた。人間社会へ溶け込み、身分を偽り、裏稼業で金を稼ぎながら暮らす者もいる。密造品の流通、違法薬物の運搬、情報屋、用心棒、詐欺、臓器ではない何かの売買、聞くだけで胃が重くなるような商売の裏側に、怪人が関わっているケースは珍しくないらしい。人間より頑丈で、人間より大胆で、人間の法律を心から守る気がない連中が闇の中で働けば、そりゃあ稼げるだろう。まともな求人サイトには載っていない職種が世の中には山ほどある。俺が「未経験歓迎、アットホームな職場です」という文言に二度ほど騙されたことなど、彼らの世界に比べれば幼稚園の砂場遊びみたいなものかもしれない。
怪人発見時の基本対応は明確だ。距離を取る。刺激しない。安全な場所から通報する。可能であれば特徴を記録する。無理に捕獲しようとしない。素人判断で接触しない。以上。小学校の防犯教室で配られたパンフレットにも、中学校の安全教育動画にも、バイト先の休憩室に貼られている自治体ポスターにも書いてあった。つまり今、俺がやるべきことは一つ。スマホを持って、廊下へ出て、警察か公安の窓口へ連絡する。落ち着いて状況を説明し、「同居している女性にツノと尻尾があります」と言う。向こうはたぶん一瞬黙る。悪戯電話だと思われる可能性もある。「住所は?」「怪人の特徴は?」「危険行動はありますか?」と聞かれるだろう。俺は答える。「紫髪で、二十歳で、酒癖が悪く、煙草を吸い、俺の冷蔵庫のビールを勝手に飲みます」。生活相談センターに回されそうだ。
電話するべきだ。
いや、正確には、電話しないという選択肢なんて本来存在しない。常識という辞書を開けば、一ページ目の余白に赤字で「怪人を見つけたら即通報」と書かれていてもおかしくないくらいには、今この状況は警察か公安か、とにかく国家権力に丸投げする案件だ。世界の平和とか人類の未来とか、そういう壮大な話は一旦脇へ置くとしても、少なくとも俺自身の命と戸籍と社会的信用を守りたいなら、今すぐスマホを掴んで「もしもし、怪人拾いました」と震える声で名乗り出るべきなのである。
だが、その「べき」ができない。
怪人を匿った――その時点で、こっちまで何かしらの罪に問われる可能性は十分ある。ニュースで見たことがある。「怪人潜伏を手助けした疑いで男を逮捕」。ああいうニュースって、なぜか犯人の学生時代の写真まで発掘されるんだよな。もし俺がテレビ画面に映ったら、近所のおばちゃんなんて待ってましたと言わんばかりにインタビューへ応じて、「あらまあ、あの人いつもスーパーで半額弁当ばっかり買ってたわよ。あとポイント二倍の日だけ妙に元気だったのよねぇ」などという、事件解決には一ミリも役立たない生活情報を全国ネットへ提供してくれるに違いない。
バイト先の店長は店長で、「え、逮捕? それより今日の夜シフト誰が入るの?」と俺の人生より勤務表の空欄を心配し、母親は号泣しながら「どうしてそんな子になっちゃったの!」と電話越しに叫び、父親は何も言わずに深いため息を一つだけついて、その沈黙だけで俺の精神へ致命傷を与えてくる。そして親戚の集まりでは、「そういえばあの子、怪人の女と同棲してたんだってねぇ」と、俺が死んだあとも法事のたびに語り継がれる都市伝説扱いになるだろう。
終わった。
俺の社会的生命なんて紙コップより薄い。いや、紙コップは少なくともコーヒーくらいなら支えられる。俺は熱湯どころか、ぬるま湯程度のスキャンダルでも底が抜ける。
スマホは枕元に置いてあった。
画面は伏せられ、静かにそこにあるだけなのに、まるで「押せよ」と誘惑する緊急脱出ボタンみたいに存在感だけがやたら大きい。手を伸ばせば届く距離。たった数十センチ。日本人男性の平均腕長を考えれば誤差みたいな距離だ。それなのに、その数十センチが地球と月くらい遠く感じる。
指先が小さく震えた。
布団の中で穏やかな寝息を立てる彼女を見下ろしながら、俺は通報した未来と通報しなかった未来、その二つを同時上映する脳内シネマを勝手に上映し始める。
通報した未来。
数十分後には公安らしき黒いスーツ集団が部屋へ突入し、「動くな!」だの「確保しろ!」だの、人生で一度も言われたくなかったセリフを浴びせられる。彼女は捕まるか、暴れるか、逃げるか、その全部を同時にやりそうな気もする。そして俺の部屋は徹底的に家宅捜索される。
押し入れの奥に突っ込んだ昔の雑誌。
消そうと思って消し忘れた検索履歴。
生活費を節約すると宣言した三日後に買ってしまった、一個四百円もする高級カップ麺の隠し在庫。
さらには「これは証拠品です」と言われながら、洗濯物の山まで白手袋で持ち上げられ、「いやそれは証拠じゃなくて俺の怠惰です!」と叫ぶ未来まで鮮明に見える。頼むからそこは国家権力の管轄外であってほしい。
