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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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生涯ピアニスト

チャペルの二階の窓から、直樹と響の様子を、琳太郎と雛形がこっそり見ていた。

「あいつら、俺らに二度も覗き見されてしまうとは」

琳太郎は夏合宿のことを思い出して笑った。

「声だけ聞こえなくて残念。鶴岡さんが授業中、頑張って編んでたんですよ」

雛形も愛おしそうに微笑んだ。

「いいなー。俺も欲しいなー。手編みのマフラー」

琳太郎は雛形の顔を覗き込んで言った。

「ごめんなさい、気が利かなくて」

雛形はさも驚いたようなふりをしてみせる。

二人が笑い合っているところへ、パンツスーツを着込んだ女性が二人に話しかけた。

「あの。少しよろしいでしょうか」

「はい」

二人同時に返事した。部下らしき男性も歩み寄ってきた。

「お願いしたいことがございまして。今、お時間よろしいですか?」

女性が頭を下げると、琳太郎と雛形は顔を見合わせた。


それから数時間後、琳太郎はセダンの後部座席に乗っていた。

数日前のことだった。簡易書留が届いて、中を開けたら手紙が入っていた。手紙には、土曜の夜にコンサートを開くので来てほしい、ピックアップ場所を知らせてくれれば迎えの車を出すという内容だった。琳太郎は驚いた。誰のコンサートかと思えば、綿貫つばさだった。電話をかけると音楽制作会社の事務スタッフらしい女性が出て、運転手が自宅まで送迎する旨を、改めて説明してくれた。琳太郎は戸惑いながらも了承した。

車は高速道路を南下し、首都高を抜けた。一般道へ出ると、帝国芸術会館の地下駐車場へと入った。運転手に大ホールへ向かうよう伝えられ、琳太郎はエレベータで地上階へ出た。扉が開くとホワイエがあり、会館の利用客達が玄関から出ていく様子が見えた。大ホールの入口の扉へ近づくと、五十代くらいの女性が歩み寄ってきた。

「鳥飼琳太郎さんですか」

「はい」

琳太郎は答えると、簡易書留に入っていた手紙を見せた。女性は静かに頭を下げた。

「どうぞ」

女性は二重扉をあけ、琳太郎を中に入れた。

大ホールの中はがらんとしていた。琳太郎は不思議に思って辺りを見回すが、他の客が入ってくる様子はなかった。秋に雛形とこの場に来たことを思い出しながら、琳太郎は正面ブロックの十列目に座った。

しばらくすると客席の照明が暗くなり、中央ステージの明かりが灯った。袖から綿貫つばさと、介添人が出てきた。つばさはグランドピアノの椅子まで誘導されると、ピアノに向かった。しばらく鍵盤を見つめて弾き始めたのは、ミド中がコンクールの自由曲に選んだ、ムソルグスキーの「展覧会の絵」だった。

琳太郎は耳を傾けた。つばさは画家さながらに演奏した。八十八鍵の鍵盤を絵の具にして、絵画を一枚一枚、描いていた。若草色で草原をスケッチし、ホリゾンブルーで空を塗り、金色で光の筋を引いた。暗赤色で絶望を(したた)らせ、桜色で幸福を吹きつけ、ラベンダーで悲しみを滲ませ、カナリヤイエローで希望を描いた。それぞれを重ね、水で溶き、混ぜ合わせながら、森羅万象を細密に表現してみせた。(あで)やかに輝く渦に、琳太郎は身を委ねた。


三十分以上かけて「展覧会の絵」の演奏が終わると、つばさは鍵盤から手を離した。広いホールに、琳太郎の拍手だけが小さく響いた。先ほど、琳太郎が大ホールの入り口で会った女性が袖から出てきて、琳太郎に向かって頭を下げた。

