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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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真実

雛形は琳太郎の左手を握り、ベッドの縁に座った。琳太郎は仰向けになったまま、ぽつぽつと話し始めた。


「その指は、神に愛された指なんだね」

琳太郎が帝国音大に在学中、ショパンの国際ピアノコンクールで優勝したとき、桂木が琳太郎にかけてくれた言葉だった。琳太郎は高揚して、自分の両手をまじまじと見つめた。

「いつか、その指で世界を変えてくれ」

桂木は誇らしげに、穏やかな笑みを浮かべた。


二十四歳の誕生日を迎える、一ヶ月前のことだった。琳太郎は、帝国音楽大学の音楽ホールに来ていた。ピアノ科のOBとして誘われ、現役学生との演奏会に出演した後のことだった。

桂木を交え、現役生やOB仲間達と打ち上げにいくため、待ち合わせをすることになっていた。誰よりも先に門の前にやってきた琳太郎は、後方にそびえる学内の時計台を見上げた。あたりはすっかり暗くなっていて、時刻は夜八時を過ぎたところだった。七月の夜間は蒸し暑く、琳太郎はタオルで汗を拭いた。門は大学の四角い敷地の隅にあり、目の前には大きな交差点があった。そこへ、高校生くらいの少年が、琳太郎のすぐそばで信号待ちしていた。琳太郎は何とはなしに傍観していた。信号が青に変わると、少年はポールのようなものを持ち、横断歩道を渡り出した。突然、大きなエンジン音とともに、大型トラックが左折してきた。薄闇のなかで少年の姿がトラックのヘッドライトを浴び、明るく照らされた。琳太郎はとっさに飛び出した。少年はすぐに反応できず、その場で立ち尽くした。琳太郎は少年を抱き抱えた。トラックは急ブレーキをかけたが、間に合わなかった。


大学前は騒然となった。大勢の通行人や学生に取り囲まれ、琳太郎と少年は救急車に乗せられ、救命センターへ運ばれた。少年は軽い打撲で済んだが、琳太郎は重体だった。頭部や首、肩、背中の損傷に加え、左腕を骨折していた。両親が駆けつけ、琳太郎は緊急オペを受けた。

幸い、一命は取りとめた。CT検査やMRI検査の結果、頭蓋骨や脳そのものへの損傷はなかった。頭部の皮膚がむけて出血し、たんこぶはできていたものの、脳の外側が損傷しているだけで済んだ。ただ、腕だけは違った。

「腕を骨折したときに、指の神経も損傷しています」医師は表情のない声で、琳太郎の両親に言った。「神経の移植手術をしてリハビリをすれば、日常生活ができる程度の回復は見込めますが…」

医師の説明は尻すぼみだった。

「息子はピアニストなんです」

母は震え、医師の手を握りながら言った。父は黙って医師を見つめた。医師は重々しく頷いた。

「こちらも、最善を尽くします」

当時の婚約者、葵も職場から病院へすっ飛んできた。

「大丈夫だよ。私がついているから。絶対に回復するよ」

葵も目に涙を溜め、琳太郎を勇気づけた。

琳太郎が予定していた複数のオーケストラとの共演には、同級生の(かける)が代役を引き受けることになった。彼は琳太郎と同じ帝国音楽大学の出身だった。コンクールの成績はいつも琳太郎が上位で、翔はそこまで目立つ存在ではなかった。

「琳太郎の変わりは荷が重いよ」

翔も病院に見舞いに来て、琳太郎の前でこぼした。琳太郎は複雑な思いで、無理に笑った。

「お前ならやれるよ」

琳太郎は神経の移植手術を受けた。


入院中、毎日病院にやってきた葵は、退院後も琳太郎のリハビリに付き添ってくれた。両親が見かねて、こちらで琳太郎を引き受けるからと言ったが、葵は譲らなかった。

「お願いです。彼のそばにいさせてください」


琳太郎の左手は痺れ、親指と人差し指、中指を曲げることができなくなっていた。物を掴むことはできず、ピアノはおろか、食事や着替えも、トイレもままならなかった。無理に動かそうとすると指や手のひらに鋭い痛みが走った。琳太郎は実家に戻ると伝えたが、葵が引き留めた。

