雛形をめぐって
空気がすっかり冷え込んだ日曜日の朝、雛形と海斗は白錫駅前にあるカフェで会った。二人は店員に窓際の席に案内され、テーブルに向かい合って座った。
「桃子」
海斗は嬉しそうにして、雛形の右手を握った。雛形は目を逸らし、ため息をついた。
「どうしたの。元気ないね」
海斗が尋ねた。
「うん。ちょっと部活で、疲れちゃって。今日も午後から練習なんだけど。今日はどうやって来たの」
雛形は左手で右の二の腕をさすりながら聞いた。
「新幹線。部活って吹奏楽だっけ。何時から?」
「一時から」
雛形が答えると店員が近づいてきた。二人はコーヒーをオーダーした。
「あんまり大変なら、辞めてもいいんじゃない」
海斗が頬杖をつきながら言った。メガネの奥から優しい目を向け、雛形に笑いかける。
雛形と別れてから、海斗は司法試験に合格した。その後、司法修習を受け、都内の大手弁護士事務所へ就職した。上司の仕事を手伝って調べ物をする事が多く、普段の海斗は多忙を極めた。深夜に回ることは日常茶飯事だった。なんとか週末に時間をつくっては、こうして雛形に会いに来ていた。
雛形は海斗を見る。背丈は百七十センチメートルを超えたくらいで、やや撫で肩だ。縁無しメガネの奥にある目は一重で細く、鼻はやや丸く、薄い唇をしている。硬く黒い髪は刈り上げたショートスタイルで、清潔感があった。風貌は以前とそこまで変わらないが、身につけているオメガの腕時計やバレンティノのスニーカーを見て、雛形は時の流れを感じていた。
「うん、確かに、辞めても問題はないんだよね」
雛形は店内を何気なく見回して、曖昧に頷く。
「もう一人、先生がいるって言ってたよな。音大出の」
「うん」
「しかも、生徒が十六人だっけ。そんなところに二人も先生、いらないでしょ」
海斗が額にシワを寄せ、笑って言った。コーヒーが運ばれてきたので、海斗は早速カップを手に取った。
「うん。本当にそうだと思う」
雛形は窓ガラスの外を見た。白く明るい光が煌めき、山吹色に染まったイチョウの葉が風にたなびいていた。
「俺、もっと桃子に楽しくやっててほしいよ」
海斗は目を細めて雛形を見つめる。雛形はコーヒーカップに口をつけた。
「ありがとう、でもね」雛形は一呼吸おいた。「私、部活が好きなんだ。子ども達、可愛いし。みんなとっても努力家でね。私も頑張んなきゃーって、なってる」
雛形が明るく微笑むと、海斗は静かな目で雛形を見つめた。
「そうか。やっぱり桃子には、教師が向いてるんだね」
「うん。全然、指揮とかできなくって、毎日練習してるの。琳太郎先生に教わってるけど、まだまだ全然だめ。琳太郎先生はすごいの。なんでもできるし、生徒にも慕われてるし。私もあんなふうになれたらいいのになー。本人、モデルみたいにかっこよくて。すっごい人気者だしね。でも、私なんか楽器とか、何にもできないし。役立たずなんだ」
雛形が一気に喋り出した。海斗は少し面食らって頷く。
「琳太郎先生は私にも厳しいこと言うけど、生徒の手前、言わなきゃいけないこともあるんだろうなって、思ってる。ああいう役回りも辛いよね。私だけ特別扱いしてもらうわけにもいかないし。後になって、フォローしに来てくれるの。私が凹まないよう、気を遣ってくれてるみたい」
雛形は、恋人山でのことを思い出しながら微笑んだ。海斗は黙りこくって、微動だにしない。
「あ、なんかごめんね。海斗の仕事の方は、どうなの。弁護士って、きっと大変だよね」
雛形は慌てて話を振った。
「あー、ははははは。こっちも大変だよ。人間不信になることばっかり」
海斗が思い出したように、急に高い声を出して笑ってみせた。
「そうなんだ」
雛形が相槌を打つ。
「うん。新築マンションの住民が、施工に不備が見つかったって集団訴訟を起こしてさ。販売会社側は不備なんかない、そんな証拠はないって、ずっと争ってる。ありがちな話だろ」
「へえ」
雛形はまたコーヒーカップに口をつけた。
「俺ら弁護側は依頼人を徹底的に守る。もちろん、依頼人は販売会社の方。そもそもそんなの不備じゃないって、繰り返し言ってる」
海斗は面倒臭そうに歯をイーッとしてみせた。
「ねえ、でも本当に不備があったらどうするの」
雛形が少し不安げに尋ねた。
