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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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竹田とバスクラリネット

翌日、第二音楽室に行くと、琳太郎が一人でピアノを弾いていた。昨日、直樹達が演奏した「スペイン」だ。

「よお。スーパースター」

琳太郎がピアノの手を止めて、朗らかに挨拶した。

「おはようございます。先生、それやめないで」

直樹はすぐに食らいつき、琳太郎に続きを弾いてくれるようせがんだ。琳太郎は優しく微笑むと、続きを弾き始めた。キャッチーなテーマを左手と右手でユニゾンしながら、琳太郎は左足でも激しくリズムを刻み、床を蹴った。アドリブも2コーラスやってくれた。音羽のピアノよりも音づかいがダイナミックで力強く、違う個性が光っていた。

「かっこいい」

演奏が終わると直樹が力一杯拍手した。

「お前もな」

琳太郎が直樹の頭を軽く叩いた。直樹は子犬のように人懐っこい目を琳太郎に向けた。琳太郎が顔を上げると、戸口に公彦と健治が立っていた。

「少し、話そうか」

琳太郎はそう言って、公彦を別室に連れて行った。

「公彦が俺んち泊まったって嘘ついたんだって?」

健治が聞いた。

「そうらしいよ。大変だったよ。みんなで探し回ってさ」

「へー」

健治はクラリネットを組み立てながら頷く。

「でも、あいつ約束してくれたんだよ。もう逃げないって」

直樹もフルートを組み立てながらが言った。昨夜の公彦の泣き顔が忘れられない。公彦の瞳には確かな決意が宿っていた。きっとこれから公彦は戦い続けてくれる。そう信じられる目をしていた。

「公彦、本当に勘弁してほしいよな。しっかりしろよ」

健治は困ったように鼻で笑った。

「そういう言い方すんなよ」

直樹は不機嫌そうにたしなめた。

「さて、お前達は今日も(ふんどし)を締め直してきたかな」

第二音楽室に大股で入ってきたのは竹田だった。どうやら機嫌が悪いらしく、いつもよりも足音が大きい。

「おはようございます」

直樹と健治が頭を下げて挨拶した。

「琳太郎からオーダーがあった。弱奏にもっと力を入れろって?」

「はい」

「お前ら、血反吐(ちへど)吐く覚悟でいけよ」

「はい」

直樹は毅然とした態度で返事したが、健治は縮み上がった。危うく漏らしそうだった。

「竹田先生、最近じゃ、あんまり口悪いとパワハラになっちゃいますよ。ああ、みなさんおはようございます」

椎名がにこやかに後から入ってきた。部員達も挨拶した。

「琳太郎は小童のくせに、この俺が育てた木管の連中のことが、まだお気に召さないらしい。つまりだ、俺が力加減をせずお前らを潰そうがどうしようが、俺の知ったことではないということだ」

竹田が恐ろしいことを言い放ったのに、ちょうど部屋に入ってきた響は面白そうに笑っていた。

「おお、鶴岡。貴様はずいぶんと余裕があるみたいだな」

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

響は堂々と言った。

「よろしい。いつもの部屋へ急げ。俺が行くまでに準備しろ」

木管メンバーは多目的室へ急いだ。


今日で夏休みは最後だ。明日からは新学期が始まり、十日後には西関東大会が控えている。部員達はより一層緊迫した空気の中、練習に取り組んだ。

琳太郎はパーカッションの練習を仕切って、それぞれのリズムにバラつきがないか、強弱バランスは取れているかなどをチェックしていた。椎名は金管楽器のメンバーを集めて分奏させ、トランペットの公彦はいつもより落ち着きがあり、適度に力を抜いて吹けていると褒めた。その影響が結那にも波及していることについても褒めた。竹田は木管楽器メンバーを「激詰(げきつめ)」していた。誰一人として褒めることはなく、もう一回、もう一回と過酷な練習を詰めていった。健治は、これなら響の特訓の方がまだマシだと思えた。主にクラリネットの響と健治ばかりが厳しい要求を突きつけられ、二人が和音ではなくユニゾンする時は「一本の音に聴こえるまでやれ」と言われた。音色が揃ってないと再び「もう一回」と言われた。

