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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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海斗

琳太郎と駐車場で別れた後、雛形は帰宅すると、自室に入った。明かりもつけず、ベッドに倒れ込んだ。


雛形と海斗が出会ったのは、二人が中学二年生のときだった。

門田市内の中学校に通っていた当時の雛形は、特に勉強ができるわけでもなければ、スポーツも得意なわけでもなく、どこにでもいる普通な女子中学生だった。目立ったことといえば遠視がひどく、いつも分厚いレンズのメガネをかけていた。

同じクラスに、いつもいじめられている男子がいた。猫背で痩せぎすで、読書が好きだった。成績はいつも学校で一番だった。彼の名前は、伊野海斗といった。見ていられなくなった雛形は、休み時間になると海斗を図書室に避難させた。そんなに本は好きではなかったが、そこにいれば海斗がいじめられずに済むので、少し我慢をした。海斗が勝手に雛形も読書好きだと思い込み、しきりに読んだ本の話をしてきたが、面倒臭いと感じていた。そんなに好きならと、雛形が本のしおりをあげると、海斗は感激していた。

雛形がいつも図書室へ連れ出すので、クラスの男子達は雛形のことをからかった。

「雛形、お前、伊野のことが好きなんだろ」

「不細工同士、お似合いだな」

男子達は丸めた紙クズや消しゴムのカスを投げつけて笑った。雛形は少ない勇気を振り絞って抵抗したが、友達はおろか、助けてくれる者は一人もいなかった。他の女子達はヒソヒソ話をしたり、せせら笑ったり、遠巻きに見ているだけだった。

海斗は雛形に助けてもらうばかりで、いじめっ子達に抵抗しなかった。それが雛形には許せなかった。

「伊野君もやり返しなよ」

雛形がなじった。

「僕は、暴力は嫌いだから」

海斗はいつも意気地がなかった。そのくせ、いじめっ子がいなくなると雛形の前で横柄な態度をとった。

雛形がだんだんと図書室へ行かなくなると、海斗は雛形を校庭の隅に呼び出した。

「何?」

雛形はいらいらして聞いた。

「僕は雛形さんのことが好きだ」

海斗は初めて勇気を出して告白した。雛形はしばらく何も言わなかった。やがて口を開いた。

「あんたのせいで私もいじめられた。男らしくない奴なんか、嫌い」

雛形は海斗と口をきかなくなった。

中学三年の、夏のことだった。門田市の夏祭りで、神社の本殿の影に連れ込まれた海斗が、男子達にいじめられていた。ズボンを脱がされ、パンツも脱げと強要され、笑われていた。海斗が泣いているのを見つけた雛形は、持っていた水ヨーヨーをリーダー格の男子の顔面にぶつけてやった。ヨーヨーは破裂して、びしょ濡れになった。