一方、通報しなかった未来。
彼女は目を覚ます。
俺が正体を見たことに気づく。
そして口封じ。
物理的に首をへし折られる可能性。
精神的に洗脳される可能性。
あるいは「そういえば財布空なんだけど」と毎日のように酒代を要求され続ける可能性。
……最後が一番現実味を帯びているあたり、俺たちの関係性はだいぶ終わっている。
人類を脅かす怪人に命を狙われるより、「コンビニ寄るならついでにビール買ってきて」と千円札を握らされる未来のほうが具体的に想像できるって、どんな人生だ。
それでも。
それでも俺は、スマホへ手を伸ばせなかった。
恐怖だけじゃない。
もっと面倒で、もっと説明しづらくて、もっと情けない理由がそこにはあった。
三か月。
たった三か月。
されど三か月。
時間というのは厄介で、毎日同じ空間で顔を合わせながらくだらない会話をして互いの生活音に慣れてしまうと、嫌でも存在が日常へ染み込んでしまう。
彼女は家賃を払えなくなって俺の部屋へ転がり込み、勝手に冷蔵庫を漁り、俺の煙草を吸い、俺のビールを飲み、俺の童貞をびっくりするくらい雑に回収し、人の布団を当然のような顔で占領して、それでもたまに仕事から帰った俺へ何でもない顔で「おかえり」と言う。
それだけだ。
本当に、それだけなのだ。
なのに、その一言が妙に効く日がある。
バイトでミスをして店長に怒鳴られ、客には理不尽なクレームを浴びせられ、雨の中を自転車で漕ぎ続けて靴下までびしょ濡れになった夜、部屋の灯りがついていて、缶ビール片手の彼女が「遅かったじゃん」と笑った、たったそれだけで、「ああ、帰ってきた」と思ってしまった自分がいた。
利用されている。
そんなことは最初からわかっている。
彼女にとって俺なんて、「寝床」「財布」「家事代行」「暇つぶし相手」を一つにまとめた月額無料サブスク人間くらいの価値しかないことくらい、そこまで鈍くなくても察せる。
察せる。
察せるのに。
三か月積み重ねたどうでもいい会話や、くだらない喧嘩や、コンビニ帰りにアイスを奪い合った夜や、テレビを見ながら二人で笑った時間まで全部まとめて切り捨てられるほど、俺の心は案外ドライにはできていなかった。
彼女の尻尾が、またぴくりと揺れた。
そのわずか数センチの動きだけで、俺の肩は電流でも流れたみたいにびくっと跳ね上がり、心臓は「はい終了、死亡確認」と勝手に閉店準備を始める。
起きたのか。
終わったのか、俺の人生。
反射的に息まで止めたが、彼女はまだ眠っていた。
長い睫毛は静かに閉じられたままで唇だけがわずかに動き、何かを小さく呟く。
寝言だ。
聞き取れない。
聞き取れないが、どう考えても色気だけはしっかり聞こえてくる。
ずるいだろ、それ。
寝言にまで艶がある女なんて反則だ。
こっちは怪人の正体を知って命の危機に瀕しているというのに、心臓の一部だけは「かわいいなぁ」と通常営業を続けようとしている。
違う。
そうじゃない。
おい心臓、お前は今ラブコメ担当じゃない。
危機管理部門を出せ。
総務でも法務でも公安対応課でもいいから、とにかく恋愛課は今日休め。
「……ん」
小さく鼻へかかった声とともに、彼女の眉がわずかに寄る。
頭がころりと横へ転がり、さらさらと流れた黒髪の隙間からさっきよりもはっきりと二本のツノが姿を現した。
俺は思わず口を押さえる。
完全にツノだった。
見間違いとか寝不足による幻覚とか、最近疲れてるからストレスかな、とか、そういう現実逃避を許してくれる余地が一切ないくらい、立派なツノだった。
どこからどう見てもツノ。
百人いたら百人が「ツノですね」と頷くレベルのツノ。
もしツノソムリエなんて資格があったら、一級合格をもらえるくらい完成度の高いツノである。
彼女はそのまま寝返りを打とうとした。
しかし途中で毛布へ絡まった尻尾がぴんと引っ張られ、「んぅ……」と不機嫌そうに鼻を鳴らして動きを止める。
その仕草が、妙に自然だった。
あまりにも日常的であまりにも慣れきった動きだったものだから、俺は恐怖より先に妙な感心を覚えてしまう。
なるほど。
尻尾がある生活って、寝返り一つ打つにもコツがいるのか。
人間なら「寝返り失敗した」で終わる話が、怪人だと「尻尾を巻き込んで朝からテンションが下がる」という新しい悩みになるらしい。
……待てよ。
じゃあ椅子へ座る時はどうしてるんだ。
背もたれと尻尾が喧嘩しないのか。
ズボンは特注なのか。
穴が開いてるタイプか。
それともストレッチ素材か。
スカートならまだ分かる。
ロングコートで隠すのか。
いや、もしかして収納式なのか。
掃除機のコードみたいにシュルシュル巻き取れるのか。
怪人って便利だな。
いや便利なのか?