「私が、絶対に琳太郎のこと、支えてみせるから」

葵はミュージックスクールでの仕事量を減らし、同棲先のマンションで献身的にサポートした。

ときどき翔は琳太郎にメッセージを送り、早く復活しろよと励ました。桂木もメールを送り、大丈夫だからと、勇気づけた。姉の麗華は葵にことわり、小学生になったばかりの史門を連れ、何度も顔を見にやってきた。

通院先の病院では整形外科医がリハビリ治療に当たった。琳太郎の左腕を揉みほぐし、肘を曲げたり、手首を曲げたり、指を引っ張ったりを繰り返した。電気治療もおこない、肘を温めながら血流を促した。葵も一緒に付き添い、整形外科医の施術を見よう見まねで学び、帰宅してからも琳太郎の腕を揉んでやった。


傷が癒え、リハビリが進むとともに、琳太郎のなかでは葵の存在が大きくなっていった。もともと、葵に心底惚れているわけではなかった。葵は弱音を吐かず、いつも明るく接し、琳太郎を肯定し、ただただそばにいてくれた。琳太郎が後ろ向きなことをこぼしても、温かく受け止めた。ひたむきな姿に、琳太郎は深い安らぎを覚えた。葵のことは誰よりも信頼できた。

「きっと心配になるよね。でも、大丈夫だよ。絶対に良くなる」

葵は太陽のように輝く笑顔を向け、琳太郎を抱きしめた。


いつからか、翔からの連絡が途絶えてしまった。代わりに、翔があちこちで実績を積み、単独でコンサートを開くことを、翔のウェブサイトを通して知った。琳太郎は唇を噛んだ。耐え難い嫉妬心が全身を襲い、気が狂いそうだった。

琳太郎はリハビリに励んだ。いつ終わるとも分からない日々の繰り返しに耐えた。葵のためにもなんとかして復帰したかった。なかなか症状が改善しないことに苛立ち、自分のいたらなさに苦悩し、それでもできることはなんでもやった。やり切りたかった。

「そんなに思い詰めないで」

葵はマンションのリビングで、ソファに座る琳太郎の肩に両手を絡ませた。琳太郎は右手で葵の手を掴んだ。

「ありがとう、本当に」

琳太郎は心から言った。

「焦ってもいいことない。ゆっくりじっくり、進もう。ね」

葵は笑顔を輝かせ、自分の頬を琳太郎の頬にこすりつけた。琳太郎も力強く頷き、笑い返した。


あるときから、葵の付き添いが減った。仕事のレッスンのコマを以前と同じに戻したのだろうと琳太郎は思い、病院へは一人で通った。

数ヶ月経ったある日、琳太郎はいつものようにリハビリへ向かった。

「機器が故障してしまいまして」

病院のスタッフが詫びた。琳太郎は普段より早く帰宅した。

「ただいま」

玄関を開けると、足元には葵の靴のほか、見慣れない靴があった。琳太郎は顔色を変えて、廊下をずんずん歩いた。リビングのドアの前まで来ると、中から声が漏れ聞こえた。

「何時までいいの」

知らない男の声が聞こえた。

「もうすぐ。私も寂しいよ」

葵が切なげな声を出した。

「またリハビリか」

男が笑った。侮蔑を込めた響きがあった。

「うん。リハビリが終わるまでは、付き合ってあげようかなって。そしたら、別れる」

あっけらかんとした葵の声に、琳太郎は聞き間違えたのかと思った。

「よくやるよ、お前」

男がまた笑った。

「私が好きなのは、あなただけだよ」

今度は、甘えた声で葵が言った。

琳太郎はドアを開けず、まっすぐ玄関に戻った。靴を履き、玄関扉を開けると、マンションの出口に急いだ。外に出ると、青空が広がっていた。琳太郎は空を見上げた。その空の青はゆっくりとブルーグレーになり、やがて灰色に遷移した。空だけはなく、ビルも木々も、行き交う車や人までが灰色に染まった。琳太郎は呼吸をするのが苦しくなった。誰にも気づかれないまま、グレートーンの世界に閉じ込められた。