雛形はほかの男子達に取り押さえられた。リーダー格の男子は雛形にゆっくり近づき、メガネを奪い取ると、その場で踏み潰した。

「こいつ、メガネ取ると結構、可愛いじゃん」

リーダー格がにやにやして言った。

「本当だ。脱がしたら泣くんじゃねえの」

他の男子がそう言って、雛形の浴衣の襟元を掴み、強引に胸元を開いた。雛形は大泣きした。男子達は笑いながら雛形の髪を引っ張ったり、頬を張ったりした。

「やめろ」

這いつくばっていた海斗が、リーダー格の足首に噛みついた。

「こいつ」

男子達は海斗をボコボコに殴りつけ、蹴りつけた。海斗はそれでも噛みつくのをやめなかった。雛形は怯えて、その様子をただただ傍観するしかなかった。

やがて、海斗を殴るのに飽きた男子達は、その場からいなくなった。海斗はボロ雑巾のようになって、地面の上で伸びていた。

「伊野君」

雛形が泣きながら呼びかけた。

「伊野君」

今度は肩に触れ、もう一度呼びかけた。

「伊野君、大丈夫なの」

三度呼びかけてから、ようやく反応があった。

「雛形さん、ケガはなかった?」

アザと鼻血まみれになった海斗が上体を起こして、雛形に弱々しく笑いかけた。雛形は黙って頷いた。

「これからは、僕が雛形さんを守ってみせる」

海斗は、たんこぶで塞ぎかかった目に決意を宿して言った。

「僕と付き合ってください」

海斗はもう一度告白した。雛形は「いいよ」と、小さい声で答えた。


夏の間、雛形は海斗と市内の図書館で頻繁に過ごすようになった。相変わらず雛形は読書がそこまで好きではなかったが、海斗から話を聞くのは意外と面白いと思うようになった。海斗は学校で教わる五教科では飽き足らず、政治経済や歴史、地理、地学、化学、生物学、古典、宗教学、倫理学など、スポンジが水を吸い込むようにあらゆる知識を吸収していった。その後、必ず自分のフィルターを通して意見を言った。

「僕はいつか、困ってる人を助ける法律家になるよ。そしたら雛形さん、僕と結婚しよう」

純真無垢な海斗は笑顔で言った。何も夢がない雛形には眩しかった。とても大人びて見えた。

海斗が自転車で雛形の家までやってきた。荷台の上に座布団を紐で巻きつけ、そこに雛形を乗せると、自分はサドルにまたがって自転車をこいだ。市内の南方にある恋人山まで行き、頑張って坂道を上った。

「桃子ー! 愛してるぞー!」

海斗は展望台の鐘を何度も鳴らした。雛形も一緒になって鳴らした。二人一緒なら無敵だった。いつでもどこでも話は尽きなかった。笑顔も尽きなかった。


高校は別々のところへ進学した。雛形は市内にある県立門田女子高校に進学した。海斗は県内トップレベルの、県立和浦(わうら)高校に進学した。

海斗が本気で弁護士を志すようになり、休みの日も一人で勉強することが増えた。恋人山へ鐘を鳴らしに行く頻度も減った。雛形はそれでも海斗を応援した。周りの女友達が彼氏をつくり、放課後デートに出掛けていくのを羨ましく見ていたが、我慢した。華道部に入り、満たされない気持ちを紛らわした。メガネをやめてコンタクトレンズにすると、男子校の生徒に声をかけられることが増えた。見たこともない男子に突然告白されることもあった。海斗一筋だった桃子は、すべて断った。


「いつもごめん。僕に構わず、桃子がやりたいことを優先してくれていいよ」

ファーストフードで会ったとき、海斗が心から謝った。

「ありがとう。私のことは大丈夫だよ」

雛形は寂しさを押し込めて、笑顔で答えた。会えるときに会っておきたかった。

「桃子、最近すっごい可愛くなったよね。俺なんかじゃ、釣り合わないんじゃないかな…」

顔も体つきも女らしくなっていく雛形に、海斗は怖気づいた。海斗は自分に自信がなくて、どうしたらいいのか分からなくなった。二人で街を歩いていても、いろんな男達が雛形のことをジロジロ見てきた。いつか振られてしまうのではないかと、海斗は怖かった。

「どうしてそんなこと言うの」雛形は泣いた。「私は、海斗のことが好きなのに」

海斗は雛形の泣き顔を見て、その手を握りしめた。それから二人はいつもの恋人山ではなく、海斗の自宅へ向かった。家のなかは静まり返り、家族は留守だった。海斗の部屋に入って明かりを消すと、二人はそこで初めて結ばれた。


「桃子は将来、何になりたいの」

あるとき、恋人山の展望台でベンチに座っていると、海斗が聞いた。海斗は猫背が直って背がのび、以前よりずっと男らしい体格になってきた。海斗の爽やかな笑顔を見て、雛形は返答に窮した。

「とりあえず、大学で教職とって、家庭科の先生になろうかな。なれたら、だけど」

雛形はあいまいに答え、少し笑ってみせた。

「桃子にぴったりだよ」

海斗が穏やかな笑顔を浮かべた。雛形は海斗を見上げた。

「弁護士になったら、すぐに結婚しよう」

海斗が言うと、雛形が瞬きを繰り返し、こくんと頷いた。海斗は雛形をとっさに抱きしめると、長い長いキスをした。


猛勉強の甲斐があって、海斗は国内最高峰、帝国大学の法学部に現役で合格した。雛形はさいたま家政大学に合格した。十八歳になったこともあり、雛形は自動車の運転免許を取った。海斗は東京へ行くので取らなかった。