人間社会へ紛れて生活する怪人のファッション事情、思った以上に奥が深いぞ。
ぜひ雑誌で特集してほしい。
『秋冬保存版・尻尾持ち女子の着回しコーデ』
『もう椅子選びで悩まない! 人気ブランド最新テールホール特集』
『彼との初デートで尻尾を可愛く見せる三つのポイント』
……発売当日に公安が全部回収しそうなラインナップである。
俺が混乱と恐怖と好奇心と未練を寸胴鍋へ全部ぶち込み、弱火でことこと煮込んだみたいな精神状態になっていると――
彼女の瞼が、ゆっくりと開いた。
紫色の瞳。
どこか眠たげで、焦点もまだぼんやりしていて、天井を映すその目には昨夜飲み過ぎた酒がまだ半分くらい残っているような気怠さが滲んでいる。
普段の彼女なら人を値踏みする猫みたいな鋭さがあるのに、今だけは電池切れ寸前の美人という感じで、妙に隙があった。
彼女は数秒間ぼんやりと天井を眺め、それからゆっくり首をこちらへ向ける。
俺と目が合った。
終わった。
俺は正座したまま微動だにできない。
万引きGメンへ現行犯で腕を掴まれた高校生より固い。
いや、会社の飲み会で部長の悪口を全力で話した直後、その部長が真後ろに立っていたと気づいた新入社員くらい固い。
彼女の視線が俺の顔をゆっくり舐めるように通り過ぎ、次に自分の額へ向かい、そして腰のあたりで止まる。
布団の外へ投げ出された尻尾。
髪の隙間から覗くツノ。
状況確認、完了。
部屋が静まり返る。
その沈黙を埋めるように、年季の入った冷蔵庫が「ぶぅぅぅん……」と低く唸った。
空気を読め。
いや、逆に読めてるのか。
「俺は関係ありませんよ」と生活音だけ提供する家電の処世術が妙に腹立たしい。
彼女はゆっくりと瞬きを一つした。
「……見た?」
寝起き特有の少し掠れた声。
いつものホステスみたいな甘ったるい響きへ、「朝から面倒ごとかよ」という露骨なだるさが絶妙に混ざっている。
俺は首を横へ振ろうとした。
しかし途中で「あ、いや見た」「いや見てない」「でも見た」「いや触ったし」という情報が脳内で玉突き事故を起こし、結果として首が途中で止まり、壊れかけた首振り人形みたいに小刻みに震えるだけになった。
見た。
見てしまった。
いや、見ている。
現在進行形で見ている。
しかも触った。
尻尾のふわっとした感触まで鮮明に覚えている。
この状況で「見てません」は、小学生が口の周りをチョコまみれにして「食べてない」と言い張るくらい説得力がない。
正直に話したら殺されるのか。
嘘をついたら見逃されるのか。
いや、あの女がそんな安い嘘を見抜けないわけがない。
脳内会議は開幕三秒で紛糾し、賛成派も反対派も机を叩き始め、議長である俺だけが「もう帰りたい」と泣いていた。
「いや、その……あの、ええと……寝癖が、すごいなって」
「……寝癖?」
彼女の目が、すうっと細くなる。
美人が目を細めると色っぽい、なんて雑誌なら書くのだろうが、今の俺にはそんな余裕はない。
あれは猛獣だ。
獲物との距離を測る肉食獣の目だ。
いや、もっと身近な例えがある。
夜の店で売上をごまかした新人を呼び出したナンバーワンのお姉さん。
あの「さて、どこから話そうか?」という静かな笑顔に近い。
怒鳴られるより怖い。
俺は慌てて両手まで振りながら、穴だらけの言い訳へさらに穴を開ける勢いで言葉を継ぎ足した。
「そう、寝癖。ほら、なんか、髪がこう、尖ってるというか、個性的というか、最近の流行かなって。あと腰のあたりに、えー、紐みたいなものが、いや紐ではない気がするけど、紐ということで社会的合意を形成できないかなと」
「社会的合意」
彼女はゆっくりと上半身を起こした。肩から毛布がするりと滑り落ち、さっきまで「寝ぼけて見間違えた可能性」という俺の淡い希望を辛うじて支えていた最後の言い訳ごと剥ぎ取るように、二本のツノが朝日を受けて完全に姿を現す。同時に、長い尻尾が眠たそうに持ち上がり、まるで猫が機嫌を測るみたいにゆらり、ゆらりと左右へ揺れ、その先端が俺の膝のすぐ近くを掠めた。……今すぐに逃げたい。全力で逃げたい。しかし部屋の出口までは約三メートル、彼女との距離は一メートルにも満たず、俺の運動能力といえば学生時代のシャトルランで「まだ序盤だぞ」と先生に励まされながら真っ先に脱落し、友人から「お前、走るの苦手じゃなくて重力に嫌われてるだろ」と本気で心配された程度しかない。一方、彼女の身体能力は未知数だが、怪人である以上、「三メートル? 一歩ですけど?」くらいの認識でも何ら不思議ではない。窓から飛び降りる案も一瞬浮かんだが、ここは二階なので即死は避けられるかもしれない代わりに足首を折って逃走不能になり、そのまま大家さんが丹精込めて育てている植木鉢へダイブして器物損壊まで追加される未来しか見えない。怪人から逃げようとして怪我と弁償代を背負うとか、人生の費用対効果があまりにも悪すぎる。
「ねえ」
彼女は欠伸を噛み殺しながら、寝乱れた黒髪を指先でゆっくりとかき上げる。その何気ない仕草だけで妙に色っぽいのだから腹が立つし、その横からツノがにょきっと生えているせいで、いつもの大人っぽい雰囲気が「悪魔の休日」みたいな絵面になっている。……いや、「みたい」じゃない。本物である可能性が今のところ九十九パーセントを超えている。
「いつから起きてたの?」
「えっと……天井のシミが昨日より増えたかどうか確認してたあたりから」
