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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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もう我慢できない

「うあああああ」

第二音楽室では、伊久馬が音羽と一緒にキーボードに向かい、低く唸っていた。壁にかかった時計を見ると、ちょうど五時を回ったところだ。副校長が顔を出し、早く帰りなさいと一喝した。伊久馬と音羽、それに怜が返事すると、副校長は部屋を出て行った。

伊久馬は夏から塾を遅い時間にしてもらった。それでも外はもう暗いし、母親に心配されるだろう。キーボードを弾きながら、伊久馬はぼんやり考えごとをした。


琳太郎にオルガンをやるよう命じられたあの日、悔しくて銀之丞につっかかった。

「銀さん、ずるくないですか」

伊久馬が銀之丞の学ランの裾を引っつかみ、口をとがらせた。

「いや、俺、普通に無理よー」

銀之丞は振り返って笑い、かわした。

「僕だってキーボードなんか無理ですよ」

伊久馬も言い返した。

「俺、パーカスのパートリーダーだしさー」

「僕だってパーカスメンバーじゃないですか」

「お前はまだ平社員だろー」

「もう我慢できない。銀さん、面倒臭いとすぐ、それだ」

仲の良い二人はお互い遠慮がなく、キーボードを押しつけ合い、あーだこーだと言い合う。

「そんなに嫌なら、じゃんけんで決めればいいじゃん」

見かねた音羽がうざったそうに言うと、伊久馬はにやりとした。そうだ。潔くじゃんけんで決めてしまえばいいんだ。伊久馬はそれなりに自信があった。先日もクラスで幹生とのじゃんけんに勝ち、そうじ当番を押しつけたところだった。

「銀さん、三回勝負ですよ」

伊久馬が目をきらきらさせて拳をつくり、声を張り上げた。

「オッケー」

銀之丞はドラムスティックをくるくる回しながら、気楽に言った。他の部員達が何ごとかと、キーボードの周りにわらわら寄り集まってきた。

「うわ、バカ、伊久馬。銀とじゃんけんとか、無理ゲーだろ」

健治がつぶやいた。

「なんで?」

伊久馬と銀之丞の様子を見ながら、響が聞いた。

「見てなよ」

健治があくびをして言う。

伊久馬と銀之丞はキーボードを挟んで向かい合わせに立った。

「最初はグー!」

伊久馬と銀之丞が声を合わせ、拳を差し出した。皆は一斉に見守る。

「ジャンケン、ポイ!」

伊久馬はチョキを出した。銀之丞はグーを出した。

「ぐあああああ」

伊久馬が絶望のうめき声をあげ、頭を抱えた。銀之丞がぴょんぴょんジャンプをしながらガッツポーズをとった。皆が笑った。

「ほら見ろ」

健治がつぶやいた。

「まだまだ! 一回戦ですよ!」

伊久馬が叫んだ。銀之丞がへらへらしながら、琳太郎がやっていたヒップホップを真似して踊り、頷く。

「次、二回戦!」

伊久馬がふざけている銀之丞の後ろ姿を睨んだ。

「最初はグー! ジャンケン、ポイ!」

伊久馬はパーを出した。銀之丞はチョキを出した。

「ぐあああああ」

伊久馬は再びうめき声をあげ、床に膝をついた。銀之丞は再びガッツポーズを決めた。皆は歓声を上げた。

「俺が二回勝ったから、勝負あったなー」

銀之丞は皆の前で、中途半端なリンボーダンスを披露してみせた。今にも背後に倒れそうな銀之丞の切羽詰まった顔を見て、皆は爆笑した。

「だから言ったじゃん。銀にジャンケンで勝てるわけないんだよ。『銀之丞ジャンケン』って知らない?」

健治がメガネのフレームをいじって、響に聞いた。

「何それ」

響が困惑しながら聞いた。

「クラス全員が負けた、伝説のアレだろ」

直樹が会話に割り込み、苦笑いして言った。

「うん。銀が全然負けないから、銀以外のクラスのやつが、奴と順番に勝負してったんだよ。全部、銀が勝った」

呆れたように健治は説明する。

「嘘」

響が心底驚いた様子でぼやいた。

「伊久馬はオルガン決定だな」

健治は気の毒そうに笑った。


「じゃあサビのところやるね」

音羽が言うと、ぼうっとしていた伊久馬は我に帰った。時計の針を見た。五時十分になっていた。伊久馬は椅子から立ち上がり、音羽が一人で椅子に座り、鍵盤の上に両手を置いた。その瞬間、周りの空気が変わったのを、伊久馬は感じ取った。ピアノを弾くときとまた少し違う、神々しさがあった。音羽はお手本を弾き始める。オルガンの和音が第二音楽室に響き渡る。それはまさに、教会音楽にふさわしい音色だった。静謐で厳かで、穏やかで伸びやかで、純粋に美しかった。

