夏祭り
「公彦が来てないけど、連絡あった?」
ある朝、部活開始の時間を過ぎてから、梅子が直樹に聞いた。直樹は焦った。公彦は部活を辞めたいと言い出してからも、ずっと休まずに来ていた。ついに限界点に達したのだろうか。西関を目前に控えて、琳太郎の合奏練習は以前よりずっと厳しくなった。琳太郎は怒鳴ったりしないし、物言いはソフトだが、部員達への要求がえげつなかった。琳太郎自身が誰よりも集中して指導にあたっていた。ソロがある直樹や梅子はもちろん、公彦にも当然厳しいチェックが入っていた。
「ううん、ないよ。実はこないださ…」
直樹が事情を梅子に話した。梅子は不安そうな顔をした。
「先生に話す?」
直樹が梅子に聞いた。梅子が首を横に振る。
「なんでも先生に頼らないほうがいいと思う。ちょっとだけ様子見しない?」
梅子が提案した。明日は部活が休みだ。直樹も賛成した。
合奏練習が始まった。公彦抜きでやる「展覧会の絵」の「プロムナード」は、何とも拍子抜けするものだった。結那の吹く2ndトランペットの音色が寂しく響いた。
部活が終わると、直樹はいつものように響と音羽と伊久馬を誘って練習をした。
「明日、また後藤先生がジャム・セッションやるんだって。今度はライブじゃないから、さらにやりたい放題やろうって言ってたよ」
直樹が笑って言った。
「じゃあ行こうよ」
響は乗り気だ。他の二人も頷いた。
翌日の土曜日の朝、ベッドの上で雛形のスマートフォンが鳴った。
「雛形先生、おはようございます」
電話の向こうの琳太郎の声は、朝っぱらからテンションが高かった。
「おはようございます。どうしたんですか」
雛形は起こされて不機嫌そうに答えた。
「今日、お祭りに行きませんか」
琳太郎が誘った。
「お祭り?」
「今年の夏最後の祭りですよ」
琳太郎に言われて、雛形はカレンダーを見た。そういえばそんなイベントがあったなとぼんやりしながら思った。
「夕方からならいいですよ」
雛形が答えた。
「やった。俺、雛形先生の和服姿、好きなんですよね」
琳太郎は勝手に盛り上がって言った。
「それって浴衣着てこいって言ってます?」
「メガネはなしでお願いします。迎えに行きますね」
琳太郎からの電話は切れた。
雛形はベッドから起き上がり、トイレに行った。トイレから戻ると、部屋のクローゼットを開けた。あちこち探したが、浴衣が見つからなかった。
階下に降りると、母が一人でテレビを見ていた。父はすでに仕事に出掛けていた。
「おはよう」
母が雛形の姿を確認すると声をかけた。
「お母さん、私の浴衣、知らない」
雛形が聞いた。
「浴衣? 今日着るの?」
「うん」
母はソファから立ち上がり、和室に入った。桐箪笥を開け、雛形の浴衣と帯、それに下駄や巾着も手渡した。
雛形はそれを受け取ると、自室に持ち帰った。鏡の前で浴衣を自分の体に合わせてみる。うきうきしている自分にため息をついた。私は何を勝手に盛り上がっているんだろう。
灯籠流しの日から、琳太郎はいつも通り接してきた。変わったことといえば、今日ご飯行きます? と毎日聞いてくることだった。さすがに毎日はやりすぎだと思ってほとんど断ったが、一回だけ付き合った。変に期待させたくなくて、すっぴんメガネスタイルにした。琳太郎はそれでも雛形との時間を楽しんでいるようだった。言葉の端々や雛形を見つめるその目から、琳太郎の気持ちが滲み出ていた。
夕方になって、玄関のインターホンが鳴った。すっかり身支度が整っていた雛形は、急にドキドキしてきた。母が玄関を開けた。
「あらま。こないだの色男さん」
母が琳太郎に向かって言い、自分の口に両手をあてた。
「こんばんは。鳥飼と申します。桃子さん居ますか」