「それ、何分前?」
「体感では三年くらい」
「実時間で」
「五分……いや、七分……あ、いや、すみません。尻尾も触りました」
言った瞬間、自分の口を全力で殴りたくなった。何を自供しているんだ俺は。誰も聞いてないのに証拠品まで提出する犯人がどこにいる。司法取引のつもりか。しかし相手は検察官ではなく、ツノと尻尾を装備した正体不明の美女である。法廷どころか、そもそも人類の法律が適用されるのかすら怪しい。
彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから口元へ手を添えて、小さく肩を震わせた。
「へえ。触ったんだ」
「いや、その……確認というか、夢か現実か確かめるための、極めて学術的な行為で……」
「柔らかかった?」
「……はい」
「温かかった?」
「……はい」
「で、率直な感想は?」
「尻尾って……意外と保温性能が高いんだなって」
我ながら人生で一番どうでもいい感想だった。
彼女は堪えきれなくなったらしく、「ふふっ」と声を漏らし、そのまま肩を揺らして笑い始める。声を抑えているのに、笑いが止まらないのが伝わってくる。俺は笑われているのか、それとも「面白いから最後に遊んでから殺そう」と思われているのか判断がつかず、とりあえず正座だけはさらに深くなった。武士でもここまで綺麗な正座はしない。
そのとき彼女の尻尾がするすると床を滑り、まるで意思を持つ蛇みたいに俺の足首へ巻き付いた。
柔らかい。
温かい。
そして逃げられない。
三拍子そろった最悪のリボンである。リボンにこんな拘束力があってたまるか。プレゼント包装なら可愛いのに、今の俺は完全に「開封待ち」の箱である。
「で、あんたはどうするつもり?」
「どう、とは……」
「通報する? 公安? 警察? それとも怪人ハンター? そういう専門の人でも呼ぶ?」
口調は驚くほど軽かった。今夜の晩ご飯は鍋にするか焼き魚にするか相談しているくらい気楽な声色なのに、紫色の瞳だけは氷みたいに静かで、冗談を一ミリも許さない光を宿している。その落差がめちゃくちゃ怖い。笑顔で包丁を研ぐ人くらい怖い。
喉がひりつく。
視線が自然と枕元へ置かれたスマホへ向く。
彼女の目もそれを見逃さなかった。
逃げ道はない。
言い訳も残弾切れだ。
残っているのは俺の情けなさくらいで、それも元から在庫過多だった。
「……通報したほうが、いいんだろうなとは思った」
正直に口にした瞬間、彼女の笑みがほんの少しだけ薄くなる。
しまった。
俺は慌てて両手をぶんぶん振った。
「まだしてない! 本当にしてない! というか、できなかった! だって俺の人生、公安へ電話するイベントなんて最初から実装されてないんだよ! 『もしもし、うちの居候が怪人っぽいんですけど』なんて言ったら、絶対向こうも『まず病院へ行きましょう』って返してくるだろ! 俺が通報する前に俺が保護対象になる未来しか見えなかったんだ!」
「実際、怪しい奴じゃない?」
「違う違う! 俺はただの貧乏フリーター! 怪しさじゃなくて生活苦で目の下にクマができてるタイプ!」
「哀れなのは否定しないけど」
「そこは否定して! せめて人としての尊厳くらい守って!」
「難しい注文ね」
彼女はまた小さく笑い、その笑いに合わせるように尻尾が俺の足首をきゅっと軽く締めた。痛くはないし、むしろ優しいくらいの力加減なのに、「逃げたら次は優しくしない」という無言の圧だけはしっかり伝わってくる。器用だなしかし。尻尾一本で脅迫とスキンシップを同時に成立させるな。
俺は背中へ嫌な汗がつうっと流れるのを感じながら、愛想笑いや引きつり笑い、謝罪用の笑い、社会人が理不尽なクレーム対応で身につける営業スマイルまで総動員してみたが、どれも今の状況では紙装甲にもほどがある。
「なあ、一つだけ確認していいか」
「いいわよ。答えるかどうかは、私の気分次第だけど」
「お前は……怪人なのか?」
その一言を口にした途端、部屋の空気がわずかに重くなった気がした。
彼女は何も言わない。
ただ静かに俺を見つめている。
窓の外では車が走り、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえ、どこかの部屋では蛇口から水の流れる音がする。
世界は何事もなかったようにいつも通りの朝を続けている。
なのにこの六畳一間だけが現実から切り離され、怪談とコントを半々で煮込んだような空間になっていた。
やがて彼女は髪を耳へ掛け、ツノの根元を指先でそっとなぞりながら小さく首を傾げる。
「だったら?」
「いや……だったらって言われても、困る」
「困るんだ」
「そりゃ困るだろ。三か月も一緒に住んでた女が、実は世間じゃ討伐対象かもしれませんって告白されて、『へえ、そうなんだ』で済ませられるほど俺の危機管理能力は高くないぞ。っていうかむしろ低い。うちのバイト先の防犯カメラより当てにならない」
「防犯カメラは役に立ってるでしょ」
「うちの店のはダミーなんだよ」
「それ、客に聞かれたら終わりじゃない?」
「今それを気にしてる場合じゃないんだよ!」
彼女はまた笑う。
本当にずるい笑い方だった。
緊張しているのは俺だけで、自分は全部お見通しだと言わんばかりの余裕を漂わせながら、それでもどこか楽しそうに笑う。
こういうとき、美人は本当に反則だ。
