定演の練習
「今度こそ、まり、無理なんですけど」
テナーサックスを抱えたまりあが第二音楽室前の廊下で愚痴をこぼしていた。
定演で演奏することが決定した楽曲、松下倫士作曲の「月に寄せる哀歌」で、まりあはバリトンサックスを持ち替えで吹けと琳太郎に命じられていた。練習を始めてから日は経つのに、いよいよしんどくなってきたらしい。
「大丈夫だよ。コンクールじゃないし、どうにかなるよ」
アルトサックスのマウスピースから口を離すと、錬三郎がなだめた。
「だって、バリサクのソロ上手く出来ないです」
まりあはバリトンサックスの楽譜を錬三郎の前に突きつけた。
「じゃあ俺がやろうか。その代わり、お前がアルトやれよ」
錬三郎がにやりと笑って言うと、まりあは半泣きで首を横に振った。アルトサックスの楽譜にも、しっかりソロが存在している。
「もっと無理です」
錬三郎はまりあをあやすように、バリトンサックスのケースを開き、楽器を組み立てた。
「なんか、サックス、揉めてるね」
健治が二人を見て、他人事のように笑った。
「きついけどしょうがないよね。一年だろうが二年だろうが、うちらは人数少ない中でやるしかないんだから」
直樹がサックス二人組の方を見て、健治と響に言った。
「同じサックスなんだから音は出るでしょ。そんなに騒ぐことないじゃん」
健治は冷たく言った。
「どうするよ、お前だってE♭クラやれって言われたら」
直樹が健治のクラリネットを握って問いかけた。
「絶対無理」
健治は真顔で即答した。
「だろ?」
直樹が両手を腰に当てて言った。サックスの二人は廊下の水道の前にメトロノームと譜面台を置き、バリトンサックスをいじりながらああでもない、こうでもないとまだ騒いでいる。
「そういえば梅ちゃんも、またユーフォやらされるらしいよ」
健治が言った。
「梅ちゃんはもう半分、ユーフォ奏者だからいいんじゃない?」
直樹が笑って言う。梅子はトロンボーン大好き人間だが、同時にユーフォニアムのことも溺愛していた。あれだけ楽器に愛があるなら問題はないだろう。
「この曲って、一番大変なのってパーカスな気がする」
響が第二音楽室の方を見て言った。
「あー、鍵盤がやばそうだよね」
健治が頷きながら言った。曲中ではビブラフォンやらマリンバやら、鍵盤打楽器の見せ場が頻繁に登場する。
「うちのパーカス、全員上手いから大丈夫だよ」
直樹は冷静に言った。直樹は心から、パーカッション三人組は優秀だと思っていた。三年生が多い大編成の学校と比べても、決して引けを取らない。スパルタの琳太郎が鍛えたことは言うまでもないが、音羽が並外れてセンスがあるのは誰もが認めるところだったし、努力家の銀之丞と、飲み込みが早い伊久馬の存在もまた、大きかった。おかげでコンクールでは毎回、パーカッションは審査員達から高評価を得ていた。
第二音楽室の戸が開いているので、三人は中の様子を伺った。銀之丞は一人でスネアの練習を繰り返していた。琳太郎は伊久馬につき、ビブラフォンを繰り返し練習させている。琳太郎の物言いは穏やかだが、言っている内容は容赦がなかった。伊久馬は泣きながらマレットを構え、同じフレーズを何度も叩いていた。そばに立っていた音羽がときどき小さい声で、フォローしてやっている。
「先生が鬼すぎる。早くママんところに帰してやれよ」
健治が同情した。
「それでもあいつ、一年のわりに上手いよ」
直樹が、涙を手で拭っている伊久馬を見て呟いた。
「分かる。だから先生に無茶振りされちゃうんだよな」
健治がドアにしがみついて頷く。
「うちらもこんなことしてる暇なんかないよ」
怖い顔をした響が、健治についてこいと手で合図した。
「へーい」
健治は舌を突き出すと、クラリネットを持って、響に従った。直樹も続いた。「月に寄せる哀歌」は元々が木管八重奏の楽曲なので、サックスだけでなくクラリネットやフルートも皆、重要になってくる。全体にしっとりした曲調で、楽器同士のメロディーの掛け合いが続く。各楽器の力量が物をいい、絶対に誤魔化しが効かないのは誰もが理解していた。油を売っている暇はない。直樹は手に持つフルートを見やった。新しいマツムラフルートは今日もきらきらと輝いていた。この新兵器があればきっと大丈夫だろう。本番が楽しみだった。
階下の教室では、トロンボーンの梅子と怜が練習していた。怜が見ている楽譜はモーガン・ルイス作曲の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」だ。ジャズのスタンダードナンバーとして人気がある楽曲で、あちこちでビッグバンドが好んで演奏する。怜はすぐにこの曲を好きになった。ジャズドラムのゆったりした4ビードのリズムに乗って吹くのは開放感があった。大人っぽいクールな感じにも好感を持てた。ただ、こちらは他の曲以上にたっぷりソロ演奏の出番が用意されている。対象となるのはトランペットとアルトサックス、そしてトロンボーンだった。
「ソロは怜がやりなよ」
楽譜が配られたとき、梅子が軽い笑みを浮かべて怜に言った。
「え、いいよ俺は」
梅子を差し置いて、自分が演奏する気は毛頭なかった。
「私はユーフォでいっぱいソロやるから」
「いや、そうじゃねえよ。お前のほうが圧倒的に上手いだろ」
怜が怒ったように梅子を見て言った。
「そうでもないよ。もうすぐ怜に追い抜かれそうだよ」
梅子は控えめな声で、目をきらきらさせて言った。その目には信頼している仲間だけに送られる、独特な輝きがあった。嘘はなさそうだと、怜は思った。
「こんなにボーンがかっこいい曲なんだし」
梅子は尚も言った。怜は確かに、と頷く。トロンボーンの頼もしく渋い音が、皆を先導していくような曲だと怜は思った。
「もっと自信持ちなよ」
梅子は明るく言うと、怜に任せて自分は身を引いてしまった。
怜はそれから毎日、ソロ練習に取り組んだ。梅子のおかげで楽譜も読めるようになったし、そこまで難しいことはない。ただ、梅子ほど高音が綺麗に出ない。メトロノームを遅いテンポに合わせ、難しいところを繰り返し繰り返し練習した。
「梅子、ちょっとここ、頼む」
怜は、自分の担当するソロ部分を梅子に吹いてもらった。
「そこの音、どうやったら出しやすくなるんだ?」
怜はなんとかして本番までに梅子から技術を吸収しようと、辛抱強く踏ん張った。
部活が終わって楽器を片付け、皆が帰宅する頃、直樹は琳太郎にもらったノートを開いた。ノートの表紙にはサインペンで「ミドスイノート」とデカデカと書いてある。直樹が一人、第二音楽室に残って熱心に記録をつけていると、鍵を閉めにきた雛形が声をかけた。
「何、それ」
「琳太郎先生にもらったやつです。なんでも思ったことをみんなで書いとけって」
直樹が説明すると、雛形はページをめくり、愛おしそうにそれを見た。すでに何人かが書き込んだらしく、「定演の本番がすごく楽しみ」とか「十六分音符の連続は勘弁」とか、「ハンサム王子は今日もハンサムだった」などと書かれている。
「私も、書いていい?」
「はい」
雛形はシャーペンを直樹から受け取ると、几帳面な字で書き込んだ。
つづく