琳太郎が礼儀正しく挨拶した。今日の琳太郎はモノトーンできめていた。真っ白な半袖Tシャツに黒のテーパードパンツを履き、黒いスニーカーを履いている。左手首には黒いベルトのスマートウォッチをつけ、丸襟のところに黒いサングラスを掛けていた。
雛形の母は琳太郎に会釈すると、雛形を呼んだ。しずしずと歩きながら雛形が玄関先に現れた。青紫の生地に桔梗の柄が入った浴衣で、白い帯を留め、髪はゆるくふんわり巻いてアップにした。メイクは浴衣に合わせてブルートーンで統一し、手足の爪には薄紫のネイルをしていた。
雛形と目が合うと、琳太郎は生唾を飲み込んだ。母はニヤニヤして、琳太郎に少し待つように言った。琳太郎が玄関で突っ立っている間、母はキッチンに雛形を引っ張ってヒソヒソ話をし始めた。
「お母さん、大賛成よ」
「何を」
「ずっと待ってたの。王子様が桃子をさらいに来てくれる日を」
母は夢見る乙女のような調子で目を輝かせ、おかしな手振りをつけて言った。
「学校でもあだ名が王子なんだよ」
「あら! じゃあミド中の先生なの?」
母が驚いて聞くと、雛形はしまった、と思った。雛形は渋々頷いた。
「今度、学校見学に行っちゃおうかな。お母さん、ファンになりそう」
「絶対やめて」
雛形が怖い顔で睨んだ。
「あんたもいい歳なんだから、ボヤボヤしてると他の女に持ってかれちゃうわよ」
母は雛形の腕を肘で突いた。
「別に彼氏じゃないし」
雛形がそっぽを向いた。
「彼氏じゃない男がなんで迎えになんか来るのよ」
母は左右に頭を振りつつ、疑問を投げかけてきた。
「浴衣だと運転できないもん。ねえ、お父さんには絶対絶対言わないで。彼、殺されちゃう」
雛形は母の手を両手でがっちり掴んだ。母は目を細めて不敵に笑う。
「彼、ってことはやっぱり彼氏なんじゃないの」
「違う。ね、お父さんには黙っててね。じゃあ、もう行くね」
雛形が母の手を離してキッチンを出ようとすると、母が追い討ちをかけた。
「ふふふ、もちろんよ。たとえ帯が解かれるようなことになっても、黙っててあげる」
母は鼻歌を歌いながら、洗濯物を取り込みに行ってしまった。雛形は真っ赤になって母の後ろ姿を睨んだ。
夏祭りは緑谷駅からほど近い広場で行われていた。広場中央に紅白幕をつけた特設ステージを組み、さまざまな演目が催されている。そばにはずらりと屋台が並び、多くの人が訪れていた。琳太郎は近くのコインパーキングに車を止め、雛形と広場に向かって歩いていた。
「雛形先生」
「なんですか」
「雛形先生はやっぱり天使だったんだなあ」
草履を履いている雛形に歩幅を合わせながら、琳太郎がつぶやいた。
「琳太郎先生も王子様みたいですよ。母が興奮してました」
雛形は琳太郎を見ずに言った。
「それはどうも」
琳太郎は機嫌よく言った。
「ところで、仲のいい同僚と彼氏彼女の違いって、何ですかね」
琳太郎が尋ねた。雛形は答えようとして、勝手に赤面して黙り込んだ。
「あ。今、やらしーこと想像したでしょ」
琳太郎が人差し指を雛形に向けて、にやけた。
「だってそれしかないもん」
雛形が怒って反発した。
「いいね。ため口、嬉しい」
「ため口じゃないです」
「あーあ。敬語に戻っちゃった。仲のいい同僚には、ため口にしないと」
「急には無理です」
「手を繋ぐのはオーケーですか」
琳太郎が手を差し出した。雛形はすぐに判断できずに迷った。
「知り合いに会うかもしれないし、ギリギリアウトです」
「え、そうですか? 俺は副校長先生とだって手を繋げますよ」
王子様のような琳太郎とガマガエルのように太った副校長が手を繋いでいる姿を想像して、雛形は吹き出した。
「人が見てないところ限定ですよ」
雛形は琳太郎の手を軽く握った。琳太郎は力強く握り返した。
そのとき、琳太郎のスマートフォンが鳴った。公彦の自宅からだった。
「はい、鳥飼です」
琳太郎は雛形の手を離して応答した。
「先生、お休みのところ失礼します。千鳥川ですけど、息子がどこにいるか知りませんか」