ツノがあっても反則だ。
いや、ツノがあるぶん唯一無二の個性まで手に入れていて、むしろ反則度は増している気がする。
「ねえ、あんた」
「はい」
「もし、あたしが怪人だったら、怖い?」
「怖いに決まってるだろ」
俺が間髪入れず即答すると、彼女は少しだけ目を丸くした。たぶん俺がいつものように「いやいや、大丈夫大丈夫」なんて空気を読んだ嘘を吐いて、その場を丸く収めようとするとでも思っていたのだろう。俺だって昨日までならそうしたかもしれない。だけど今日は無理だ。寝起きで、頭はまだ半分眠っていて、目の前にはツノが生え、尻尾が生えていて、そのうえ公安へ通報するかどうかという人生最大級の選択肢まで突きつけられている。俺の脳みその処理能力なんてとっくに限界を超えている。例えるなら無料スマホゲームで広告を見終わった直後くらい動作が重い。何を押しても数秒固まり、「応答していません」と表示されても文句は言えない状態だった。
「怖い。めちゃくちゃ怖い。正直、今も足首に尻尾を巻かれてるせいで、心拍数が求人広告の時給みたいに盛られてる。でも、お前が怖いのか、怪人って言葉が怖いのか、通報したあと俺の生活が終わるのが怖いのか、全部混ざってて、自分でもよくわからん」
言葉を吐き出すたびに、自分でも驚くくらい正直な本音が出てくる。
彼女の表情が、ほんの少しだけ変わった。
笑みそのものは消えない。
けれど目元に張りつめていた細い糸みたいな緊張だけが、ふっと緩む。
俺はその変化に少しだけ勇気をもらって、続きを口にした。
「それに、三か月一緒にいたからな。煙草をたかられた。酒も飲まれた。金も借りパクされてる。部屋も占領された。俺の人生の大事なイベントも、なんか雑に持っていかれた」
「あれ、まだ根に持ってるの?」
「一生持つわ」
「あたしは可愛がってあげたつもりなんだけど」
「言い方が完全に飼い主なんだよ」
「似たようなものでしょ」
「否定できない自分が一番つらい」
軽口を叩いているうちに、不思議と体の震えが少しずつ収まっていくのが分かった。
彼女もそれに気づいたのだろう。
足首へ巻き付いていた尻尾の力が、ほんの少しだけ緩む。
それだけなのに、さっきまで拘束具だったはずの温もりが急に生々しく意識されてしまい、俺は心臓の置き場所が分からなくなる。
本当に困る。
この状況で「柔らかいな」なんて感想を抱く俺の脳は、一度メーカーへ修理に出したほうがいい。
「で、どうなの」
彼女は静かに俺を見つめた。
「あたしが怪人だったら、あんたは通報するの?」
逃げ場のない質問だった。
俺は視線を逸らし、天井を見上げる。
シミが四つ。
昨日も四つ。
今日も四つ。
やっぱり増えていない。
……どうでもいい確認だ。
でも、人間という生き物は極限状態になると、どうでもいいことほど真剣に確認したくなるらしい。
現実逃避って案外細かい。
「……今すぐは、しない」
彼女の眉がわずかに動く。
「理由は?」
「聞きたいことが多すぎる」
「例えば?」
「お前が何者なのか、どうしてここに来たのか、何から逃げてるのか、俺を利用してるならどの程度まで利用する気なのか、家賃は今後払う気があるのか」
「最後だけ急に生活感あるわね」
「俺にとってはそこが一番深刻なんだよ。怪人はいつ襲ってくるか分からないけど、家賃は毎月一日に必ず襲ってくる。あいつは時間に正確なんだ」
「家賃のほうが怖い?」
「少なくとも大家さんは毎月確実に来る」
「現実的ねぇ」
「現実しか見てない貧乏人だからな」
彼女は喉の奥でくすりと笑うと、そのまま布団の上をゆっくりとこちらへ近づいてくる。
俺は反射的に後ずさろうとして、自分の足首がまだ完全には自由じゃないことを思い出した。
距離が近い。
近すぎる。
紫がかった髪から甘い香りがふわりと漂ってきて、寝起きだからか少し火照った肌が朝日に照らされる。
ツノがある。
尻尾もある。
なのに、その顔は三か月ずっと見てきた、あのどうしようもない居候のままだった。
勝手に缶ビールを開け、俺のつまみを横取りし、テレビを見ながら人の膝を枕代わりにして寝落ちし、「眠いから電気消して」と命令だけ残して布団へ潜り込む、あの図々しい女。
見た目だけが突然ファンタジーになったせいで、余計に頭が混乱する。
「優しいのね」
「優しいんじゃない。判断が遅いだけだ」
「それ、わりと致命的じゃない?」
「今朝ほど身に染みたことはない」
彼女は何も言わず、ゆっくりと俺の胸元へ手を伸ばした。
細い指先がTシャツの襟を軽くつまむ。
その瞬間、俺の体は石像みたいに固まった。
細い腕なのに、思っていたよりずっと力が強い。
人間の華奢な女の子、なんて認識で抵抗したら、そのまま簡単に転がされそうなくらいには強かった。
やっぱり怪人なのか。
いや、もうそこは疑う段階じゃない気もする。
公安の危険度で言えば何級なんだろう。
生活態度は特A級の迷惑人物。
酒量は危険物取扱者が必要なレベル。
金遣いは災害指定。
戦闘能力だけ未知数という、一番知りたくないステータス画面である。
「ちょ、待て、何を――」
「うるさい」
短い一言。
そして襟元がぐいっと引かれる。
拍子抜けするくらい簡単に体勢を崩した俺は、そのまま布団へ倒れ込んだ。
背中へ薄い敷布団の感触が直撃する。
痛い。
安物の布団って、「柔らかさ」より「存在証明」を優先して作られてるんじゃないかと思うくらい衝撃を吸収してくれない。
