プロローグ
朝という生き物は、どうしてこう、人の現実だけを狙ってぶん殴ってくるのだろう。
二日酔いで割れそうな頭を抱えながら薄目を開けた俺は、まず天井のシミを数えた。一、二、三……いや違う、あれ昨日も四つだった気がする。増えてる? 湿気って繁殖するの? ボロアパートってそういう生態系なの?
築年数を聞いた不動産屋が一瞬だけ目を逸らした理由を、住み始めてから毎日のように理解させられている。壁は薄い。床は軋む。冬は冷蔵庫より寒く、夏はサウナより蒸す。風が強い日には建物全体が「もう勘弁してくれ」と悲鳴を上げているような音を鳴らし、隣人がくしゃみをすれば「お大事に」と返事をしたくなる程度には生活音が筒抜けだ。
そんな夢も希望も耐震性能も怪しい我が家へ、三か月前から一人の居候が住み着いている。
理由は実にシンプル。
「家賃、払えなくなった」
以上。
ドラマなら何か深い事情がありそうな台詞なのに、本人はコンビニで新作ビールを吟味するくらいの気軽さでそう言い放ち、俺も俺で「そうなんだ」と返してしまったせいで、気づけば共同生活が始まっていた。
冷静に考えれば意味がわからない。
隣人が家賃を滞納した結果、なぜ俺の部屋に引っ越してくるのか。大家は何を見ていた。俺は何を了承した。
もっとも、あの時点では断るという選択肢が脳内から綺麗さっぱり消滅していたのだから仕方がない。
相手は、息を呑むほど整った顔立ちをした二十歳の美女だった。
紫がかった長い髪。気怠そうに細められた瞳。酒と煙草が妙に似合う大人びた雰囲気。黒い服をさらりと着こなしながら、缶ビール片手にベランダへ現れては「一本ちょうだい」と煙草をねだる姿が妙に板についている。
名前は――まあ、今は置いておこう。
どうせ本人も、本名を名乗っているか怪しい。
クールで無愛想なくせに、気分次第では人を振り回すのがうまく、俺の財布から小銭を消し飛ばす技術だけはプロ級。「今度返す」が返ってきた試しはなく、「今日だけ」が三か月続き、「飲みすぎた」が毎週更新されている。
生活費は折半のはずなのに、冷蔵庫のビールだけ異様な速度で消えていく現象について、学会で研究してほしいくらいだ。
そんな調子で振り回され続けた結果、俺たちは恋人とも家族とも言えない、説明不能な距離感になってしまった。
夜更かしをしてゲームをしたり、カップ麺を半分ずつ食べたり、電気代節約のために同じ部屋で過ごしたり、酔った勢いで距離感が狂ったり。
人生というものは、一度レールを外れると案外転がる。
転がりすぎる。
俺の童貞まで綺麗に転がっていった。
もちろん彼女にとっては大した出来事ではなかったらしい。「へぇ、初めてだったんだ」と缶ビール片手に笑われた日の精神的ダメージは、いまだ回復していない。
それでも、不思議と悪い生活ではなかった。
貧乏同士でスーパーの半額シールを追い回し、財布の中身を確認してから外食を諦め、給料日前には二人揃って白米と味噌汁だけで「意外といける」と現実逃避をする。
こんな毎日も、それなりに平和だった。
少なくとも――今、この光景を見るまでは。
視界の端で、紫色の髪が布団いっぱいに広がっている。
昨夜も酒を飲みすぎた彼女は、俺の隣で器用に毛布を蹴飛ばし、完全に無防備な格好で眠っていた。
そこまではいい。
いや、本当は全然よくないが、もう見慣れてしまった。
問題は、そのさらに先。
「…………」
俺は瞬きをした。
もう一度した。
三度目は念入りに。
睡眠不足か。
アルコールか。
あるいは、このアパート特有のカビが脳へ到達したのかもしれない。
どれでも説明できれば、それで済ませたかった。
済ませられなかった。
彼女の髪の隙間から、小さな黒いツノが二本。
腰の辺りでは、下着の隙間から細長い尻尾が布団の上へだらりと伸び、気まぐれな猫みたいに先端だけがゆっくり揺れている。
揺れている。
揺れてるな。
風?
いや、窓閉まってる。
寝癖?
尻尾に寝癖って何だ。
コスプレ?
寝る時まで?
しかもこんな精巧な?
俺の脳みそは、現実を受け入れることを全力で拒否し始めた。
待て待て待て。
落ち着け。
人間、慌てた時ほど確認作業が大切だ。
まずは深呼吸。
よし。
次に、自分のほっぺをつねる。
痛い。
夢じゃない。
冷蔵庫を確認する。
ビールしか入ってない。
いつも通りだ。
財布を見る。
千百三十二円。
泣ける。
現実だ。
つまり。
ツノがある。
尻尾もある。
俺の隣で寝ている。
酒癖が悪くて煙草を吸って、金遣いも荒くて、やたら色っぽくて、人を便利に使うことに一切の罪悪感を抱かないあの女に。
……ツノと尻尾が、生えている。
「いやいやいやいや」
思わず漏れた小声に反応したのか、彼女の尻尾がぴくりと動いた。
動いた。
動くんだ、それ。
生き物なんだ、それ。
俺は人生二十五年目にして、とんでもない可能性へ辿り着いてしまう。
まさか。
いや、そんな漫画みたいな話が。
そんな都市伝説みたいな話が。
ニュースで時々耳にする、公安だの討伐だの、危険度だの、画面越しの出来事だと思っていた、あの――
「……怪人、なのか?」