翌朝、琳太郎はマンションのリビングで、葵に告げた。

「別れよう」

葵はしばらく反応できずにいた。

「心変わりした」

琳太郎は目を合わせず、さらに言った。少し間を置いてから、葵が烈火のごとく怒った。これまで自分がどれだけ琳太郎に尽くしてきたか、どれだけ我慢してきたかを訴え、責め、叫び、怒りを爆発させた。あなたには我慢ならない、誰のことも愛せないくせにと、涙を浮かべて激昂した。

琳太郎はそれ以上は言わなかった。葵の唇の動きや身振り手振りだけが目に入り、言葉が何も耳に入ってこなかった。葵は琳太郎の襟元を掴み、激しく揺さぶった。琳太郎は葵の顔を見た。顔はどす黒く染まり、表情が見えなくなった。得体の知れない生き物がそこにいた。琳太郎は無音のなかで、無表情のままその場に佇み、奇妙な怪物を見ていた。一刻も早く怪物から離れ、一人になりたかった。


二人は婚約解消した。琳太郎が葵を捨てたことは、音楽仲間の間にすぐに広まった。葵の献身ぶりを知る者からは、非難が集中した。噂を聞きつけた桂木からもたしなめられた。琳太郎は取り繕うことなく、誰にでも同じように答えた。

「もう、葵のこと、なんとも思えなくなったんです」

琳太郎は都内のマンションを解約し、白錫市にある実家へと戻ると、そこから通院を再開した。数ヶ月に及ぶリハビリのおかげで、琳太郎は指を曲げられるようになった。物を掴むこともでき、ペンで文字を書いたり、箸を持つこともできるようになった。少しずつ少しずつ、ピアノも弾けるようになってきた。

朝も晩もピアノを弾きながら、琳太郎は以前の感覚を取り戻そうと必死になった。ときどき指や手のひらに疼痛や痺れがあったが、気づかないふりをした。誰が何と言おうと、絶対に再起してやるつもりだった。

「ピアノは控えた方がいいです」

手の痛みが辛くなって病院へ行くと、整形外科医が諭すように言った。

「俺はピアニストを続けられないんですか」

琳太郎が聞いても、医師は顔をそむけ、言葉を濁した。

琳太郎は歯を食いしばった。ピアノをやめるつもりはなかった。ピアノの練習と並行して、琳太郎は再びリハビリを受けた。多少の違和感は残ったものの、痺れたりヒリヒリする痛みは軽減した。琳太郎は再び、精力的にピアノの練習に取り組んだ。


「コンサートを開くよ」

琳太郎が両親に伝えると、二人は黙って承知した。

交通事故から約一年三ヶ月を経て、琳太郎は再起をはかった。コンサートの序盤は良かった。演奏は順調に進み、ホールに集まった観客達は琳太郎の復活を喜んだ。

中盤に差し掛かった頃、琳太郎は左の親指の付け根に違和感を覚えた。違和感は痺れに変わり、やがて痛みになった。琳太郎は額に汗をかきながら、どうにか乗り越えようとした。次第に左手の動きが鈍くなり、右手についてこられなくなった。不自然さを解消するため、テンポを徐々に落とした。観客のなかにはどよめきが起こった。琳太郎はそれでも、何としても弾ききろうとした。最後の一曲になった。すでに全身に汗をかき、顔色は真っ青だった。琳太郎は深呼吸して、改めてピアノに向かった。