彼女はするりと俺の上へ身を乗り出し、両手を顔の横へつく。
朝日が紫色の髪へ透け、その髪がカーテンみたいに垂れて視界を覆う。
額へ落ちるツノの影。
背中でゆっくり揺れる尻尾。
逃げられない。
いや、抵抗くらいならできる。
できるけど、成果は期待できない。
輪ゴム一本でブルドーザーを止めようとするくらい希望がない。
彼女は俺を見下ろし、いつものように甘く、ずるく、相手の反応を全部分かったうえで遊んでいるような笑みを浮かべた。
「ねえ」
「……はい」
情けないくらい素直な返事だった。
「何も見てないよね?」
声は柔らかい。
寝起き特有の少し掠れた響きが混ざり、頬へ落ちた髪はわずかに湿っていて、それが風呂上がりの名残なのか寝汗なのか分からないくらい自然で、普段なら冗談めいた甘えにも聞こえる言い方だった。
けれど俺の顔の横へ置かれた両手は逃げ道を塞いだままで、紫色の瞳だけは一ミリも揺らがない。
これは確認じゃない。
命令でもない。
もっと厄介だ。
答えを自分の望む方向へ誘導する、慣れた女だけが持つ空気。
夜の店で「今日は一本くらい入れてくれるよね?」なんて囁くとき、人はたぶんこんな目をするのだろう。
……知らないけど。
少なくとも今の俺は、その空気に完全に飲まれかけていた。
「見てない……と、言いたい気持ちはある」
「あら。気持ちだけ?」
「現実としては見ました」
「正直ね」
「嘘ついたら尻尾で首を絞められそうだから」
「首は絞めないわよ」
「本当か?」
「今のところは」
「今のところって言葉、人生でいちばん怖く聞こえた」
彼女はくすくすと喉の奥で笑いながら、まるで怯えた猫でもあやすみたいな手つきで俺の頬を指先からするりと撫でた。その仕草は驚くほど優しく、乱暴さの欠片もない。だからこそ余計に怖い。猛毒と書かれたラベルを貼った薬瓶へ可憐な花を一輪だけ挿して「ほら綺麗でしょ」と微笑まれるような、脳みそが「危険」と「癒やし」のどちらを優先して処理すればいいのか分からなくなる類いの違和感だ。俺は無意識に呼吸を浅くしながら、彼女の表情を必死に観察する。笑っているけれど、その笑顔がどこまで本物でどこからが演技なのか、三か月一緒に暮らしてきたはずの俺にはもうさっぱり見分けがつかなくなっていた。
「……通報されたら、困るのか」
できるだけ平静を装ったつもりだったが、自分でも分かるくらい声が乾いていた。
「困るわね」
彼女はあっさり頷く。
「捕まるから?」
「それもあるし、もっと面倒な連中に居場所がバレる」
「面倒な連中?」
俺が聞き返した途端、彼女はふっと口を閉じた。
その一瞬だけ、さっきまで余裕たっぷりだった視線が窓のほうへ流れる。
薄いレースのカーテンが朝風に揺れている。
その向こうでは、いつも通りの町が目を覚まし始めていた。
ベランダで洗濯物を干す音。
遠くから聞こえる踏切の警報。
どこかの部屋で流れっぱなしになっている朝のニュース番組。
子どもの笑い声。
宅配トラックのエンジン音。
昨日までなら「平和だなあ」で済ませていた生活音を、彼女は一つ残らず警戒しているように見えた。
世界そのものが敵だと言われたら、人はあんな目をするのかもしれない。
「聞かないほうがいいことって、あるでしょ」
ぽつりと呟いたその声は、さっきより少しだけ低かった。
「またそれか」
「便利な言葉なの」
「便利すぎるんだよ、その言葉。便利すぎるものって、大体あとでろくなことにならないぞ。『後日説明します』とか『詳しくは利用規約をご確認ください』くらい信用できない」
「信用なんて、最初からそんなにないじゃない」
「自覚あるのかよ」
「あるわよ」
「堂々と言うな。反省しろ」
彼女は小さく肩をすくめる。
その拍子にツノが朝日を受け、鈍く光を反射した。
妙に綺麗だった。
綺麗だから困る。
見惚れそうになるたび、「いやツノだぞ」と脳内の常識担当が必死にブレーキを踏む。
俺はその光景をぼんやり眺めながら、ようやく認めざるを得なくなった。
これは寝起きの幻覚なんかじゃない。
夢でもない。
コスプレでもなければ、最近の若者文化でもない。
寝癖が突然進化して角になりました、なんて美容師泣かせの現象でも当然ない。
俺の六畳一間へ転がり込み、勝手に冷蔵庫を漁り、ビールを飲み尽くし、煙草を失敬し、財布の中身を「借りるね」で済ませ、人の人生へ土足で上がり込んできたこの女は、人間社会から危険視され、公安が監視し、賞金目当てのハンターが追い回す存在――怪人。
その可能性は、もはや「ほぼ黒」どころか、「現行犯です」と赤ランプを回しているレベルまで近づいていた。
「なあ」
「何?」
「俺……もしかして、巻き込まれてる?」
彼女は少しだけ考えるように首を傾げ、それから悪戯っぽく笑った。
「もう?」
「その言い方した時点で確定したな」
「飲み込み早いじゃない」
「違う。遅いんだよ」
俺は天井を仰いでため息を吐いた。
「三か月も一緒に住んで、今さら気づいたんだからな」
「確かに」
「『確かに』じゃない!」
思わず声が裏返る。
悲しい。
情けない。
三か月だぞ。
三か月も同じ部屋で生活して、煙草を分け合い、ビールを飲まれ、夜中にコンビニへ付き合わされ、同じ布団で寝て、それでも「この人ちょっと怪しいな」止まりで済ませていた俺の危機管理能力はどうなっている。
