本音
十月はよく晴れた日が続いた。深緑色だった木々の葉も日に日に黄味を帯び、秋の深まりを告げていた。
雛形は家庭科室に生徒達を集め、手芸を教えていた。
「みんなでマフラーを編んでみましょう」
雛形は教科書を開き、さまざまな毛糸や編み方を紹介した。
「響、どんなの編む?」
クラスメイトの女子が響に聞いた。
「うーん、まだ迷ってる」
響は教科書をめくりながら、どうするか考えあぐねていた。
「自分用にしてもいいし、家族や、大切な人に編んであげてもいいんですよ」
それぞれのテーブルを回りながら、雛形が朗らかに声がけした。
「先生、彼氏に渡すなら何色がいいと思います?」
一人の、背の高い女子が聞いた。他の生徒より雰囲気が大人っぽくて堂々としている。周りの女子達との会話から察するに、どうやら高校生の彼氏がいるらしい。分厚いメガネをかけ、体のサイズに合ってないスーツを着た雛形を、同じ女として明らかに見下している。周りの女子達は羨ましそうにキャーキャー騒ぐ。
「それは本人に聞いてみるのが一番いいんじゃない?」
雛形は落ち着いた声で、笑顔で答えた。
「先生だったら男の人に渡すの、どういうのにします?」
長身の女子は、よく発育した胸を張り、少しバカにしたような物言いで聞く。雛形は顎に手を当てて考える。
「そうねえ…。よく着てる服に合わせやすいのがいいと思うから…」
雛形の頭の中には、海斗ではなく琳太郎が現れた。顔の小さい琳太郎なら、フリンジ付きでもスヌードでも何でも似合いそうだ。本人の服はモノトーンや暗い寒色系が多いから、そのへんの色が…。
そこまで考えて、雛形は急に胸が締めつけられた。
「グレーとかインディゴの極太毛糸で、縄編みにするかなあ…」
雛形はなんとか言葉を絞り出した。
「へえ…」
雛形から具体的なアドバイスを受け、長身の女子は意外そうな顔をした。
「縄編みは少し難しいから、簡単なやり方のものにしてもいいと思うよ。こんなのとか」
雛形は教科書のほかのページを指さしながら、余裕を持って言ってみせた。
「わー! じゃあ、私、それにします」
長身の女子は俄然やる気を出して言った。周りの女子達もキャーキャー言いながら、どんなマフラーにするか一層、盛り上がっていた。
「鶴岡さんは、決まった?」
雛形が、一人で静かにしている響に優しく聞いた。
「はい」
響は椅子に座りながら、雛形のメガネの奥にある瞳を覗き込んだ。
「グレーとかインディゴ、私も似合うと思います」
そう言って、響はこっそり微笑んだ。雛形は一瞬表情を失ったが、すぐに取り繕ってみせた。
放課後になって、響が第二音楽室へ行くと、直樹が先に来て練習していた。
今日の直樹は第二音楽室で酒井格作曲の「ポロヌプ」の練習に取り組んでいた。ポロヌプとはアイヌ語で「大原野」を意味し、北海道の自然豊かで広大な大地を彷彿とさせる吹奏楽曲だ。
曲中にはピッコロのソロがある。フルート以上に失敗したら目立つので、気合を入れて練習した。鳴沢学園から借りているパンミッヒ製のピッコロは、優しく扱うほどに美しく、軽やかな音が朝露のように転がり出す。転がり出したときが、直樹はたまらなく好きだった。個人的には、クラリネットやバスクラとハーモニーをつくるとき、フルートよりもピッコロのほうが相性がいいと思っていた。木管楽器同士の可愛くて切ない感じが気に入っていた。
ピッコロもフルートも、旋律が多いとはいえ、吹奏楽全体の中では大した役割を担っていないのだと直樹は感じていた。自分はパーカッションや低音パート、ハーモニー楽器が積み上げた基礎の上に立つ、脆くて崩れやすい飾りだ。目立つけれども、目立つだけの存在だと思っていた。だからこそ、自分の一音一音で台無しにしてはいけないと、自分に課された役割を重く受け止めてもいた。曲練の合間に基礎練をして、フルートのように強弱をつけられない、何かと気難しさがあるピッコロを理解することに努めた。
ピッコロばかり吹きすぎて、口周りの筋肉の疲労が激しく、たびたび口をあんぐり開けて休ませるはめになった。そのたびに顎がパキッと鳴った。フルートやピッコロ奏者ならよくある、顎関節症というやつだ。
「ピッコロで可愛い音、出してるの見ると、直樹まで可愛く見える」
休憩中に響が面白そうに言った。直樹は響を見た。今日も響は可愛い顔をして話しかけてくる。前より笑う回数が明らかに増えて、どぎまぎしてしまう。俺はどうしていつも響の前で堂々とできないんだろう。先生みたいに、誰にでもかっこよく笑ってられたらいいのに。
