表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
2
52/272

ハンカチ

降りしきる雨のなか、雛形と健治は怜の肩を担いで歩いていると、他の生徒達が駆け寄ってきた。幹生と銀之丞が代わりに怜の体を支えた。

ホテルの玄関に入ると、磯貝がすぐに大浴場へ案内した。

「体を温めましょう。早く」

怜は足が痛くて一人で脱げず、男子部員に手伝ってもらいながら浴室へ向かった。ずぶ濡れになってしまった直樹と健治、それと一番体格のいい幹生が湯船の中まで付き添い、怜が溺れないよう支えた。

同じく入浴させてもらった雛形は早々に出てきて、ロビーに集まっている部員達に事情を説明した。

「怜は大丈夫なんですか」

公彦が聞いた。

「うん、彼は意識がはっきりしてたから。水も飲まなかったみたいだし。ただ、足首が痛くなっちゃったみたいでね。ほら、春に手術したでしょ。あれはあれでまた、病院に行かなきゃね」

雛形が気遣いながら言った。

「鶴ちゃんは無事なんですか」

梅子は震えながら、青い顔で聞いた。

「大丈夫。琳太郎先生が助けに行ってくれたし、白鳥君が応急処置を頑張ってくれたから」

雛形が言うと、梅子は心肺蘇生訓練を思い出した。両目から涙がこんもり溢れてきた。

「ただ、治療は必要だから、多分入院すると思う。琳太郎先生が付き添っててくれてるから、私達は先に帰るよ」

雛形が言うと、部員達はおとなしく返事した。

怜達の入浴が済み、磯貝へ丁重にお礼を言うと、一同はバスに乗り込んだ。バスの中では誰も騒ぐことはなく、お通夜のように静まり返っていた。雛形はモバイルバッテリーをスマートフォンに差すと、琳太郎に生徒を連れ帰ることをショートメッセージで伝えた。それから怜の母親に電話を入れ、副校長にも報告の電話を入れた。案の定、副校長からは酷く叱られた。翌日、学校で改めて絞られることは確定だ。

学校に着き、楽器を片付けると、雛形は生徒達にすぐに帰宅するように伝えた。怜の母は車で迎えにきていた。雛形に頭を下げると、すぐに怜を病院へ連れて行った。

雛形も帰ろうとしたところ、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。琳太郎からだった。

「琳太郎先生? 無事ですか?」

雛形が切羽詰まって聞いた。

「ええ、大丈夫です。鶴岡も今、色々検査してもらってますが、肺や脳に損傷はないようです。命に別状はありませんが、今夜は入院になりました。鶴岡の親にも来てもらったんで、俺はこれから帰ります」

琳太郎は咳き込みながら言った。

「先生も腕、怪我してましたよね。それは?」

「病院で手当してもらったから大丈夫です。俺は直帰しても大丈夫ですか」

琳太郎は再び咳き込んだ。

「もちろんです。こっちは学校について、生徒達を今、帰したところです。大鷹君はお母さんに迎えにきてもらいました。先生はどうやって帰ってくるんです?」

雛形は心配して聞いた。

「そっか、よかったです。俺の方は、そばに駅があるんで電車で帰れますよ。また明日。お疲れ様です」

琳太郎は明るく言って、電話を切った。


その日の夜遅く、雛形は自宅の自室にいた。照明を落として真っ暗になった部屋の中、パジャマ姿でベッドで仰向けになる。琳太郎は無事に帰ってこられたのだろうか。咳が酷かったが、大丈夫だろうか。雛形は、さきほどの電話口から聞こえた咳が気になってしまい、なかなか寝つけなかった。

「どうしよう」

雛形はむくりと起き上がった。カーテン越しに外の街灯の照明が室内の床を照らした。部屋の隅に置いた救急箱に目が止まった。合宿先に持っていったもので、雛形はおもむろに中を開けた。生徒達が体調を崩したときのために、あらゆる薬を詰め込んである。再び蓋を閉じると、雛形は素早く私服に着替えた。


深夜営業のスーパーに寄り、琳太郎のアパート脇に車を停めると、雛形は玄関のインターホンを鳴らした。一分ほど待ったが、反応がない。もう一度鳴らしてみた。やはり、反応がない。