「実際、不備はあるんだと思うよ」
海斗はこともなげに言った。雛形は驚いて海斗を見つめる。
「白か黒か、そんなの大事なことじゃない。黒をどう白塗りするか、ってことなんだよ」
海斗はにんまり笑ってみせた。
「ねえ、でもそれ、マンション買っちゃった人はどうするの」
雛形は引きつった笑いで同調しつつ、尋ねてみた。
「んー。まあ、不運だったよね」
「それだけ?」
「それだけ」海斗は頷いてコーヒーを一口すすり、スマートフォンの画面を見せた。「今度、旅行に行こうよ」
画面には伊豆の温泉旅館のウェブサイトが表示されていた。雛形は黙り込んだ。何をどう言えばいいのか迷った。海斗はスマートフォンを手元に戻し、「桃子は魚、好きだったよね」とか「ここ、結構評判いいよ」などぶつぶつ言い出した。画面に向かっている海斗をじっと見つめ、雛形は深呼吸した。
「あの、ごめん」
雛形は切り出した。
「何?」
海斗が聞いた。
「部活の時間、間違っちゃった。もう行かなきゃ」
席を立って、雛形は店の外へ走り出た。
「桃子ー」
海斗が追いかけてきて、雛形の手を取った。
「今日、来てくれたのに本当にごめんね」
雛形は手を合わせて謝った。
「送ってくよ」
海斗は手をあげて、タクシーを呼び止めた。雛形は黙ってタクシーに乗せられた。
タクシーがミド中の校門前に着いた。校門が開いていたので、雛形は敷地内に入った。ちょうど琳太郎が車から降りてくるところだった。
「先生」
二人の声がハモッた。
「今日、可愛いですね」
琳太郎は気楽な調子で、雛形をまじまじと見た。今日の雛形は髪を無造作に下ろし、モノトーンの花柄のワンピースを着、ヒールの高い黒いブーツを履いている。もちろんメガネは外し、メイクもしていた。
「更衣室で着替えてきます」
雛形は琳太郎の方を見ようともせず、南校舎の方へ向かう。
「着替えなくていいのに」
琳太郎は残念そうにして、雛形の両肩を掴んで向かい合わせた。
「私は学校では、地味な雛形先生っていう設定なんで」
雛形は顔を逸らした。
「桃子」
雛形はとっさに振り返った。海斗がすぐそばで、無表情で立っている。琳太郎は雛形の肩から手を離し、海斗の方を見た。海斗も琳太郎をまっすぐ見据えた。
「こんにちは。伊野と申します」
海斗が琳太郎につかつかと歩み寄ると、丁寧に頭を下げた。
「鳥飼です」
琳太郎も頭を下げた。
「ああ、『琳太郎先生』ですよね。桃子と同じ部活の」
海斗が冷たい目で言った。
「はい」
琳太郎も同じくらい冷たい目を向けた。
「前に一度、お会いしましたよね。すごいなー。背も高いし、イケメンでビビる。それはそれは、生徒さんにも大人気でしょうね」
琳太郎を見上げた海斗は、薄ら笑いを浮かべて言った。琳太郎は何も言わずに海斗を見下ろす。
「俺達、付き合い長いんですよ」
海斗は急に雛形の肩を抱いた。
「ねえ、学校なんだよ。やめて」
雛形が怒って抵抗したが、海斗は無視した。
「いずれ結婚も考えてるんです。式には、先生も来てくださいね」
海斗が雛形の頬に自分の頬をくっつけると、刃物のような目で琳太郎を突き刺した。雛形は地面を見つめる。琳太郎の顔から表情が消えた。海斗は口角を上げ、力強く頷いた。
「あのね。部活の顧問の仕事なんですけど、桃子にすごい負担がかかっちゃってるんですよ。こいつ、昔っから何でも溜め込んじゃうタイプなんですよね。まあ、そういうところが可愛げあるんですけど」
海斗は雛形の胸を撫でた。雛形は手を振り払う。
「部活のことはもう少しだけ、手加減してもらいたいんですよね」
海斗が一層、雛形を強く抱き寄せ、笑ってみせた。雛形は嫌そうに首を横に振った。
「また、貧血で倒れられたら困りますし」
急に海斗の目がすわった。目には強烈な憎しみが宿っている。
「ああ、はい。すいません」
琳太郎は白い目で見ながら、そっけなく言った。
「私、仕事が負担だなんて思ってない」
雛形は海斗を見ながら、語気を強めて言った。
「桃子。部活が終わったら連絡しろ。待ってるから」
海斗は強引に雛形の手を引き寄せ、自分の額を雛形の額にくっつけると、低い声で囁いた。
「関係者以外、立ち入り禁止です」
琳太郎が空に向かって、大きな声ではっきり言った。海斗と雛形は額を離し、琳太郎を見つめる。