休憩時間になると、健治は頭がくらくらして倒れそうになった。こんなのは中学生に求めることじゃないだろうと発狂したくなった。窓からクラリネットを放り投げてやろうかとすら思った。ただ、それをやったら自分が響に窓から放り投げられてしまうだろう。響の方を見ると、休憩時間にも関わらずチューナーを使って、クラリネットの音程をチェックしている。こいつも将来はきっと竹田みたいな鬼軍曹に成り果てるのだろう。恐ろしい。健治は水筒に詰めてきた冷たい麦茶を飲み、いやいや練習に戻った。

怒涛の練習は続き、昼休みになった。第二音楽室には二年生が集まり、一年生は階下の教室へ移動していった。直樹が県大会のビデオをDVDプレイヤーで再生した。皆でお弁当をつつきながら、食い入るように見た。

「やっぱ鳴沢、すげーなー」

銀之丞が画面の向こうの鳴沢学園を演奏ぶりを見つめ、ポップコーンを食べながら唸った。

「うん。奴らも俺らと同じく西関行くもんな」

健治がベーグルを頬張りながら言う。今日のベーグルはチョコチップベーグルだ。

「成績は多分、鳴沢の方が上だと思うよ」

マカダミアナッツチョコを頬張りながら、梅子が言った。

「人数が多いから?」

健治が聞いた。

「それもあるけど、それだけじゃないと思う」

梅子は画面をじっと見つめて言う。

「音の密度が高い。表現力が断然、上」

音羽が淡々と言った。

「密度って言われても、よく分かんないよ」

健治がぼやいた。

「音を出す前に、体のなかで出したい音のイメージが全員、固まってる。だからいい音が出る」

音羽が説明した。

「何にしろ、俺たちにはできることをやるしかないんだよな」

直樹がタラコおにぎりを齧りながら言った。とはいえ、直樹も今日のレッスンは今までで一番きつかった。竹田のスパルタぶりは度を超えていた。

枕木(まくらぎ)中もすげー」

銀之丞がそれを言って、ポップコーンを空中に放りながら口で受け止めた。画面の中では枕木中学校が演奏していた。琳太郎のかつての教え子達だ。今は違う教師が指導にあたっているようだが、そこの木管楽器の技術はとても高かった。健治は目を見張った。クラリネットが木質感あふれる豊かな音色を奏でていた。まるで一本のシルクの糸のように美しかった。響も「クラの音が綺麗」と呟いた。

「県大だとこの学校が多分、成績一位なんだろうね」

梅子が言った。響も同感だとばかりに頷いた。枕木中も鳴沢やミド中と同じく、県大会を突破している。

「埼玉はレベル高すぎだからねー」

銀之丞は他人事のように言う。

「俺らはギリギリだったんでしょ」

健治はまだ画面を見てため息をついた。

「何を言うんだね」

公彦が話に入ってきた。健治は少し驚いて公彦の方を見る。

「ほとんどが五十人クラスのなか、十六人で勝ち抜いてきた僕達が、一番でないとでも?」

公彦が不敵に笑った。部屋は静まり返った。ビデオから他校の演奏が流れていく。

「我が部が最強だ。必ず全国に行く」

公彦がはっきりと太い声で言った。今までにない気迫と覚悟、度胸が感じられる言葉だった。

「ミドスイ! ミドスイ! ミドスイ!」

直樹が唐突に立ち上がり、両手をブンブン振りながらコールし始めた。皆は不意をつかれた。一瞬間が空いた後、笑いが起きた。それから皆も直樹に続き、手拍子しながらコールした。健治は黙ってそれを見つめていた。