「桃子の運転はどうしてそんなに強烈なんだよ」

海斗は恐ろしそうにしながらも雛形の車に乗り、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「だってスリルがあって、楽しいじゃん」

運転席の雛形も笑った。

春になると、雛形は大学に通いながら自宅近くのカフェでアルバイトを始めた。海斗は大学近くのアパートで一人暮らしを始めた。大学が休みの日には、雛形が電車や車で海斗へ会いにいった。海斗はアルバイトをせず、勉強ばかりしていたので、雛形がデート代をすべて出すことにしていた。海斗が自由になるお金がほとんどなさそうだと見て、しょっちゅう食料を買い込んでいった。海斗の誕生日がくると、1ヶ月分のバイト代をはたいて、腕時計をプレゼントした。

「もらえないよ」

海斗が申し訳なさそうに言った。

「気にしなくていいよ」

片手を振りながら、雛形は笑顔で言った。腕時計をつけると、海斗も幸せそうに笑った。

勉強が忙しいだろうからと、雛形は自分からは会いに行かないと決めていた。海斗はいつも忙しそうにしていて、徐々に会う機会が減り、頻度は月に一、二回ほどになった。雛形は散々、バイト先で男達に声をかけられたが、寂しさに負けることはなかった。

大学四年生になると、雛形は在学中に埼玉県教員採用試験に合格した。翌年の春から白錫市の中学で家庭科教師として着任した。一方の海斗は法科大学院へ進学した。


着任一年目は大変だった。学校の業務に慣れず、雛形は授業づくりに難航した。どうやったら子どもが興味を持って取り組んでくれるか悩んだ。土日も自学に励んだり、セミナーを受講したりした。

珍しく、海斗から連絡があった。あまりに疲れていたので、会えないと雛形は断った。すると、海斗のほうから電車で会いにきた。雛形は乗り気ではないが、車を出して食事へ出かけた。

「今日は、俺が支払うからいいよ」

海斗は財布を出して言った。

「いいよ。私のほうは社会人なんだから」

雛形は少しいらいらして言い、支払いを譲らなかった。

ある夏の日、雛形が車で海斗を連れ出した。たまには日光浴した方がいいという、雛形の提案だった。久しぶりに恋人山に行って、雛形は鐘を鳴らした。なんか懐かしいね、あの頃を思い出すね、と雛形は笑った。海斗はぎこちなく笑うだけで、鐘を鳴らさなかった。

雛形と海斗が25歳になった。海斗は大学院在学中に、司法試験に落ちた。落胆する海斗を前に、一発で受かる方が珍しいんだからと雛形は励ました。海斗は物凄い剣幕で雛形に当たり散らした。

「お前に何が分かる」

げっそり痩せこけた顔をした海斗は、手に握り拳をつくり、全身を震わせた。怒鳴られたことなど一度もなかった雛形は、びっくりして海斗を見つめた。

「俺はお前と違う。田舎の中学で教員やってる桃子には分からない」

海斗は心身ともにまいっていた。雛形は心配だったが、そっとしておくことにした。二ヶ月ほど会えない日が続いた。

海斗からようやく連絡があったので、雛形は急いで海斗のアパートへ向かうことにした。海斗からは俺が会いに行くよと言われたが、雛形は断った。なるべく負担をかけたくなかった。いつものようにたくさんの食料を買い込み、玄関ドアを開けるや否や、そこには土色の顔をした海斗が立っていた。

「桃子。本当にごめん」

海斗は開口一番、囁くような声で言った。

「何でだろう、俺、お前のこと…」

海斗は小刻みに震えている。ただならぬ様子に、雛形は海斗の目を見られなかった。不規則に動く海斗の指先を見ながら、次の言葉を待った。

「全然、愛せなくなった」

海斗は悲痛な顔をして、涙を流した。

「顔も見たくない。二度と来ないでくれ」

海斗は握っていたしおりを差し出した。いつか雛形が海斗にあげたしおりだった。革製のそれはクタクタによれ、ボロボロに擦り切れていた。雛形は海斗が嗚咽するのを聞きながら、しおりを見つめていた。

恋が始まって10年。二人は別れた。

つづく

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