「え?」
「昨日、部活が終わったらお友達の鴨井君のところに泊まりに行くって言ってたんです。さっき、鴨井君のお母さんに外で会って挨拶したら、家に来てないって言うんです」
公彦の母は動揺を隠さずに言った。琳太郎は昨日のことを急いで思い出した。公彦は部活にも来ていなかった。
「警察に連絡してください。僕も居そうなところ、あたってみます」
琳太郎は電話を切った。雛形は心配そうに琳太郎を見た。
その頃、直樹達は緑谷駅前で愕然としていた。落雷事故があり、電車が運行中止してしまった。
「もう一時間も経つよ」
騒がしい人ごみのなか、駅の時計を見て直樹がじりじりしながら言った。ジャム・セッションはすでに始まっている。響は持ってきたクラリネットを持て余しながらため息をついた。
「今日はもう無理かも」
音羽がそっけなく言った。今日は背中に軽量型のキーボードを背負っている。
「えー、行きたかったですね」
伊久馬が残念そうに言った。
「ね。せっかくだし、お祭りでも見に行かない」
響が案内看板を指差した。三人は賛成して、広場に向かって歩いた。
広場には大勢の町民達が集まっていた。ちょうど素人の演芸大会が始まっていて、司会がバカでかい音量で演者を紹介していた。演者も変わる変わるバカでかい音量で演奏したり、歌ったりしていた。観客達はそれに負けず劣らずバカでかい声で騒いでいた。直樹は皆とクレープやりんご飴を食べ歩きしながら、屋台の間をぶらついた。すると、少し先の人ごみのなかに見覚えのある顔があった。公彦が焼きそば屋の前で並んでいる。
話しかけていいのか、迷った。他に誰と一緒にいるわけでもなく、一人でいるようだった。表情は暗かった。梅子と様子見しようと決めていたことを思い出し、直樹は黙って見ていた。他の三人は射的に夢中になっていて、気づかないようだ。やがて公彦は焼きそばを買うと、その場からいなくなった。
伊久馬が射的で景品を当てたようではしゃいでいた。直樹は三人の元へ戻ろうとすると、またしても見た顔が近づいてきた。直樹の方を見て、歩くスピードをあげる。
「おい、お前ら、公彦を知らないか」
琳太郎が真剣な顔で聞いた。
「え?」
直樹は驚いた。
「昨日から家に帰ってないんだよ」
琳太郎の顔には焦りが浮かんでいて、声は切羽詰まっていた。
「さっき、そこに居ました」
直樹は焼きそば屋のあたりを指さして言った。
「見つけたら連絡しろ」
琳太郎は走り去っていった。四人は互いを見合わせた。
「探そう」
直樹が言った。
四人は屋台が並ぶ通りを見回して公彦を探した。広場の奥にある児童向けの遊具エリアや、大人用の健康遊具が並ぶ芝生エリアも探した。公彦、公彦と呼びかけたが、どこからも出てくる気配はなかった。広場中央からは、やかましい司会の声が辺り一体に響いていた。
「どこ行ったんだろう」
直樹がつぶやいた。四人はしばらく歩き回った後、広場中央から少し離れたところの縁石に座った。響は汗をタオルで拭き、伊久馬は自販機で買った冷たい水を飲んでいた。辺りはすっかり夕闇に包まれていたが、いっこうに涼しくなる気配がない。
「何か言いました?」
演芸大会の騒音のなかで、伊久馬が直樹に聞き返した。音羽は何も言わずに両耳を塞いでいる。
「あれだ…」
直樹は遠巻きに広場の特設ステージを見て言った。アイドルのコピーバンドが調子っぱずれな歌を歌い踊り、見物客に向かって手を振っていた。司会が再びバカでかい声で、今度は「飛び入り参加もオーケーです。バンド大歓迎です」とがなり立てた。ステージの上にはドラムセットとキーボード、それに幾つかのアンプやミキサーが置かれていた。
「行こう」
直樹が三人に呼びかけると、ステージに向かって駆け出した。
公彦は広場のはずれにあるベンチに座り、一人で焼きそばを食べていた。