午後になり、第二音楽室で合奏の練習が始まった。琳太郎が指揮を振り、後方に竹田と椎名が立って演奏をチェックしていた。

「ちょっと止めろ」

竹田が両手を大きく振って演奏を中断させた。

「琳太郎。鴨井だけ個人練させる」

竹田が腕を組み、健治を鋭い目で見ながら言った。

「了解っす」

琳太郎は頷いて、健治に部屋を出るよう促した。健治は顔を真っ青にして、譜面台と楽器を手に持つと、すごすごと部屋を出ていった。

「うちも行きます」

響が立ち上がると、琳太郎が制した。

「呼ばれたのは健治だけだ。お前は行かなくていい」

「でも…」

響は困惑して食い下がった。

「響。お前はできてる。健治はできてない。わかったか。じゃ、今のところもう一回」

琳太郎はゆっくりそう言うと、タクトを振り上げた。


竹田と健治は再び多目的室に戻り、二人でレッスンを始めた。健治が打ちのめされた様子で立ち尽くしていると、竹田はいつものバスクラリネットではなく、珍しくクラリネットをケースから取り出した。楽器を組み立てて息で温めると、健治の前で構えた。

「いいか、これが求める音だ」

竹田が吹いた。小さな音量で、美しい音が響いた。

「お前の音は、こうだ」

竹田が再び吹いた。弱々しく薄っぺらい音が出た。

「あと十日でここまで吹けるとは思ってない。だが、それに近い音は出せるようになる」

「いえ、無理です」

健治はわなわな震えた。もうどんなに怒られてもいい。今すぐクラリネットを窓から放り投げてやろう。

「なぜそう思う」

「鶴岡さんに同じこと毎日言われてます。でも、俺は才能がないんです。できません」

健治は涙を一筋流して言った。竹田は健治を見つめる。

「それで、お前はどうする」

竹田が聞いた。健治はしばらく黙り込んでから、ようやく口を開いた。

「みんなは俺抜きで西関(にしかん)に出ればいいと思います」健治はメガネを外して、涙を手で拭った。「もう本当に無理なんです」

健治はそばの机に楽器を置くと、しゃがみ込んで泣き出した。まるで幼な子のような激しい泣き方だった。

「俺が足を引っ張ったら、本当に全国行きはなしだ。だったら俺だけ出なくていい。もういい」

健治は唸りながら泣いた。もうどうでもよかった。琳太郎先生はまるでクラ二人が全責任を背負っているかのような言い方をするし、鶴岡さんも毎日俺のことを責めてくる。俺だってできるようになりたい。でも、できない。下手くそで悪かったな。好きで下手くそやってるわけじゃない。

竹田は表情を変えずに見下ろしていた。やがて、健治の二の腕を掴んで、ゆっくり立たせた。健治は顔を下に向けた。竹田はそれから、近くの椅子に健治を座らせた。竹田は持っていたクラリネットを机に置くと、その隣にもう一脚椅子を並べた。ゆっくりと腰を下ろし、語り出した。

「俺が中学のときはな」

健治は顔をあげて、竹田を見た。

「日本は高度経済成長期だったが、親父がいなくてな。母ちゃんしかいなくて、貧乏だった。ろくにリードも買えやしなかった。毎朝、新聞配達のバイトをしたんだ。道端に落ちてる空き瓶を拾って酒屋に持って行くとな、金がもらえたんだ。鉄クズも集めて売りに行ったりもしたな。そうやって家に金を入れて、余った金でリードを買った。部活には裕福な家のやつが多くて、俺は自分だけどうしてこんなに苦労しなくちゃなんねえんだって、いつも腹が立ってた」

竹田は一息ついて、バッグの中から水筒を取り出した。一口飲むと、水筒をバッグに戻した。

「上下関係が厳しくて、先輩にいつも怒鳴られてた。教師なんか、気に入らないとスリッパで生徒の顔を叩いてきやがった。俺は必死で練習した。コンクールが近づいて、誰がコンクールに出るか、教師がメンバーを発表した。クラリネットは六人の枠だった。その時は大所帯だったからクラだけで十五人いたんだ。三年が出るんだろうと思っていたら、二年の俺が呼ばれた」