「勝手に校内に入ってこないでください。警備員、呼ばなくちゃいけないんで」
琳太郎は鋭い眼差しを海斗に向けた。海斗も睨み返した。雛形は琳太郎を見つめた。琳太郎は雛形にほんの一瞬だけ、寂しそうな目を向けた。
「気をつけます」
海斗は手をこめかみにかざすと、校門を出て行った。
雛形は更衣室で着替えると、トイレの洗面台でメイクを落とした。コンタクトを外してメガネをかけ、鍵束を抱えると、第二音楽室へ向かった。琳太郎は職員室へ向かったらしく、部屋にはまだ誰も来ていない。雛形は棚からメトロノームを取り出し、机の上に置いた。指揮台に置いてあったタクトを手に取り、メトロノームを動かすと、練習を始めた。
メトロノームはタン、タン、タン、タンとリズムを刻んだ。雛形もそれに合わせて腕を動かした。無意識に、頭の中に先ほどのやり取りが駆けめぐった。海斗と琳太郎が火花を散らす様子に、雛形は動揺して手が震えた。メトロノームはそれに構わず、規則的にリズムを刻んでいく。雛形は宙を見ていた。海斗は強引だったし、結婚するとまで言い出した。誰がそんなことを決めたのか。海斗はいつからあんなふうになってしまったのか。琳太郎はどう思っただろう。私達が完全にヨリを戻したと思っているのだろうか。次第に腕の動きは、メトロノームの振り子に合わなくなっていった。
「全然、合ってない」
声のする方へ振り返ると、錬三郎がドアの前で立っていた。雛形の方を見て、楽しそうに笑っている。
「ああ、鳳君。早いんだね」
雛形は我に帰り、挙動不審気味に答えた。
「先生も」
錬三郎は爽やかに堂々と笑ってみせ、雛形に近づいた。
「ちゃんとメトロノーム、見なきゃ」
「うん。そうだね」
雛形は何度も首を縦に振り、練習を再開した。
その頃、琳太郎は職員室でノートパソコンを開き、合唱大会本番の進行表を作っていた。いいところまで仕上がっていたのにバッテリーが切れ、突然画面が暗くなった。コンビニで買ってきたカフェラテにストローを差し、一思いに吸い上げた。それから、息を深く吐いた。
「あの野郎」
琳太郎は低い声でつぶやいた。
琳太郎が第二音楽室のドアを開けると、雛形が指揮の練習をしていた。隣に錬三郎が立ち、正面に音羽が座ってその様子をチェックしている。
「いいと思う。先生、できてる」
音羽が簡潔に言った。
「本当? ありがとう」
雛形が嬉しそうに微笑んだ。
「うん。なんか、ボンヤリしてるとすぐダメになっちゃうけど」
錬三郎がおかしそうに笑った。
琳太郎はその様子を見て、小さく笑った。
「おーし。今日もハンドベル、やりますか」
琳太郎が机を動かすと、三人も手伝い始めた。
部活の休憩時間になると、一部の部員達はハンドベルを持って、「チャルメラ」や「葬送行進曲」を演奏し始めた。誰が遅いとか早いとかゲラゲラ笑いながら、楽しそうに遊んでいる。結那が、錬三郎の前にやってきた。
「何」
錬三郎が意外そうに尋ねた。
「ちょっといいですか」
「うん」
錬三郎を廊下に連れ出すと、結那が切り出した。
「先輩。まりあのこと、許してもらえませんか」
結那が切羽詰まった声で言った。今日、まりあは部活に来ていなかった。錬三郎は神妙な顔をして、結那のことを見つめる。
「あれを書いてるとき、私も隣にいました。すみません」
結那が急いで頭を下げた。
「いや、俺に謝ってもしょうがないし」
錬三郎は少し突き放すように、かつ困ったように言い、廊下の窓の枠に寄りかかった。
「でも、このままだとまりあ、部活辞めちゃいそうです」
結那が食い下がった。唇がひくついているのが、錬三郎にも分かった。錬三郎は結那をさらにじっと見つめた。まりあといつもつるんでいるのは知っていたが、結那自身は大人しくて、協調性のあるタイプだ。公彦以外の二年生と話しているところは滅多に見かけないし、相当の勇気を出して自分に話しかけてきたのだろう。錬三郎は少し態度を和らげた。
「分かったよ。まずは雛形先生に謝らせよう」
「はい、分かりました」
結那はそう言うと、階段に向かってダッシュした。
部活が終わって、琳太郎と雛形は職員室に戻った。雛形は机の上にメトロノームとタクトを置き、椅子に座ると、バッグのなかからスマートフォンを取り出した。海斗からメッセージが何通か届いている。肘をついて足を組み、どう返信しようか悩んでいると、職員室に錬三郎がやってきた。
