吹奏楽コンクール西関東大会
西関東大会当日は小雨が降っていた。出演の順番が早いこともあり、吹部はまだ暗いうちから学校へ集合した。楽器をトラックに積み込んで全員、バスに乗り込むと、今回も同行することになった副校長が点呼をとった。琳太郎は時計を見ながら到着時刻を逆算した。それから車内ルールとして、会場までは一切楽譜を見ないことと飲食は自由にしていいこと、喋ってもいいがうるさくはしないこと、眠い者は眠ってていいこと、サービスエリアでは必ずトイレ休憩をとることを生徒に伝えた。雛形は運転手にお願いして、車内テレビであまり刺激的ではない、穏やかそうな内容の映画を流してもらうことにした。
ナーバスになっていた健治は、今回は賑やかな最後列の席には座らず、真ん中くらいの席に座った。
「先生達が俺達のためにリラックスできる空間を作ってくれている。くれている」
健治がぶつぶつ言い出した。健治の今日のベーグルは抹茶味だ。
「だね」
隣席の直樹が頷いた。直樹のおにぎりには、今日は梅干しが入っている。
「本番、うまくいくかな」
健治は弱々しい声で言った。竹田が自身の過去を語ってくれたあの日から、健治は自他ともに認めるほどよく練習した。やみくもに練習するのではなく、一つ一つ、確かめるように吹きながら、トレーニングを重ねた。響も以前ほど健治の演奏に口出しすることはなくなった。バスクラの大輝ともよく音を合わせるよう意識できるようになり、以前よりフルートやサックス、その他金管楽器とも音の重ね方、ハーモニーに気を遣えるようになっていた。
「とちったらどうしよう」
「大丈夫だよ」
「今度こそ俺、死ぬかも」
「大丈夫だよ」
「死亡。絶対死亡」
「大丈夫だよ」
「神様」
「いるいる。神様いるよ」
直樹は健治の半泣きの顔を見て、繰り返し励ました。
「そうかな。今日、天秤座は運勢が最悪なんだって」
十月生まれの健治は、気を滅入らせて言った。
「うちら全員が天秤座じゃないだろ」
直樹が失笑した。
「確かにそうだけど」
健治は納得がいかない様子だ。
「あんなに練習したじゃん。お前、すごく良くなってるよ。絶対うまくいくよ」
自分にも言い聞かせるように、直樹は窓の外を見ながら言った。灰色の雲がうっすらと天を覆い、雨足は徐々に強まっていた。
吹奏楽コンクール西関東大会の会場は、山梨県甲府市にある県民芸術ホールだ。ミド中が出場した県大会の会場よりも少々規模が小さいものの築浅で、内装材には天然木をふんだんに取り入れている。音響効果が高く、鳴りのいいホールとして評価は高かった。
ミド中吹部は予定時刻より早めに駐車場に到着した。県大の時と違って悪天候のため、駐車場で楽器の音出しをすることもできず、バスの中でおとなしく待機していた。時間になると全員で建屋に入り、リハーサル室へ移動した。
リハーサルが済むと、アクシデントが発生した。直樹がフルートの主管から足部管が抜けかかっているのに気づき、一旦抜こうとした。すぐに抜けず、力を入れて引き抜いた。それからはめ直そうとしたら、今度ははまらなくなってしまった。琳太郎が見かねて引き受けたが、足部管はどうやっても入らなかった。
他の部員達を副校長に預け、琳太郎は直樹を連れてホワイエへ向かった。楽器トラブル対応のため、主催者側が待機させている楽器屋がいたが、他の学校でもトラブルがあったらしく、生徒達が列をつくって並んでいた。リペアマンはとても手が離せそうになかった。
「まいったな」
列に並びながら、焦った琳太郎がつぶやいた。どうしたものだろう。本番までの時間はまだ少しはあるが、刻々と時計の針は進んでいる。こんなときに安彦がいたらいいのに、緑谷町のあまや楽器が遠すぎる。腰に手を当てて深呼吸していると、雛形がすぐそばで放心している姿が目に入った。
「雛形先生?」
琳太郎が不思議に思って話しかけると、雛形は突然何かを思い立ち、猛スピードで駆けていった。
およそ五分後、雛形は再び猛スピードで二人のもとへ駆けてきた。
「琳太郎先生」
雛形が叫んだ。手に何かを持っている。列に並んでいる人間にじろじろ見られながら、琳太郎に手渡した。
「これを…」
息せき切って雛形は小さな紙袋を渡した。琳太郎が袋を開けると、中には色とりどりの小さなバースデーキャンドルが入っている。
「え?」
「フルートに…塗って…」
直樹は琳太郎の手からキャンドルを取り、主管と足部管の差し込み部分にロウを塗った。足部管はスルッと難なく入った。