「先生、先生。雛形です」

雛形がドアを叩いた。相変わらず反応がないので、ドアノブを回してみた。鍵がかかっておらず、あっけなくドアは空いた。

「先生。深夜に突然すみません、雛形です。すぐ帰りますから、お邪魔します」

雛形は大声で言った。部屋は静まり返っていた。嫌な予感がして、雛形は急いで靴を脱いだ。キッチンを横切り、グランドピアノがあるリビングを抜け、寝室に入った。照明をつけたまま、琳太郎がベッドの上にうつ伏せて、苦しそうに息をしていた。薄目を開けて雛形に気づいたようだが、まともに声も出せないらしい。よく見れば服は着替えておらず、海に入った時と同じ格好をしている。

「先生。ちょっと失礼します」

雛形は枕元にかがみ、琳太郎の額に手を当てた。熱くてすぐに手を引っ込めた。持ってきた体温計で熱を測った。39.3度と表示された。

「大変」

雛形は壁掛け時計を見た。時刻は深夜一時を回ったところだ。この時間に夜間外来に行くべきかどうか、雛形は迷った。夜間は医師が少なく、長時間待たされることも少なくない。いたずらに琳太郎の体力を削ってしまうのは、賢明ではない。

雛形は意を決して、キッチンに行くとスーパーで買ってきたものを冷蔵庫に突っ込んだ。それから浴室で洗面器にお湯を張った。その洗面器を寝室に慎重に運んで床に置くと、今度は部屋のクローゼットを開けた。収納ケースがあったのでいくつか開けてみると、男性用の下着やスウェット、タオル類が見つかった。それらをまとめて引っ張り出すと、雛形は深呼吸した。

「ごめんなさい、先生」

そう言って、今度は琳太郎の着ている服をすべて脱がせた。怪我した腕に包帯が巻かれていたので、そこだけ慎重にやった。着ていた服もベッドシーツも海水でベタベタしていて、それらをすべて洗面所に持っていき、洗濯機に放り込んだ。洗面器のお湯でタオルを絞ると、顔と体を拭いてやった。それから急いで服を着せて、清潔な布団の中で寝かせた。

背の高い寝たきり男を着替えさせるのがこれほど重労働とは知らず、雛形は汗だくだった。今度はキッチンに行き、小さめのコップに水を入れ、寝室に運んだ。救急箱を開き、市販の感冒薬の中でも一番効果が強そうな薬を選んだ。カプセルを手のひらに出し、琳太郎の唇の隙間にねじ込んだ。それから少しずつ、スプーンで水を飲ませてやった。

「先生、ごっくんできますか? 頑張って」

雛形が話しかけると、琳太郎はそれに従った。琳太郎が薬を飲み込んだのを確認すると、今度はキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。さっき入れておいた氷を冷凍室から出し、複数のビニル袋に分け入れて縛ると、それを寝室に運んだ。琳太郎の脇の下やおでこにタオルを敷き、その上に氷を置いた。

ここまでやって、雛形は床に座り込んだ。洗面所から洗濯機が回る音を聞きながら、雛形は琳太郎の寝顔を見た。咳が鎮まり、先ほどよりは安らいでいるように見えた。

「先生…」

雛形は琳太郎の左の手のひらを握った。手はとても熱かった。ホッとしたのと疲れたので、少しだけ、目を閉じることにした。


顔に眩しい光を感じて、雛形は目を覚ました。ブラインドの隙間から朝日が漏れている。壁掛け時計を見ると、朝の五時だった。

雛形は琳太郎のおでこに触れた。少しはマシになったような気がして、体温計を脇の下に入れてやった。今度は37.4度と表示された。雛形は洗濯物のことを思い出し、洗濯機から引っ張り出した。窓を開け、ベランダに干した。