「先生達、ちょっと来てもらっていいですか」
雛形は顔を上げた。琳太郎も顔を上げた。
「おお」
琳太郎が返事した。雛形は琳太郎とともに、職員室を出た。
錬三郎は北校舎の三階に二人を連れていった。一年生の教室に入ると、まりあと結那が窓の近くに立っていた。
「あいつから、謝罪があるそうです」
錬三郎はまりあの方に顎をしゃくった。琳太郎も雛形もまりあを見た。まぶたが腫れ、震えている。雛形はゆっくり歩み寄った。まりあは雛形の足元を見て、口を開いた。
「雛形先生。すみませんでした」
まりあは蚊の鳴くような声で言った。隣に立つ結那が、まりあの手を握りしめた。琳太郎と錬三郎は少し離れたところに立ち、様子を伺っている。
「先生だって頑張ってるのに。あんなの書いて、ごめんなさい」
まりあは大粒の涙を床に落とし、さらに謝った。語尾は小さすぎて、ほとんど聞き取れない程だった。
「雛形先生、私も、あのとき一緒にいました。すみませんでした」
結那ははっきりした声で、一緒に頭を下げた。雛形は二人の少女を見下ろし、深呼吸をした。
「ううん。先生こそ、ごめんね」
穏やかな声で、雛形が言った。二人は顔を上げた。
「言ってもらえなきゃ分からなかった。目が覚めた」
雛形は明るく笑った。二人は黙って雛形を見つめる。
「でも、もうあれに書かないで。鳳君みたいにはっきりダメ出ししてほしい。そっちの方が嬉しい」
雛形が滑舌のいい声で言うと、まりあは首を縦に振った。
「じゃあ、この話はもうおしまいね。帰った、帰った」
雛形はまりあと結那の頭を優しく撫で、出口を指さした。二人はお互い支え合うようにして、教室を出ていった。
「一件落着」
琳太郎は軽く笑うと、廊下に出ていった。雛形もそれに続こうとすると、錬三郎が手を掴んだ。
何、と雛形が聞き返す間もなく、錬三郎が突然、雛形のメガネを奪い取った。雛形がびっくりして取り返そうとすると、間髪を入れず、錬三郎がキスをした。
二人がついてこないのを不思議に思った琳太郎は、廊下を引き返してきた。教室の戸口に立つと、琳太郎はその光景を凝視した。錬三郎が雛形を抱き寄せ、口づけをしている。雛形がどうにか振り解こうとしているが、錬三郎は雛形にぴったり体をくっつけ、離そうとしない。ピントの合わない目をした雛形は、こちらを見ている琳太郎の姿を捉えた。すぐさま錬三郎を突き飛ばし、自分は床の上に倒れ込んだ。錬三郎はよろけて、近くにあった机に腰をぶつけた。椅子が音を立て倒れた。雛形はふらふらと立ち上がり、錬三郎からメガネをひったくると、勢いよく教室を飛び出した。錬三郎は机に寄りかかったまま、琳太郎を見つめた。琳太郎も錬三郎を見つめ返した。
「なんだよ」
錬三郎は低い声で唸った。琳太郎は沈黙する。
「たかがキスだろ」
そっぽを向いて言うと、錬三郎は近くにあった椅子を蹴り飛ばした。琳太郎は踵を返すと、廊下を大股で歩き出した。
雛形は職員室に戻ると、荷物を手早くまとめた。早足で廊下を歩き、職員用玄関で急いでブーツに履き替えると、駐車場に急いだ。
あたりはすっかり暗くなっていた。駐車場のアスファルトを薄暗い照明が照らすなか、雛形は早足で歩いた。
「雛形先生」
琳太郎が駆けつけ、後ろから声をかけた。雛形は自分の車の前まで来て、立ち止まった。琳太郎が駐車場を横ぎり、大股で歩み寄った。雛形はゆっくり振り返った。両目から涙が溢れ、メガネに細かな水滴を散らしていた。
「先生…」
雛形が囁いた。琳太郎は唇を噛んだ。雛形は手にスマートフォンを握っている。画面には「海斗」の文字が表示され、バイブし続けていた。
「頭の中…」
雛形はスマートフォンを見下ろす。バイブは一旦途切れた。数秒して、再び鳴り出した。
「ぐちゃぐちゃです」
今度は琳太郎を見上げると、雛形は力なく笑った。琳太郎は何も言わずに雛形の手首を掴んだ。そのまま引っ張り、自分の車の方へ歩かせた。強引に助手席に乗せてドアを閉めると、自分は運転席に乗り、ドアを閉めた。
「先生…」
雛形が問いかけた。琳太郎は答えず、エンジンをかけた。
つづく