「音羽先輩、やっぱり上手いですね」

伊久馬が見とれて、つぶやいた。音羽は黙って弾き続けた。怜もトロンボーンを吹くのをやめ、耳を傾けた。


錬三郎が第二音楽室に戻ってきた。ドアを開けると、部屋の奥では音羽と伊久馬がキーボードに並んで座り、オルガンの練習を繰り返している。窓の近くでは怜が一人でトロンボーンの音階練習をしていた。

「怜」

錬三郎が目も合わせず、声をかけた。

「ん」

怜がマウスピースから口を離し、錬三郎を見る。

「ダーツ、やりにいかねえ?」

錬三郎は顔を上げ、ニヒルに笑ってみせた。


「レンザ。お前のおごりなー」

怜が楽しそうに言った。最近、怜は錬三郎のことをレンザと呼ぶ。練、だと怜に音が似ていて紛らわしいためだ。

「いいよ」

錬三郎は軽く頷いた。二人は緑谷駅前のゲームセンターに着くと、自動ドアから店内に入った。さまざまなゲームマシンからけたたましい音が鳴り響くなか、錬三郎は店の隅へ向かう。ダーツマシンが数台並び、何人かの客がボードに向かってダーツを投げている。

怜はダーツを手に取ると、ブルと呼ばれるボード中央部分に向かって投げ始めた。ダーツがボードに突き刺さるたび、ボードから「ドキュン」と電子音が鳴った。

「コントロールの問題だよな」

怜は右腕を振り回しながら機嫌よく言い、ダーツを投げ続ける。

「さすが」

錬三郎は手のなかでダーツをもてあそびながら、目を細める。

「なあ、怜」

「ん」

怜はダーツを投げ続ける。ダン、ダン、とボードに当たった。ボードからは繰り返しドキュン、ドキュンと効果音が鳴り続ける。錬三郎は怜の背後にある椅子に座り、猫背気味に両腕をももの上に乗せ、深く息をついた。

「もう我慢できなくてさ」

「おう」

怜はまた投げた。ダン、ドキュンと鳴り響く。

「好きな女にキスした」

錬三郎はつぶやいた。怜は一投した後、錬三郎を振り返った。

「おー。それで?」

怜は低い声で唸り、好奇に満ちた目で問いかけた。二人は交代し、錬三郎が投げる番になった。

「泣いて、逃げられた」

錬三郎が投げた。ダーツはボードの左端に当たり、弾かれて落下した。

「なんだそれ。ダッセエな」

怜は肩をゆすって笑った。

「本当、ダッセエよ」

錬三郎は暗い声で言い、また投げた。今度は右上の方に当たり、落下した。

「おい、ちゃんと真ん中狙えよ」

怜が錬三郎からダーツを一つ受け取り、投げてみせた。20点のところに当たった。ボードは明るく光りだした。

「俺じゃダメなのかな」

錬三郎は呟き、再びダーツを投げ始めた。怜は椅子に座って足を組み、錬三郎の後ろ姿を見る。

「レンザでもフラれることあるんだ」

怜は笑った。錬三郎は黙り込んで、投げ続ける。

「それで、どんな女?」

怜が面白そうに尋ねた。錬三郎は投げようとした手をとめた。手の中のダーツを見つめる。メガネを外したときの、雛形の顔を思い出した。思い詰めた顔をして、泣いていた。綺麗な泣き顔だった。ずっと離したくなかった。でも。

錬三郎は、ダーツが潰れるくらい握りしめた。

「控えめで、品がある人」

錬三郎は思い直して言うと、再び投げた。今度は10点のところに刺さり、ボードが光った。怜は、今しがた錬三郎の言ったセリフに聞き覚えがあった。どこで聞いたのだろう。怜は腕を組んで考え込んだ。頭の中に第二音楽室の情景が浮かんだ。そう、確か、後藤を囲んで話していたときのことだ。自分が怜に話を振って…。