「口開けるとパキパキ鳴るんだよ」
直樹はそっぽを向きつつ、顎をパキッと鳴らした。
「顎、外れるんじゃないの」
健治がびっくりして言った。
「別に痛いとか、そういうのはない」
「平気?」
響が顔を近づけた。
「平気だよ」
直樹はパキパキ鳴らしながら、響から逃れるように練習に戻った。
同じく「ポロヌプ」の練習をしていた公彦は、ソロ部分を慎重に吹いていた。参考音源を聴かせてもらったときに思ったことは、全体のバランスを崩さないよう音量を適度に抑え、トランペットらしく軟派な感じでサラッと吹ければいいのだろう、ということだった。トランペットはいついかなるときも前を向いて、誰よりもかっこよくなくてはならない。野暮ったい演奏ならするだけ無駄だ。なんと言ってもバンドの花形スターなのだから。そんな宿命を背負っている自分自身に勝手に酔いながら、公彦は練習を続けた。
「かっこいいです」
結那が公彦の吹きっぷりを素直に褒めた。
「鳩山さんも1st、ちょっと吹いてみたくなった?」
公彦が聞くと、結那は首を振った。
「いえ、いいです。2ndも楽しいんですよ」
公彦は結那の反応に頷いた。当然、1stの座を譲る気は毛頭ない。やり甲斐はあるにせよ、二年の自分がこれだけ練習がしんどいのだから、一年の結那には相当厳しいだろうとも思っていた。公彦は落ち着いて「ポロヌプ」の練習を繰り返した。結那は公彦に頼もしさを覚え、自分も練習を再開した。
ホルンの史門も「ポロヌプ」の練習をしていた。
「ここ、かっこいいよね」
楽譜を指さしながら、恵里菜が生き生きとしながら史門に話しかけた。
「うん」
「ここばっか練習したくなっちゃう」
「うん、僕も」
史門は言葉少なに答えた。いつもいつも「また裏打ちか」「地味すぎる」と思うことが多かったが、今回はかっこいい旋律があって美味しい。どうも、他の楽器の先輩達はホルンは死ぬまで裏打ちやってればいいと思っている節があるが、そうではない。今こそかっこいいホルンの出番だ。ベルに突っ込んで蒸れてきた右手に舌打ちしつつ、史門は静かな闘志を燃やしていた。
いつからか、史門にとって吹部はなくてはならない存在になっていた。健治の餌に釣られて入った吹奏楽部は、叔父がいてやりづらく、とても嫌だったが、蓋を開けてみれば楽器の練習はそう悪くもなく、楽しいものだった。皆でつくるハーモニーが好きになった。何よりも、妖精のように可愛い恵里菜がいたから続けられた。妖精は最初は冷たかったのに、徐々に態度が軟化していった。二人で培ってきた信頼関係は確かなものになりつつあった。史門が越えられないと思っているハードルでも、恵里菜がどうすれば一緒に越えられるのか、何が必要なのか、真剣に向き合い、とことん付き合ってくれた。恵里菜が本当にホルンを好きで、なんとか二人で盛り上げていきたいという気持ちが伝わってきた。体はとても華奢で、他の一年の女子との会話にも混ざろうとしないほど大人しいのに、意思だけは骨太だった。そんな恵里菜がかっこよく見えたし、羨ましかった。自分もそうなりたいと願って、史門はホルンを吹いた。
吹けば吹くほどホルンは史門に答えた。管が長くて音を外しやすいという、繊細な技術が必要な楽器ではあったが、自分自身もまた繊細で、耳のいい史門にはホルンの特性が合っていると本能的に理解できた。幸いにも週に一度きてくれる椎名はホルン専攻だったし、ホルンとは何かを、いつも吹きながら教えてくれた。史門は黙々と練習に取り組んだ。
定演でやる曲数が多く、琳太郎が想像する以上に練習は難航した。練習量を増やすため、ついには土曜日休みも返上することになった。さらに、副校長に相談して平日の活動時間を特別に伸ばしてもらった。日没時間が早い秋なら通常は午後4時半までだったが、7時まで許可を取り付けた。熱心な保護者達からはもちろん理解を得ることができ、家が遠い生徒の親には送迎に来てもらうよう伝えた。ほかの部活の教師達からも「定演頑張ってください」「見に行きますね」と温かい声がけをしてもらえるようになった。副校長自身もまた、時間のあるときに第二音楽室に様子を見に来ては、部員達を励ましたり、自分の腹を触らせて笑わせ、場を和ませてくれた。西関東大会まで出場し、町長からも評価されたことは大きかったと、琳太郎はつくづく思った。
それなりに部員達の演奏が形になってきたある日、琳太郎は後藤を学校に呼んだ。
「後藤さんにはサックスだけじゃなくって、二部でやる曲の合奏、みてもらうのがいいと思って」
