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第1話 刃折れのエリオス

初めまして、数多くの作品の中からこの作品を見つけてくださりありがとうございます!


 雨は、世界のすべてを塗り潰すかのように降っていた。



 空から叩きつけられる無数の飛沫は、誇り高き騎士団の最期のときの声を、内臓をぶちまけられた馬の断末魔を、そして友が死に際に叫んだはずの言葉を、無慈悲に、執拗に、掻き消していく。

 俺の視界にあるのは、もはや美しい草原ではない。

 数刻前まで風に揺れていた若草は、溢れ出した生温かい鮮血と降り注ぐ水に溶け、鉄錆と排泄物の臭いが立ち込める「肉の泥沼」へと姿を変えていた。


(……重い……寒い……)


 俺の上に横たわる、かつての親友だった「肉塊」から、急速に生気が失われていく。鎧の隙間を通して伝わっていた確かな鼓動が、雨に打たれるたびに細くなり、やがて指先を浸す汚泥と同じ冷たさへと沈んでいった。


 重い。自分を庇って倒れたはずの親友の体が、今はただ、俺を押し潰す冷徹な重石おもしにしか感じられない。


 俺はその冷たさにしがみつき、肺の奥に溜まった血の混じった空気を、音を立てぬよう慎重に吐き出した。

 泥を啜り、鉄の味を飲み込み、死者の重みに守られながら、ただガタガタと震える。


「……ふん、全滅か。弱すぎて欠伸が出る」


 頭上で、傲慢な足音が響いた。

 敵国騎士の、死体の上を無造作に跳ね上げる軍靴の音。グチャリ、と肉が潰れる嫌な振動が、親友の背中を通じて俺の頬へと伝わり、鼓膜を揺らす。

 死体の隙間から覗く視界の端に、血のように赤いマントと、冷酷に翻る帝国の紋章旗が焼き付く。


───こわい。死にたくない。


 見つかれば、次は俺の番だ。

 あの鋭い剣先が、俺の喉元を突き通し、この汚泥の中に永遠に繋ぎ止めるだろう。

 勇気なんて、最初からなかった。俺にあるのは、吐き気がするほど醜悪で、卑屈なまでの生存本能だけだ。自分を逃がそうとしてくれた親友を、盾として使い、その肉の壁の下で震えているだけの、下劣な命だ。

 蹄の音が完全に遠ざかり、草原には再び、単調で冷酷な雨音だけが戻った。


(……生き、てる?)


 俺は、自分を隠していた親友のむくろを、ゆっくりと、恐る恐る押し退ける。

 泥と血に塗れた腕が、彼の冷え切った鎧を滑った。這い出した泥の上で、天を仰いだ。雨粒が顔に当たり、目に入った血と混じって視界を赤く染める。


 俺は見てしまった。すぐ隣に、憧れていた隊長の姿。だが、その首から上は、跡形もなく消え失せている。首の断面からは、雨水に薄められた赤い液が、途絶えることなく泥へと注がれていた。

 そこかしこに、昨晩まで一緒に安酒を煽り、未来を語り合った仲間たちが、あり得ない角度で折れ曲がった泥の人形となって転がっている。

 


───そして。



俺を庇って死んだ、親友の顔が、すぐ目の前にあった。


 彼は、虚ろな目を見開いたまま、天を仰いでいた。その瞳には、泥水と雨粒が溜まり、もはや光を反射することさえない。その唇は紫色に変色し、二度と動かず、俺の名を呼ぶことはない。

 その瞬間、世界から音が消えた。

 雨音も、風の音も、俺の心音さえも。

 ただ一つ、俺の中で、何かが、とてつもなく巨大な何かが、音を立てて決壊した。


「……う、うわぁぁぁぁぁあああああ!!!!」


 喉が裂けるほどの、絶望の咆哮。

 俺は親友の骸にしがみつき、その冷たい鎧を、泥まみれの拳で何度も、何度も殴りつけた。

 彼を悼むためではない。生き残ってしまった自分への、仲間を見捨てて呼吸を殺していた自分への、耐えがたい自己嫌悪と、逃げ出したくなるほどの恐怖をぶつける場所が、ここしかなかったからだ。


「臆病者でごめん、ごめん! ……な、なぁ起きてくれよ……! 俺を一人にしないでくれ……!!」


 涙と鼻水が、雨と血と混じり合って顔をぐちゃぐちゃにする。

 叫んでも、殴っても、親友は冷たいまま動かない。その静寂が、何よりも重く、容赦なく俺の心を磨り潰していく。


(……俺は、生きていては……)


 この地獄のような草原で、息をしているのは、俺という卑怯者だけ。

 その圧倒的な孤独と絶望に、俺は泥の中に蹲り、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 どのくらいの時間が過ぎたろう。

 泣き疲れ、感覚の麻痺した俺の目に、ふと、親友の手が映った。

 彼は、一本の剣を握りしめていた。だが、その白銀の刀身は半ばで無残に叩き折られ、鋭利な断面を雨に晒している。


「……折れてる。バカだな、お前……俺なんかを……。こんな不格好な鉄屑で、何を守ろうとしたんだっ……」


 掠れた声で呟き、震える指でその鋭い断面をなぞる。

 騎士の剣としては、もう死んでいる。

 だが。この「短さ」なら。この「汚れ」なら。

 今の俺にお似合いだ。


(あいつらを……殺してやる。この折れた鉄塊で、同じ泥の中に引きずり落としてやる)


 絶望の底で、ドロドロとした怨念が、煮え繰り返るのが分かった。

 俺は、腰に差していた、一度も抜くことのなかった磨き抜かれた長剣を泥に捨て、親友の「折れた剣」を胸に抱きしめた。


「俺と一緒に、地獄へ行こう。…………俺なんかに使われるなんて、な」


 膝はまだガタガタと震えている。だが、彼は立ち上がった。

 自分という人間を殺し、死んだ親友の名を騙る、復讐の旅路。



 後に、彼はこう呼ばれる──『刃折れのエリオス』と。



 雨は、彼の足跡と、草原に残された慟哭の痕跡を、静かに、無慈悲に消し去っていった。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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