左手の親指が鍵盤に触れた瞬間のことだった。目の前に火花が散り、逆巻くような痛みが貫いた。琳太郎はバーンと音を立て、鍵盤の上にうずくまった。

会場は静まり返った。二人のスタッフが駆け寄り、琳太郎を支えると、抱き抱えるように袖に退いた。

コンサートは失敗に終わった。翌日から、琳太郎は部屋に閉じこもるようになった。スマートフォンを放って、すべての人間からの干渉をシャットアウトした。両親は何度となく、部屋から出てくるよう声をかけた。琳太郎は目に見えて痩せ細っていった。食事を摂ることも寝ることもできず、ただ時間の流れに身を任せるしかなかった。


「うちで働けばいい」

数ヶ月が経った頃、父が言った。琳太郎は首を横に振った。ピアノから切り離された職業など、想像もつかなかった。両親に頼っている現状すら耐え難かったし、両親の会社でさらにスネをかじるのはご免被りたかった。

ある日、琳太郎がいつものように自室の窓辺に座り、ぼんやりと外を見ていると、一台の車が家の前に停まった。中からは母の弟である叔父が出てきて、呼び鈴を鳴らした。

「会社がこんなときに、琳太郎は引きこもってるだけか」

階下のリビングにいる叔父は独特な声をがなりたてた。叔父もまた、両親と同じ会社、鳥飼製紙の常務として働いていた。琳太郎は部屋のドアを開け、廊下に出ると、階段の最上段に腰掛け、耳を澄ました。

両親の会社は経営危機に陥っていた。年々、オフィスを中心に紙の消費量が落ち、顧客からの受注量が減り、売り上げは目に見えて減っていた。従業員のリストラも進めざるを得ず、両親は頭を抱えていた。

「義兄さんも姉さんも、今まで甘やかしすぎだったんだよ。もうあいつも子どもじゃない。さっさと諦めさせた方がいい。秀平と一緒にやってもらえばいいじゃないか」

叔父は兄のことを持ち出し、厳しく言った。

「私は、琳太郎を信じてるのよ」

母が言った。

「信じて、何になる? もう手は動かないんだろう。ピアニストなんて無理だし、それに…」

「それでも」父が遮った。「琳太郎の意思を尊重する」

琳太郎は立ち上がり、再び部屋に戻った。


数日後、琳太郎は両親とリビングのソファに座り、向き合った。ピアニストを諦めることを伝えると、両親は複雑な表情をしてみせた。

「なら、お前はこれからどうするんだ」

父は厳しく問いかけた。母は何も言わずに、息苦しそうな顔で琳太郎を見た。琳太郎は学生時代、ボランティアで子どもたちのスクールバンドを指導したことを思い出した。それからゆっくり、父の目を真っ直ぐに見て、口を開いた。

「音楽教師になります」

琳太郎は両親に頭を下げた。


琳太郎は通信制大学で学び直すことにした。中高生の音楽教諭に必要な教職課程を履修すると、埼玉県の教員採用試験を受けた。その年の中学校音楽教諭の倍率は四倍だったが、高い技術力と専門知識を備えた琳太郎は難なく合格した。さいたま市の枕木中へ赴任することが決まり、琳太郎は実家を出、一人暮らしを始めた。その後、今度はミド中へ転任した。


薄暗い寝室のなか、琳太郎は話し終えた。ぐったりして横向きになり、深呼吸をする。

「つまんなかったろ」

琳太郎がつぶやいた。

雛形は何も言えなかった。琳太郎の背中を撫で、自分も寝転ぶと、後ろから静かに抱きしめた。

「琳太郎先生」

雛形が琳太郎の背中に頬をつけ、声を発した。琳太郎は体勢を変えず、「何?」と返事した。

「もう一度、海斗に会ってもらえませんか」

雛形が聞いた。琳太郎は上体を起こし、雛形を見た。


帰宅すると、雛形は自室に向かった。パソコンを開き、ブラウザを立ち上げると、当時の事故についてさらに詳しく調べ始めた。複数の記事がヒットし、それぞれ読み進めた。

「え」

雛形は口を開け、目を疑った。

つづく

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