竹田はここでまた一息ついた。健治は泣くのをやめて、耳をそば立てた。

「たまげたよ。他の五人はみんな三年で、俺だけ二年だ。他にも三年はいた。俺は翌日、袋叩きにあった」

「え? それでどうなったんです?」

健治は思わず口を挟んだ。

「どうもしない。できやしない。俺は部活に行った。そしたらな、俺の譜面入れが、ハサミでズタズタにされてたんだよ」

「ひどい。先生には言ったんですか」

「教師なんか役に立ちやしない。すぐ、喧嘩両成敗だっていうからな。俺はまた楽譜を作り直して、練習に出た。そしたら今度は奴ら、俺のリードを全部折りやがった」

竹田の言葉に、健治はショックを受けて口をぱくぱくさせた。

「堪忍袋の緒が切れた俺は、先輩をタコ殴りしてやった。そいつのリードも全部折ってやった。楽譜も全部引きちぎってやった。ガキみたいにギャアギャア泣いていたよ。俺はそのまま部活も辞めてやろうと思って、学校を飛び出した。家に帰って布団を被ってたら、先輩とその母ちゃんが家に来た。勘弁してやってくれ、部活に戻ってきてくれって言うんだよ」

竹田は小気味よく笑った。圧倒された健治は、ぎこちなく笑ってみせた。

「俺は部活に戻った。クラのリードは折られちまったし、もうクラなんかやりたくねえって言ったんだ。そしたら教師が、お前はバスクラに行け、って言ってきた。バスクラのリードを買い与えられて、それから俺はバスクラを吹くようになった」

竹田は席を立つと、バスクラリネットを手に取った。シワの寄った手で、愛しそうに楽器を撫でる。

「バスクラも先輩がいたが、俺をいじめるようなことはしなかった。俺はその先輩と練習に力を入れた。だが、そのうちその先輩は部活を辞めてった。俺は一人でバスクラを任されるようになった。責任重大だったが、俺は怖くもなんともなかった。木管楽器の縁の下の力持ちって言われてな、誇らしかったもんさ」

竹田は懐かしそうに笑ってみせた。健治は少し安堵して相槌を打ち、話の続きを待った。

「公立高校に進学して、バスクラを続けた。バスクラ吹きが少なかったから重宝された。奨学金で音大にも行った。オーディションを受けて、帝フィルに入った。俺はクラもバスクラもできたから、帝フィルの活動以外に個別レッスンの講師なんかもやり始めた。結婚して家庭を持った。うちの奥方の実家は経済的に裕福だったし、世の中の景気も良かったし、これでやっとうちの親を楽にさせてやれると思っていた。自分が出演するコンサートのチケットを自分で買って、母ちゃんに一番いい席で聴いてもらうつもりでいた。それなのに、病気で呆気なく死んじまった」

健治は口に手を当て、さっきよりもさらにショックを受けた顔をした。竹田は自虐的に、小さく笑った。

「生きてりゃ、もっと返していけたのにな。何のためにバスクラ吹いてんだか、分からなくなった」

健治は竹田の少し垂れた目を横からじっと見た。深い悲しみが影を潜めていた。

「だけど、娘が生まれて、少しだけわかったような気がした。バスクラで誰かを幸せにできるから。その道を与えられたから。だから、俺は吹いてやる、くたばるまで吹き切ってやるんだってな。どんなに辛くても。どんなに苦しくても。自分のいたらなさ、不甲斐なさに打ちのめされても。この命はそうやって使っていこうと思った。今も、ずっとそう思っている」

竹田は健治の方を見て、気障(きざ)に笑ってみせた。窓から差す光が、竹田の顔半分を照らし、床に影をつくった。階上からは、小さな合奏の音色が途切れ途切れに聞こえていた。

竹田はそれから、健治の聞いたことのない曲をクラリネットで吹いてみせた。クラリネットらしい、雅やかで切ないメロディーだった。健治は唇をかみながら、それに耳を傾けた。

つづく

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