防犯ブザー以下だ。
いや、防犯ブザーは危険を察知すればちゃんと鳴く。
俺は鳴かなかった。
むしろ「まあいいか」で済ませた。
防犯ブザーどころか、玄関マットくらいの防犯性能しかない。
彼女はそんな俺の胸の上へ、そっと人差し指を置いた。
薄いTシャツ越しに伝わる指先は少しひんやりしていて、そのまま円を描くようにゆっくり動き始める。
まるで子どもが面白がって水面へ指を滑らせるみたいな気軽さだった。
そのたびに俺の心臓は律儀に反応し、どくん、どくん、と無駄なくらい存在を主張する。
絶対聞こえてる。
いや、聞こえてるどころか数えてるだろこの女。
「緊張してる?」
そんなことを聞かなくても分かるだろ、と言い返したかった。
けれど口は動かない。
俺の体は今、恐怖と警戒心と緊張と、そして絶対に認めたくない別の感情まで一つのCPUで同時処理しようとしていて、完全に限界だった。
例えるなら、十年前のノートパソコンで最新ゲームを起動しながら動画編集をして、その裏でウイルススキャンまで走らせているような状態である。
もうファンは全力で回っているし、画面は固まりかけているし、「応答していません」の表示が出るまで時間の問題だった。
「じゃあ、改めてお願いしてあげる」
「お願いって言い方にしては位置取りが完全に脅迫なんだよ」
「細かい男ね」
「命に関わる細かさだ」
「今日見たものは忘れて。誰にも言わない。通報もしない。あたしのことを探ろうとしない。今まで通り、煙草とビールと寝床を提供する」
「後半、お願いじゃなくて要求だろ」
「家賃はそのうち考える」
「考えるだけかよ」
「善処する」
「政治家みたいな逃げ方するな」
彼女は、まるで休日の昼下がりに商店街の福引きで三等の洗剤セットでも当てたみたいな、たいへん無邪気で腹立たしいほど楽しそうな顔で笑った。こちらはもちろん微塵も楽しくない。楽しい要素を探そうにも、家賃未納の居候美女が実はツノと尻尾つきの怪人でした、などという現実は、どう好意的に解釈しても人生のボーナスステージではなく、むしろチュートリアルを飛ばしたままラスボス部屋に放り込まれた初心者のそれである。にもかかわらず、彼女がいつもの調子で笑っているだけで胸の奥のどこかがほんの少しだけほっとしてしまう自分がいて、俺はその事実に気づいた瞬間、内臓をまとめて雑巾で絞られたような気分になった。最悪だ。俺はもう、思っていたよりずっと深刻に毒されている。
「もし断ったら?」
そう尋ねた瞬間、彼女の笑みは薄紙を一枚剥がすように静かに淡くなり、それと同時に安アパートの六畳間に漂っていた寝起きと煙草と貧乏のぬるい空気が、誰かが勝手に冷房の設定温度を十六度まで下げたみたいに一段冷えた。表情そのものはまだ柔らかい。唇の端も頬の角度も、昨日まで俺が見ていた彼女とほとんど変わらない。それなのに紫の瞳の奥だけが違っていて、そこには普段は冗談や欠伸や「ビールある?」の裏に隠されている別の色が、ほんの一瞬こちらを値踏みするように浮かんでいた。夜道の奥、街灯の光が届かない暗がりで、輪郭もわからない何かがこちらの呼吸の回数まで数えているような薄暗くて、冷たくて、そして妙に律儀な殺意の気配。
「あんたに酷いことはしたくないわ」
言葉だけ取り出せばそれは驚くほど優しく、むしろ心配性の姉か少し面倒見のいい隣人か、あるいは生命保険の営業が解約を思いとどまらせようとしているときの声に近かったが、そこに含まれている意味は脅しよりもずっと重かった。したくない。つまり、必要ならできる。できるけれど今はしたくない、というだけで、そこには俺の意思も人権も労働基準法もほとんど関係していない。俺は喉の奥で唾を飲み込んだ。彼女の指が俺の胸からすっと離れ、今度はまるで恋人の機嫌を取るみたいに俺の頬へ戻ってくる。その親密な仕草と背筋を冷やす危険な気配がまったく同じ手のひらの上に仲良く同居しているのだから、世の中は本当に油断ならない。
「……俺を殺すのか?」
「殺さない」
「本当に?」
「殺したら家賃払う相手がいなくなるでしょ」
「理由が最低すぎて、逆に信用できるのが腹立つな」
「それに、あんたは便利だし」
「便利で生かされる人生、思ってたより嬉しくないな」
「可愛いところもあるし」
「今の順番が逆だったら、俺は少しだけ人間として救われていた」
彼女はくすりと笑って逃げ場のない距離まで顔を近づけると、俺の耳元に唇を寄せながら、まるで甘い秘密を共有する恋人みたいな声で囁いた。
「だから、黙ってて。ね?」
甘い声だった。困ったことに、ほんとうに甘い声だった。そこへ薄く混じるビールの匂い、煙草の匂い、安物のシャンプーの匂い、そして視界の端で当たり前のように存在を主張しているツノと尻尾。ああ、これが俺の人生か、と俺は思った。まともな方向へ戻れる最後の分岐点が、今まさに音もなく背後へ遠ざかっていく。ここで「嫌だ」と言えば、おそらく何かが壊れるだろう。ここで「わかった」と言っても、たぶん別の何かが壊れるに違いない。どちらにしても壊れるなら、せめて今日の昼飯代と交通費と、できれば来月のスマホ代くらいは無事であってほしい。人間というのは追い込まれると、正義とか倫理とか社会秩序とか、そういう大きな言葉よりも先に財布の中の小銭とバイト先のシフト表を心配するようになるらしい。俺は深く息を吸い、天井のシミをもう一度数え、昨夜までなら絶対に人生で言う予定のなかった台詞をどうにか喉の奥から絞り出した。