定演は二部制で行う予定だ。一部はコンクール曲を含めたやや固めの曲、二部はジャズやポップスで構成している。
「了解」
後藤は快く引き受けた。
第二音楽室に部員達を集め、琳太郎に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のスコア譜を渡されると、後藤はそれをじっと見つめた。琳太郎が何とはなしにその様子を見ていると、後藤が小さく笑った。
「これ、要らなくね?」
「まあ、俺もそう思うんすけど」
琳太郎は耳たぶをしきりに引っ張りながら同調した。
「指揮者も要らねえと思う」
後藤がさらに言った。
「そうですね。当日は無しにします」
琳太郎は頷く。
「多少、走ってもいいんだよ。グルーヴ感出してった方がいいだろ?」
後藤は軟派な笑みを浮かべて、アルトサックスを手に取った。部員達が見ている前で、アドリブをしてみせた。
「かっこいー」
錬三郎とまりあが感激して拍手した。ほかの部員達もつられて拍手した。
「まずは、錬三郎。公彦君と怜君もやってみよっか」
後藤が言うと、三人は楽譜通りのソロを吹いてみせた。
「うーん、まあ、悪くないんだけどさ、」後藤は寛いだ様子で脚を開き、椅子に座った。「音にセクシーさが足りないんだよね」
「後藤さん、それ、中学生に言っちゃうんすか」
琳太郎が苦笑して言うと、皆も笑った。
「この中で、彼氏彼女がいる人ー」
後藤が全体を見回してふざけて聞いた。皆は互いににやにやするばかりで、誰も手を挙げないと思いきや、一年の大輝だけが手を挙げた。
「え。そうなの」
健治が誰よりも早く食らいついた。
「はい」
大輝は少し困ったように、でも少し自信に満ちた顔で笑ってみせた。
「えー誰、誰」
野次馬根性丸出しで銀之丞が聞いた。皆も一斉に大輝を見る。
「テニス部の女子です」
大輝が遠慮がちに言うと、二年の男子達はおおーと、低い声で唸った。
「二年は、誰も付き合ってる人がいませんでした」
直樹が悲しげに報告すると、琳太郎も後藤も笑った。
「誰か直樹君と付き合ってあげてよ」
後藤が女子達を見て言った。響は目を合わせようとしない。
「吹部の男子って、男子っぽくないし」
梅子が言うと、珍しく音羽がしきりに頷いている。男子達は一斉に梅子に向かってブーイングする。
「お前らはヤロー同士で楽しくやってるからいいんだよ。なっ」
琳太郎が直樹と健治の背中をばんばん叩いて慰めた。
「錬三郎には彼女はいないけど、女はたくさんいるんじゃねーの」
怜がにやにやして錬三郎に話を振った。成績優秀でスポーツ万能、何でもできる上に誰にでも親切な錬三郎は、怜以上に人気が高かった。
「いや、俺の憧れは雛形先生だから」
錬三郎が爽やかに笑いながら言うと、後藤はとっさに琳太郎を見た。響も琳太郎を見た。琳太郎は表情を変えずにいる。男子達はおおーと、バカ丸出しな顔と声で囃し立てる。
「なんで? どこがいいのか全然分かんないんですけど」
まりあが錬三郎に向かって、いけしゃあしゃあと言った。普段からまりあが、雛形のことをファッションセンスゼロだと言っているのは誰もが耳にしている。
「先生はまりあと違って控えめだし、品がある」
錬三郎がおどけて言うと、皆は爆笑した。後藤は意味ありげに琳太郎を見たが、琳太郎は曖昧に頷くだけだった。
雛形はあまり第二音楽室に顔を出さなかったが、裏で忙しく働いていた。定期演奏会のポスターを作り、保護者の協力を得て、夏の間から町内の目立つところに貼った。ミド中のウェブサイトでも告知ページをつくり、宣伝した。生徒の体を採寸して衣装を発注したり、撮影を頼むカメラマンを探したり、当日に用意する弁当を発注したりと、やることは山積みだった。
部員達を帰宅させ、琳太郎が第二音楽室から職員室へ戻ってくると、雛形がパソコンに向かって作業をしていた。パワーポイントを使って、定演当日に配るプログラムを作っているらしい。
「先生、後は俺がやりますよ」
琳太郎があくびをしながら言った。
「いいえ、私の仕事ですから」
雛形は少し笑って答えた。ふと、琳太郎と目が合った。琳太郎は自席に座り、こちらを見ている。長い下まつ毛には、あくび後の涙が張りついていた。
こみあげる思いを飲み込んで、雛形は顔面に作り笑顔を貼り付けた。
「琳太郎先生は早く帰って、休んでください」
それだけ言うと、雛形はパソコンの画面に目を戻した。琳太郎は何か言いたげにして、口をつぐんだ。
「ありがとうございます。お先です」
琳太郎は頭を下げて、職員室を出ていった。
つづく