「入った!」
直樹が叫んだ。
「急ごう」
琳太郎が言って、三人は部員達の元へ駆け戻った。
「間に合った」
琳太郎が言うと、雛形は汗だくになり、息も絶え絶えになって頷いた。出場者は主催者が決めたタイムテーブルに遅れたらアウトだ。直樹は雛形に何度も礼を言った。雛形はまともに声も出せず、片手を振りながらいい加減に首を縦に振った。
ステージ袖で待機するよう案内されると、毎度おなじみ、部員達の間に緊張が張り詰めた時間が訪れた。
「トイレもう一回行けないかな」
梅子は落ち着かない様子で膝をカクカク曲げて上下させた。
「ママが今日も観に来てる」
伊久馬が唇を震わせて言った。
「俺は生きる。俺は死ぬ。死ぬし生きる。生きるし死ぬ」
健治は完全にイッていた。
琳太郎がいつものように円陣を組ませようとすると、副校長が前へ進み出た。
「みんなが絶対に緊張しない秘策が、ここにある」
副校長は軽く咳払いしながら言うと、部員達が一斉に注目した。副校長は自分の下っ腹を叩いてみせた。何Lサイズなのか分からないワイシャツで包まれた巨大な腹からは、ドウンと鈍い音がした。
「今日は特別に、ご利益のあるこの腹を触っていいものとする」
副校長が威厳たっぷりに言った。部員達は爆笑して、会場スタッフに注意された。急いで声をヒソヒソ声にボリュームダウンし、皆で副校長を囲んで腹に手のひらを当てた。躊躇している一年生達にも、副校長は触れと指図した。琳太郎と雛形は面白そうに、遠巻きに見ることにした。
「あったかい」
響が少し感動したように言った。
「恵比寿様」
健治は両手で腹の肉を掴み、神頼みをした。
「ありがたい気持ちになってきた」
梅子もしみじみ言う。
「そうだろう」
副校長は仰々しく言った。
「なんか、グルグル鳴ってませんー?」
銀之丞が腹に耳を当てて聞いた。
「緊張して、朝から何も食えなかったのだ」
副校長が重厚な声で言うと、皆は再び爆笑した。スタッフには再び注意されてしまった。
そのあとは琳太郎がいつものドテカボチャの儀式を行うと、ちょうど前の団体の演奏が終わった。
「三番。埼玉県代表、緑谷町立緑谷中学校」
司会がアナウンスした。副校長と雛形が部員達の肩を一人一人タッチして「頑張れ」とエールを送った。部員達はぞろぞろとステージへ進み、楽器の搬入を行った。琳太郎は一旦ステージ袖に引っ込み、再びステージ中央へ向かった。琳太郎の横顔を見て、副校長が雛形に囁いた。
「今日は調子よさそうだな」
「はい」
雛形は緊張しながら、わずかに笑みを浮かべて見守った。
課題曲の出だしはよかった。いつもの練習通りに軽やかにスタートできた。直樹が異変に気づいたのは四小節ほど進んだところだった。「レ」の音が出ない。
気のせいかと思った。しかし、吹き進めるほどに疑いは確信に変わった。フルートは音域の広い楽器で三オクターブほどあるが、そのうち中音域、高音域の「レ」は確実に出せなくなっていた。
指揮を振る琳太郎が一瞬こちらを見た。直樹は冷や汗が流れ落ちるのを背中に感じた。他の音は出る。出ない音があろうとなかろうと、やり切らなければ。直樹は冷静さを取り戻そうと努めた。
ピッコロに持ち替えて、ソロ部分を吹いた。ピッコロには異常がなかったが、少しの動揺が音に出てしまった。琳太郎がまたこちらを見た。直樹は目を合わせられず、琳太郎のタクトだけを見た。
課題曲が終わり、自由曲が始まった。公彦は動揺することなくイントロの「プロムナード」を吹いた。軽やかで張りがあり、威風堂々とした吹きっぷりだった。今までで最高の出来栄えだった。木管楽器がメロディーを奏でる部分になった。直樹のフルートは、やはり「レ」を出せなかった。
直樹は絶望しながら、梅子の吹く「ビドロ」のソロを聞いた。ユーフォニアムは県大会のときよりも一層豊かで柔らかく、艶やかな音を響かせた。直樹は楽譜を見る。この後、自分が吹くところに「レ」の音は出番が多い。ここで皆の音に自分の高音がうまく重なるから、美しいハーモニーが生まれるというのに。生まれてくるはずだったのに。
クラリネットの二人は素晴らしい和音を作り出していた。健治は怯むことなく丁寧に演奏をしている。直樹は吐きそうだった。もう、琳太郎の顔は見られなかった。他の誰かの視線も感じたが、何にも構えなかった。直樹はただただ、演奏が終わるまで耐えた。何も考えられなかった。