昨日の公彦は部活に行くふりをして、制服のまま一日中町のなかをぶらついていた。最初は駅前のゲームセンターに寄り、その後は漫画喫茶へ移動した。夜十時を過ぎて追い出されたので、今度は住宅地を通り、農道を抜け、集落の方へ歩いて行った。農家が多いエリアで、あちこちに作業用の小屋やガレージ、ビニルハウスなどが並んでいた。公彦は一軒の家の前で立ち止まった。子どもの頃からある古い空き家で、今も取り壊されずにそこにあった。暗がりのなかで辺りを見回すと、誰もいなかった。公彦は敷地内に忍び込み、家屋に向かった。建具が壊れていて、玄関の引き戸を強引に開けると中に入れた。家の中は埃だらけで、公彦は咳き込んだ。廊下を通り、南側の座敷に入った。木製の雨戸で閉め切られていたが、隙間から月明かりが見えた。公彦はそこで横になり、夜を明かした。
部活には行きたくない。家にもいたくない。誰にも会いたくない。公彦のなかで何かが弾けたとき、一人で町を彷徨っていたのだ。自分はいなくなってしまえばいい、消えてしまいたいと思った。焼きそばを食べ終わると、この後どうしようか考えをめぐらした。
特設ステージの方からやかましい声が響いてきた。
「はい、じゃあ自己紹介お願いしますね」
司会がマイクを寄せてきた。
「緑谷中学二年一組、白鳥直樹です」
公彦は顔を上げた。よく見えないが、近くの街頭スピーカーからは確かにそう聞こえた。公彦は広場中央へ向かってゆっくり歩み寄った。スピーカーからは、鶴岡響です、朱雀音羽です、雁谷伊久馬です、という声が続いた。
「公彦」
直樹の声が響く。公彦は速度を早めて近づいた。人が増えてきた。うまく避けながら、ステージに近づく。少し遠くにいた琳太郎と雛形も気づいて近寄って行った。
「いつも吹部のこと、真剣に考えてくれて、ありがとう。俺は公彦のことを信じてるし、尊敬してるよ」
直樹は宙を見て言った。マイクが声を拾って辺りに響いた。ステージの周りは人だかりができていた。酔っ払った大人達が、早く始めろ、と野次を飛ばしている。公彦はよく見ようとしたが、背の高い大人が多くて見えない。
「臆病な公彦に、今日は俺が勇気を届ける。聞いてください」
公彦がなんとか隙間を見つけて前に進み出た。ロープが張ってある最前列で、公彦はステージを見上げた。直樹がフルートを構えて立っている。ドラムセットに伊久馬が、キーボードにはそれぞれ音羽と響が向かって立っていた。
伊久馬がスティックで合図を送ると、曲が始まった。四人が散々練習した、「スペイン」だ。直樹が旋律を吹き、音羽がコードに合わせてバッキングし、響がベースラインを弾き、伊久馬がリズムを刻んだ。直樹のフルートはスピーカーを通して、辺り一帯に美しく鳴り響いた。音羽に教わったフレーズを上手く取り入れながら、アドリブ演奏を始めた。直樹はフルートに思いの丈をぶつけた。頭のなかからはすでに公彦の存在は消え、音符の洪水で溢れ出た。それらを無作為に拾い集め、音羽のピアノの上に投げつけた。音の粒は弾けて煌めき、瞬いた。柔らかな音も猛々しい音もノイズ混じりの苦しい音も、何もかも抱き合わせて辺り一面にばら撒いた。直樹はアドリブ演奏を1コーラスだけでなく、あのときの後藤のように何度でも続けた。手にしたフルートが息吹き、声を限りに魂の讃歌を歌っているようだった。あちこちから拍手があがり、手拍子になった。酔っぱらい達が口元に手を当て、「いいぞー」と叫んだ。
アドリブを終わらせてフルートを口から離し、礼儀正しくお辞儀すると、観客は大きな拍手を送った。今度は音羽のアドリブが始まった。音色をアコースティックギターに合わせて、鍵盤を叩いた。まるでタブラオでフラメンコを踊る女性ダンサーのように音羽の指は妖艶に、しなやかに鍵盤の上で踊り続けた。拍手の音は大きくなり、広場全体を揺るがした。
