恋人山
部員達が帰宅した後、琳太郎は第二音楽室を施錠すると、雛形を探した。北校舎はどの階も真っ暗で、しんと静まり返っている。南校舎内の方を探すと、明かりの灯っている進路指導室を見つけた。ドアの窓から琳太郎は手を振ったが、中にいる雛形は反応せず、タクトを振っている。
「雛形先生」
琳太郎がドアを開けて中に入った。雛形は直立したまま指揮の練習を続けている。
「大丈夫ですか」
「何かご用ですか」
雛形は琳太郎の方を見向きもせず、辛辣な口調で答えた。
「雛形先生のことが心配で」
琳太郎がにこにこしながら雛形の正面の席に座った。雛形は知らんぷりしてタクトを振り続ける。
「おーい。先生」
椅子を引きずってきて、琳太郎は雛形の正面に座った。雛形は反応しない。
「おーい。ももちゃーん」
琳太郎は頬杖ついて見上げ、繰り返し呼びかける。
「どうせ、下手です」
雛形はそっぽを向いてタクトを振る。
「やっぱり、さっきの怒ってます?」
琳太郎がほくそ笑みながら聞いた。雛形はタクトを下ろし、メトロノームを止めた。口をへの字に曲げて琳太郎を見下ろす。琳太郎は目を輝かせて見上げる。
「琳太郎先生。私、ストレス発散したいんですけど、付き合ってもらえます?」
「もちろん」
琳太郎は請け負った。
雛形のコンパクトカーは強烈なエンジン音をあげ、山道を駆け抜けていた。
「ギャー!!」
琳太郎は目を見張り、助手席で体育座りして叫ぶ。雛形は巧みにシフトチェンジしながら、うねる上り坂を右に左にハンドルを切る。コーナーに差し掛かり、勢いよくドリフトをきめた。車は左の前輪を軸にしながら、アスファルト上を後輪で弧を描いた。琳太郎は再び悲鳴を上げた。
展望台に到着すると雛形は車から降り、近くの自販機でコーラを買った。ペットボトルのキャップを開け、ゴクゴクと飲んだ。喉を刺激的な炭酸が滑り落ち、潤していった。
「あー、スッキリした」
雛形は爽快な笑顔を浮かべ、のびのびと言った。
「あら? 琳太郎先生?」
車から降りてくる様子のない琳太郎を気にかけて、雛形は助手席のドアを開けた。琳太郎が腰を抜かして、ほぼ失神していた。
「ちょっと、情けなくないですか」
雛形が腰に手を当て、澄ましながら言った。
「いや、すでにそういうレベルの話じゃないですよね」
琳太郎が半分白目をむきながら、濁声を発する。雛形はその声に笑った。車から離れると、展望台の手すりに向かって歩いていった。琳太郎は後ろ姿を恨めしそうに見た。ふと、微かな振動に気づいた。運転席を見ると、座面の上で雛形のスマートフォンがバイブしている。画面には「海斗」と表示されていた。琳太郎は無表情になり、着信拒否のボタンをタップし、電源を切った。それから中腰になって、車を降りてきた。
「やっぱ走るの最高」
雛形は愛車を眺めてにやける。
「先生って何者なんですか。走り屋?」
琳太郎は恐ろしげに聞いた。
「まさか。今どきそんなのはやらないでしょ」
雛形はのんびり言う。
「いつか死にますよ、絶対」
琳太郎は非難がましく言った。
「あはは。なんか、いい気味」
雛形が楽しげに声を立てて笑う。
「何ですかそれ」
琳太郎は顔を赤らめて怒った。
「いつもと立場が逆転してる。私がヘラヘラして、先生がムキになってる」
雛形が琳太郎の顔を指さして笑った。琳太郎はだんだん怒ってるのがバカバカしくなって、つられて笑った。
「ももちゃんのご機嫌が直って良かった」
「どうも」
雛形は、いつもの琳太郎の気取った口真似をしてほくそ笑んだ。
「私をー、こんなところに連れてきてー、どういうー、つもりですかあー」
琳太郎も不自然に高い、雛形の声真似をして、高速で瞬きをしてみせる。
「私、そんなバカっぽい声じゃないですよ」
雛形は膨れっ面になった。
「あ、怒った。可愛い。メガネつけてても、やっぱ可愛い」
「そういうこと言うと、すぐにまた助手席乗せますよ」
「やめて。本当にやめて」
琳太郎は戦慄した。雛形はくすくす笑った。
「ところで、恋人山ですね、ここ」
琳太郎は近くにある鐘を指さした。展望台の先には、門田市の小さな夜景が闇夜に浮かんでいる。
「ですよ」
雛形が懐かしそうに鐘を見上げた。ふと、海斗を思い出した。海斗からはあれから毎日、連絡がくる。正直、どうしたらいいか分からず、曖昧な態度で濁し続け、今日まできた。海斗のことを思うと、胸にずしりと鉛のようなものがつかえて、息苦しくなった。そばにいる琳太郎を見た。たった今飲んだコーラのように、爽やかなシュワシュワした泡が沸き立つような感覚が、全身を取り巻いた。今は、琳太郎とここに居たい。何もかも忘れて、はしゃぎたい。鐘を指さしておちゃめに笑う顔が、眩しかった。
「雛形先生のメッカじゃないですかー」
琳太郎が急にヒップホップのステップを刻み、陽気に踊り出した。雛形はびっくりして、流れるような身のこなしに目が釘付けになった。
「なんなのそれ。かっこいいし」
雛形はツボにハマって吹き出した。
「よーし、鳴らしちゃうぞー」
琳太郎は腰を揺らして鐘の前までステップを刻むと、今度は張り切って綱を引っ張った。カーンカーンと鐘は鳴った。
「桃子ー!」
琳太郎が叫んだ。
「なんだ、琳太郎ー!」
雛形もふざけて、鐘をつく琳太郎の周りを駆け回り、笑いながら答えた。
「愛してるぞー!」
琳太郎が叫んだ。
「オッケー!」
雛形は手を叩いて笑い、ぐるぐる回る。
「ずっとずっと、愛してるぞー!」
琳太郎は叫んで鳴らした。
「またそれかー!」
雛形はヤケクソ気味に叫び、今度はジャンプしてみせる。
「世界中で、お前だけだぞー!」
琳太郎はまだまだ叫んだ。
「ね、ちょっと、そろそろいいから」
雛形は両手を膝に当て、肩で息をした。熱気でメガネが曇り、ハンカチで拭いた。
「恥ずかしいよ」
雛形は琳太郎の背後に歩み寄り、半笑いしながら、ジャケットの裾をくんくんと引っ張ってみせる。
「絶対離さないぞー!」
琳太郎はやめない。
「ねえ。琳太郎先生…」
雛形は急激に元気がなくなって、笑うのをやめた。琳太郎の腰、背中、肩を順に見上げていく。柔らかそうなパーマのかかった髪が夜風で揺れている。
「桃子ー!」
琳太郎は勢いを緩めず、まだまだ叫ぶ。雛形はジャケットを掴んだまま、琳太郎が叫ぶのを黙って聞いた。胸がざわざわして、落ち着かなかった。
「お前が信じてくれるまで、待つぞー!」
琳太郎はまた鐘をつき、夜空に向かって叫んだ。
つづく