「おい。それってもしかして」

怜が突然、上半身を乗り出して言った。錬三郎は投げた。真ん中のブルに命中した。


車の中で、琳太郎も雛形も沈黙していた。雛形は正面を見たり、助手席側の窓を見たり、落ち着きなく頭を動かしていた。車は緑谷駅の方に向かっていく。琳太郎の家がある方角だ。

雛形の右手には、スマートフォンが握られていた。何度も何度も着信があったが、見ているだけで出なかった。スマートフォンは再びバイブした。メッセージが待受画面に映った。

『電話に出ろよ』

雛形は黙って読んだ。すぐに次のメッセージが表示された。

『どこにいる?』

スマートフォンはバイブを繰り返す。

『校門の前にいる』

『まだ部活?』

『連絡まってる』

次々に現れるメッセージを前に、雛形はスマートフォンを左手に持ち替えた。それから、左の太ももの影に隠した。運転席に座る琳太郎に見られたくなかった。琳太郎はその様子を一瞥すると、運転を続けた。スマートフォンは再びバイブした。

『ごめん』

雛形はメッセージを見た。

『あんなこと言って悪かった』

メッセージは続けて飛んでくる。

『あいつの顔見たらすっげえムカついて』

『もう我慢できなかった』

雛形は返信することなく、待ち受け画面で次々に入れ替わる短文メッセージを、目で追いかけた。

『俺が悪い』

『頼むから電話に出て』

『あいつと一緒なのか』

雛形はスマートフォンから目を離し、顔を上げた。車が停まった。琳太郎のアパートの駐車場だった。


琳太郎はエンジンを切ると、シートベルトを外した。運転席のドアを開けると、外に出た。雛形は身を固くした。助手席側のドアが開き、琳太郎が雛形の顔を覗き込んだ。雛形は顔をそむけた。琳太郎は黙ってシートベルトを外すと、雛形の腕を引いた。雛形は車から降り、琳太郎に手を引かれ、アパートのドアの中に押し込められた。

琳太郎は玄関で靴を脱ぎ、手早く雛形のブーツを脱がせた。琳太郎は雛形の右腕を掴んだ。雛形は左手でスマートフォンの画面を見た。

『帰ってこいよ』

二人はキッチンとリビングを横切り、寝室に入った。琳太郎は雛形の両肩を掴み、ベッドの上に押し倒した。

寝室のブラインドの隙間から、外の明かりが差し込んだ。薄暗い部屋のなか、雛形は仰向けにされたまま、手に握っていたスマートフォンを握りしめた。震えながら琳太郎の顔を見上げた。琳太郎はベッドの上で膝をついている。ちょうど雛形の腰の辺りを膝で挟んでいる格好だ。暗がりの中で長いまつ毛をしばたき、二つの瞳がこちらを見下ろしているのが、雛形には見えた。琳太郎はジャケットを脱いで放り投げると、四つん這いになって見下ろした。雛形は真上にある琳太郎の顔を見上げ、目を見開き、口をOの字に開けたまま、肩で息をした。雛形の手のなかで、スマートフォンが再びバイブした。

『桃子のこと愛してる』

雛形はスマートフォンの画面を見た。琳太郎も見た。琳太郎はスマートフォンをひったくり、床の上に放り投げた。スマートフォンは音を立てて跳ね上がり、転がった。雛形のメガネを外すと、両手首を強く押さえつけた。雛形は体をのけぞらせ、顔をそむけた。琳太郎の温かい体温が、手首や膝、ふくらはぎを通してじわじわ伝わってくる。雛形は震えながら、もう一度、琳太郎の顔を見上げた。焦茶色の瞳の奥で、明るい白い炎がたぎっていた。

「先生。待って」

雛形がつぶやいた。琳太郎は瞬きをせず、雛形の瞳を捕らえた。雛形は唾を飲んだ。琳太郎は口角をあげ、わずかに微笑んだ。

「もう我慢できない」

琳太郎の声は低くかすれていた。直後、自分の唇で素早く雛形の唇を塞いだ。

つづく

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