演奏が終わり、客席からは拍手が上がった。部員達はステージを出て、袖を抜け、出演者用通路に出た。公彦はガッツポーズを決めた。健治も「いい感じだったよな」と繰り返す。梅子も「やったやった」と万歳していた。響が直樹に近づいてきた。
「ねえ、なんか…フルート、変じゃなかった?」
響は怪訝そうに聞いた。錬三郎や史門も直樹の方ををじっと見ている。
「…出なかった」
はしゃぐ皆の声のなかで、直樹はつぶやいた。
「何?」
響が心配そうに尋ねた。
「レの音が、出なかったんだ」
直樹はそう言うと、足早に立ち去った。
琳太郎は険しい表情で、その後ろ姿を見送った。
「鳥飼先生」
琳太郎の背後から声がした。振り向くと、鳴沢学園の顧問、鉛田がこちらを見ていた。
鉛田と琳太郎はホワイエの吹き抜け階段を上がり、二階の廊下を歩いた。比較的空いてる休憩場所があり、鉛田はそこの長椅子に座った。琳太郎も並んで座った。雨は午前中よりも強まり、窓の外から雷雲のゴロゴロという唸り声が聞こえてきた。鉛田は頭上のダウンライトを見ながら、ため息をついた。
「フルート。Dが出てませんでしたね」
鉛田が言った。ドイツ語のDは実音で言うところ「レ」だ。
「はい」
琳太郎は苦々しく答えた。
「メンテナンスも、指導者の仕事の一つですよ」
鉛田がちらりと琳太郎を見る。琳太郎は何もリアクションができない。鉛田は再びため息をつく。
「まあ、Dが出ていたところで、結果は変わらなかったでしょうけどね」
鉛田はそれだけ言うと、再び一階へ降りていった。
響は直樹を探して館内を駆け回った。西関東大会ともなると県大よりも客が多く、あまりの人混みでとても見つけられそうになかった。たまに、誰かの保護者に声をかけられたりしたが、すべて無視した。響は疲れて、ホワイエで一人分だけ空いているソファを見つけ、そこに座った。窓側を向いている背もたれのないソファで、周りは他校の生徒や保護者らしき大人達が賑やかにおしゃべりをしていた。ホワイエのガラス窓には多量の雨粒がつき、解像度の低い灰色の空と深緑色の樹木を映し出していた。そこへ、白と黒の人影がぼんやり映った。
響は玄関を出た。外を見回すと、白いワイシャツと黒い制服のズボンを履いた直樹が、雨に打たれながら植物園の方へ歩いていくのが見えた。
「白鳥君」
雨のなかを響は走って追いかけた。直樹は返事しなかった。足取りは重く、猫背になって、のっそりしていた。響が追いついて肩に手を置くと、直樹は歩くのをやめた。
「白鳥君」
響はもう一回言った。直樹は背を向けたまま何も言わなかった。
「ねえ、戻ろう。風邪ひいちゃうよ」
響は息を切らして言った。直樹はそれでも黙り込んでいた。
「みんな心配するよ。ねえ」
響は繰り返した。直樹の肩が小刻みに震えているのが、指を通して伝わってきた。雨は、一層強くなってきた。
「…したんだ」
直樹が小さな声で喋り出す。
「何?」
響も小さな声で聞き返した。
「俺は全国に行くって、みんなと約束したんだ」
直樹はようやく声らしい声を出した。響は直樹の肩に手を置いたままでいる。直樹は肩で息をしていた。
「公彦も、梅ちゃんも、健治だって…。みんな頑張ってたのに。俺が…。俺だけ…」
雨粒は次第に大きくなり、より大きな音を立てながら、二人の体を激しく打ちつけた。直樹は振り返って響を見た。響は肩から手を引っ込めると、直樹を見た。
「俺は部長なのに。俺がみんなを引っ張っていくって決めたのに」
直樹の声はうわずった。響は無言で何度か頷いた。直樹から目をそらさなかった。
「全国行くって決めたのに」
声の音量を徐々に上げながら、直樹は歯を食いしばった。響はまた頷いて、直樹を見つめ続ける。
「先生を全国に連れていくって、誓ったのに」
直樹は天を仰いだ。
「悪いのは、俺だ」
直樹は激しくしゃくりあげると、その場にくずおれた。バシャンと小さな音が響いた。
「俺が、全部ぶち壊したんだ」
アスファルトを両拳で叩くと、直樹は慟哭した。響は直樹を見下ろして、その場に立ち尽くした。雨は土砂降りに変わり、落雷の音が鳴り響いた。
「直樹」
響が初めて、下の名前で呼んだ。直樹は顔を上げない。
「壊してなんかない」
響がはっきりした声で言った。
「直樹は一つも悪くなんかない」
響の目に溢れた涙は、雨が洗い流していく。
「悪いはずが、あるもんか」
響は直樹の隣にしゃがみ込むと、背中を抱きしめた。
つづく