父親に抱かれた幼な子が、リズムに合わせて手を上げ下げしていた。ノリのいい外国人達が人混みから飛び出してきて、複雑なステップを刻み出した。司会者はマイクを握りながら踊り出した。出演が済んだ自称アイドル達も、思い思いにステージの周りをぐるぐる回りながら踊ってみせた。
赤提灯に顔を照らされながら公彦はロープに掴まって、その様子を見上げた。一言も言葉を発さず、拍手もしなかった。ただただ、そこに立っていた。
演奏が終わると、直樹達は行儀良く頭を下げた。盛大な拍手が上がり、口笛が鳴り響いた。直樹は頬を紅潮させて、響の方を見た。響は恥ずかしそうに、でも充実した笑顔を向けた。伊久馬はドラムセットの椅子から立ち上がり、直樹の元に駆け寄った。音羽は手首をストレッチしながら、ニヒルに笑ってみせた。
直樹は目下の観客を見た。最前列で公彦の姿をとらえた。直樹は急いでステージを降りると、公彦も近づいてきた。
「直樹」
ステージ後方で二人が向かい合うと、公彦は声をかけてから、うつむいた。直樹は公彦がメガネを外し、手で顔をこすっているのを見た。音羽と響、伊久馬は少し離れたところで様子をうかがっていた。意を決したように公彦が顔を上げた。目が充血しているのを、直樹は見た。
「ありがとう」
公彦がかすれた声で言った。直樹はゆっくりと頷く。
「僕はもう、逃げない」
公彦のかすれ声が、力強い涙声に変わった。
「うん」
直樹は穏やかな笑みを浮かべて言った。公彦は立ち尽くし、激しく咽び泣いた。直樹が肩を軽く叩いた。琳太郎は少し離れたところにある街灯に寄りかかりながら、腕を組んで見ていた。スマートフォンを取り出し、公彦の自宅に連絡を入れた。
琳太郎は辺りを見回した。徐々に見物客は減って、会場は閑散としつつあった。少し離れたところにある木陰のベンチに雛形は座っていた。片足だけ草履を脱いでいる。
「あいつらには、びっくりですね」
琳太郎は歩きながら雛形に近づいた。
「本当ですね」
雛形は琳太郎をちらりと見上げると、顔をそらして言った。
「やっぱりこういうところに来ると、いますよね。知ってる人間が」
雛形は人目を気にしているようだった。
「知ってる人間がいないところに移動します?」
雛形は立ち上がった。その拍子によろけた。琳太郎がとっさに支えた。
「探してるときに足、くじいちゃって…」
雛形が琳太郎の手をほどいて、びっこを引きながら歩きはじめた。琳太郎は見かねて、雛形の前でしゃがむと、両手を後ろに突き出した。
「ほら」
雛形はぎょっとして頭を横に振った。
「おんぶは無理です」
「痛いんでしょ」
「大丈夫です」
「俺は大丈夫じゃないです」
琳太郎は譲らなかった。
「こんなに人がいるところで。また誰かに会うかも」
雛形はためらって言う。
「じゃあ俺の背中に顔を埋めててください」
琳太郎は振り返って雛形の方を見ながら、さらに両手を強く突き出す。雛形は黙って琳太郎の背中に身をあずけた。琳太郎が雛形の両足に腕を通すと、軽々と持ち上げた。
「先生。もっと食ったほうが良くないですか」
琳太郎が雛形の細い太ももを支えながら歩き、聞いた。
「貧弱な体ですみません」
雛形は顔を背中に埋めたまま、投げやりに答える。汗ばむ琳太郎の背中が心地よかった。
「そうですか? 背中にあたってるものはそう貧弱でもないですよ」
琳太郎が言った。雛形は上体をそらし、自分の胸があたっているところを引き離した。
「バカ。スケベ」
雛形が叫んだ。そのまま後ろに倒れそうになって、琳太郎が上手くバランスを取り直した。
「危ないから暴れちゃダメっすよ」
琳太郎が笑って言った。
と、同時に雛形の腹の音が鳴った。琳太郎は声を立てて笑った。近くの屋台でたこ焼きを二つ買うと、琳太郎は雛形を時々背負い直しながら、駐車場へ向かった。
つづく