「……わかった。今は黙ってる」
「今は?」
「永久保証はできない。俺は善良な一般市民だからな」
「善良な一般市民は、怪しい女を三か月も自分の部屋に住ませたりしないと思うけど」
「顔がよかったんだよ」
「正直でよろしい」
彼女は満足げに笑うと、ようやく俺の上から退いた。退いたというだけで俺の人生に春が来たような気がしたが、実際には春どころか、外ではまだ平日の朝が無慈悲に始まろうとしているだけだった。彼女は布団の上へ腰を下ろし、寝起きの猫のように気ままに伸びをする。その頭にはツノがあり、腰のあたりからは尻尾が伸びていて、しかも本人はそれを隠す気配がまったくない。朝の光の中であまりにも堂々と存在するそれらを見ていると、昨日までの「ちょっと家計が苦しいけれど、まあ生きてはいける」程度の生活が、まるで前世の記憶か何かのように遠く感じられた。彼女は床に落ちていたシャツを拾い、雑誌のグラビアみたいな気軽さでさらりと羽織りながら欠伸混じりに言った。
「コーヒーある?」
「ない」
「ビールは?」
「朝から飲むな」
「じゃあ煙草」
「俺の残り三本しかない」
「一本ちょうだい」
「怪人バレした直後に、いつものテンションでいつもの要求をしてくるそのメンタル、強すぎないか?」
「いつも通りが大事でしょ」
彼女は尻尾を器用に揺らしながら、俺の返事など最初から参考資料くらいにしか思っていない手つきで、ちゃぶ台の上に置いてあった俺の煙草の箱を勝手に取った。俺は一応、抗議しようとした。人間として、部屋主として、そして最後の三本を守る者として、声を上げるべきだと本能が告げていた。しかし彼女のツノを見て、尻尾を見て、ついでに紫の瞳を見て、俺はその抗議を喉の手前でそっと畳んで収納した。……弱い。俺はあまりにも弱い。たぶん、世が世なら真っ先に年貢を多めに納めるタイプの農民だったに違いない。
窓の外では今日も街が何も知らない顔で動き始めている。駅へ向かう会社員、ゴミ捨て場へ半透明の袋を運ぶ住人、どこかでやたら使命感を持って吠える犬、隣の部屋から聞こえる目覚ましの音、そして遠くのテレビかラジオから流れてくる、怪人関連の注意喚起。人間社会はいつだって自分のすぐ隣に異物が座っていても案外気づかない。事実、俺の目の前では人間ではないものが煙草をくわえ、人の部屋でくつろぎながら布団を当然のように占領し、しかも家賃を払っていない。怪人より先に取り締まるべきは、もしかすると不法居候なのではないか。俺は布団の上で頭を抱えた。
怪人を通報しなかったことより、今日のバイトに遅刻しそうなことのほうが先に胃を痛め始めているあたり、俺の人生はもう手遅れなのかもしれない。倫理観が死んだというより生活苦に押し負けたのだ。だいたい、正義の味方というのは家賃補助や交通費支給があって初めて成立する職業であって、残高三桁のフリーターに無償で背負わせていい看板ではない。
彼女は火のついていない煙草を唇に挟み、こちらへ顔を向けた。紫の瞳が悪戯を思いついた子どものように細まる。ただし、その子どもはおそらく素手で金庫をこじ開けられるし、機嫌を損ねると俺の人生設計を物理的に折りたたむ。
「ねえ、火」
「……はいはい」
ライターを手渡す俺の指先は、まだ少し震えていた。彼女はそれに気づいている。絶対に気づいている。気づいたうえで何も言わず、ただ煙草の先へ火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。白い煙は朝の光に溶けるように薄く広がり、六畳一間の貧乏くさい空間を妙に退廃的で映画みたいな雰囲気に変えていく。もっとも映画ならここで意味深な音楽が流れるところだが、現実に聞こえてくるのは冷蔵庫のうなりと、隣室の住人が盛大にくしゃみをする音だけだった。
「今日から、ちょっと忙しくなるかもね」
「何が?」
「いろいろ」
「その『いろいろ』で、人はだいたい不幸になるんだよ。特に説明を省かれた側が」
「大丈夫よ」
「何が大丈夫なんだ」
彼女はにっこり笑った。その笑顔は、夜明けの光を受けてやけに綺麗で、腹が立つほど絵になっていて、そして信用ならなさにおいては闇金融の広告とほぼ同等だった。
「少なくとも、退屈はしないから」
俺はその言葉を聞き、心の底から思った。退屈でいい。退屈がいい。むしろ退屈こそが人類に与えられた最大の祝福であり、昼寝と安売りの惣菜と予定のない休日こそが文明の到達点なのだから、頼むから今すぐ俺の退屈を返してほしい。家賃を払えない謎の美女と共同生活しているだけでも、俺の人生の処理能力はとっくに上限を超えていたのに、その美女が怪人で、しかもどうやら何かから追われているらしいとなれば、俺の穏やかな貧乏生活は貧乏という現実味だけをかろうじて残したまま、完全に別ジャンルへ突入している。これは恋愛コメディなのか、怪人サスペンスなのか、公安逃亡劇なのか、それともただのヒモ被害者日記なのか、自分でも判別できない。わかっていることは一つだけ。
俺のボロアパート生活は、今日から本格的におかしくなる。
そしてその元凶である彼女は、俺の最後から三番目の煙草を当然のように吸いながら悪びれもせず、まるでこれから楽しい遠足にでも出かけるみたいな顔で笑っていた。