「綿貫麻里奈です。つばさの母です」

琳太郎も頭を下げると、つばさが椅子から立ち、母がそばに寄り添った。

「鳥飼さん」

つばさは観客席の宙に顔を向けて呼びかけた。

「はい」

琳太郎は客席から答えた。声が聞こえた方につばさは顔を向けた。琳太郎と目はあっていないが、琳太郎の位置は捉えた。

「突然お呼び立てして、申し訳ありません」

つばさは頭を深く下げた。琳太郎は立ち上がり、ステージのそばへ歩み寄った。

「あのとき、助けてくださって、ありがとうございました」

つばさはそう言って、もう一度頭を下げた。琳太郎は訳が分からずに、困惑したままつばさを見つめる。

「僕を助けてくれたのが、ピアニストの鳥飼さんだと知ったとき。僕は…。自殺を考えました」

母に背中をさすられながら、つばさはゆっくりと語り出した。

「左手を怪我したなんて。全部、僕のせいで。怖くて。本当に怖くて。とても受け入れられませんでした」

琳太郎は目を見開き、肝を潰した。つばさが何を言っているのか、すぐさま理解した。

「でも、結局、何もできませんでした。僕は高校生で、あの日は帝国音楽大学の演奏会を聴きにいっていたんです。鳥飼さんの演奏も、もちろん聴きました」

つばさはそばにいる琳太郎の、頭の上のあたりを見て言った。琳太郎は呆然として聞いていた。次第にわなわなしながら、つばさを見つめた。

「僕はこの通り、生まれつき、目が見えません。ずっと支えてくれた家族のことを思うと、命を断つなんて、簡単にできませんでした。それに、」

つばさは言葉を区切った。母が、今度は腕のあたりをさすった。

「僕はピアノが好きです。嫌いになったことは一度もない。ずっとずっと、弾いていたいんです。お客様に愛され続けるピアニストになりたい」

つばさは口角をあげ、笑ってみせた。琳太郎の目に、うっすらと涙が滲んだ。

「鳥飼さんと連絡を取ろうとしましたが、お母様を通じて断られました。僕はすぐに退院できたけど、鳥飼さんはまだ入院中で、僕には会いたがらないだろうから、そっとしておいてほしいと、丁重にお詫びもいただきました」

琳太郎は下を向き、頷いた。涙が頬をつたい、床を濡らした。

「鳥飼さんのCDを買って、僕は繰り返し聴きました。鳥飼さんの『展覧会の絵』も、『十二のエチュード』も、『英雄ポロネーズ』も、全部」

つばさの母が紙袋からCDを数枚、取り出してみせた。それは過去に、琳太郎が音楽制作会社とともに制作したCDだった。琳太郎は震えながら、大きく頷いた。

「不思議なんです。鳥飼さんのピアノを聴いていると、僕の頭にはものすごくたくさんのイメージが湧きました。指の先が、あったかくなりました。なんだかこう…このあたりも、あったかくなって」

つばさは胸のあたりに触れた。

「怖いとか、不安とか、そういうのがみんな、消えました。本番前には、いつもワクワクできるようになりました」

つばさは楽しそうに頭を揺らした。琳太郎もそれに合わせて頷き、大粒の涙を落とした。

「鳥飼さんのピアノが、僕を変えてくれました」

つばさはこれ以上ないほどに口角を上げて歯を見せ、大きく笑ってみせた。限りない幸福に満ちた笑いだった。琳太郎はしゃくり上げ、両手で顔を覆った。

「あなたが守ってくれた、僕の手で。僕は生涯、ピアニストを続けます」

つばさは琳太郎の頭のあたりに顔を向けた。焦点の合わない目から、一筋の涙を流した。琳太郎は床にひざまづき、さめざめと泣いた。


琳太郎が会場を出るとき、つばさと母が駐車場まで見送ってくれた。

「どうやって僕に連絡したんですか」

琳太郎が尋ねた。

「ああ、それは」つばさの母がジャケットのポケットから一通の手紙を取り出して言った。「こちらです」

速達スタンプが押された、淡いピンクベージュの封筒から便箋を引き出すと、琳太郎に差し出した。つばさは何やら興奮気味に体を揺らし、ニカッと笑っている。琳太郎は不思議に思って便箋を受け取った。そこには琳太郎が見覚えのある、手書きの文字があった。

『私の大切な人に、貴方様の演奏をどうか聴かせてあげてください』

つづく

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