「なんだか、同棲してる彼女みたいじゃない」

雛形は笑えてきて、ひとりごちた。

「ですね」

後ろからしゃがれた声がした。振り向くと、琳太郎がベッドの中からこちらを見ている。ぐったりしているが、優しい目で口元に笑みを浮かべていた。

雛形は急にこみ上げてきて、琳太郎に背を向けた。両手で涙を拭ったあと、もう一度琳太郎を見返した。

「琳太郎先生。おはようございます。気分はいかがですか」

「もう…最高ですよ…」

琳太郎は雛形から目を離さずに言った。

「あははは。死にそうな顔してるのに」

雛形は声を立てて笑った。笑ったのに、またしてもこみ上げてきた。再び背を向けて、片手で涙を拭う。

「お腹、すきませんか」

雛形が震えた声で聞いた。

「はい」

琳太郎がしわがれ声で返事した。


雛形が作ったお粥を運んでくると、琳太郎は幸せそうな顔をして微笑んだ。

「自分で起きて食べられます?」

「フーフーして、食べさせてもらいたい」

琳太郎が上体を起こして、甘えて言った。雛形は笑う。

「いいですよ」

「本当ですか」

琳太郎は嬉しそうだ。

「フーフーは一回につき一万円、あーんは一回につき三万円です」

「高すぎます」

琳太郎は屈託なく笑う。雛形はフーフーと息を吹きかけた。

「はい、あーん」

雛形はスプーンですくったお粥を琳太郎の口に運んだ。琳太郎は口を開けて食べた。

「美味い」

「家庭科の先生のお粥は、そうそう体験できませんよ」

雛形が誇らしげにおどけてみせた。

「熱がなかったら結婚を申し込んでるところでした」

琳太郎が軽口を叩いた。

「それは危ないところでした」

雛形も楽しそうに笑い、スプーンでお粥をすくう。

「極めて残念です」

「はい、あーん」

雛形はお粥を食べさせて黙らせた。

「琳太郎先生。今日だけはゆっくり休んでください。私がなんとかやってきますから。明日の県大だけは、絶対に出てもらわないと」

雛形はそう言って、フーフーを繰り返した。


雛形が第二音楽室へやってくると、響以外の部員が集まっていた。怜は松葉杖をついて来ている。雛形は琳太郎が体調を崩していることを伝えた。部員達は困惑してざわめいた。

「大丈夫よ。琳太郎先生にはギリギリまで休んでもらいましょう。今日は午後から竹田さんと椎名さんが来ます。私達は最後までやり切りましょう」

「鶴岡さんは?」

直樹が心配そうに聞いた。

「鶴岡さんは検査入院の結果、異常なしでした。昼には退院できるそうです。夕方に来るって」

雛形は直樹を励ますように言った。直樹は息を深く吐くと、壁につかつか歩み寄った。響の書いた「初志貫徹」の書き初めを剥がし、手にとって皆の前で掲げた。

「みんな! 頑張ろうぜー!」

直樹が発破をかけると、部員達は大声で呼応した。


部員達は午前中に個人練とパート練をやった。昼休憩をはさみ、竹田と椎名のもと、全体練習に入った。地区大のときよりも遥かに細かなポイントに焦点をあて、繰り返し練習した。

「お前達は、やるべきことはやったわけだな」

最後の練習が終わった後、竹田が腰に手を当てながら言った。部員達は真剣な顔で頷いた。

「もう、泣いても笑っても明日が本番。遊んでくるつもりで行って来たらいいんじゃないんですか」

椎名が皆の顔を見て、朗らかに言った。部員達の間で小さな笑いが起こった。

「白鳥。お前、顔つきが変わったな」

竹田が言うと、直樹はちょっと照れて頭をさすった。

「目白さんもね。ユーフォ、悪くないですよ。明日はデビュー戦ですね」

椎名が褒めると、梅子もはにかんで頭を下げた。

「琳太郎なんかいなくても大丈夫、大丈夫。なっ、雛形先生」

竹田が笑い飛ばすと、雛形は神経質そうに曖昧に笑った。明日の説明をしてミーティングを終わらせると、部員達は楽器の片付けをし始めた。

「こんにちは…」

青い顔をした響と母親がやって来た。皆が顔を上げた。

「鶴岡さん」

「大丈夫なの」

「平気?」

「良かったね、退院できて」

皆が口々に言うのを無視して、響は雛形のもとに駆け寄った。

「先生」

雛形は驚いて響を抱き止めた。

「ごめんなさい」

響は雛形の胸で泣いた。響の母は深く頭を下げた。

「娘の不注意でこのようなことになり、申し訳ありません。助けてくださった琳太郎先生にも感謝と、深くお詫びします」

そこへ、校長と副校長が現れた。

「ああ、これはこれは。鶴岡さんのお母さんですね。この度は監督不行届で、大変申し訳ございません」

校長が頭を下げ、副校長も頭を下げた。

「いいえ、謝るべきはこちらです。ご迷惑おかけしてしまいました」

鶴岡の母はさらに頭を下げた。

「いえ、こちらの教員がもっと注意を払っていれば、このような事態にはなりませんでした」

校長は譲らず、再び頭を下げた。雛形は唇を噛み締めた。部員達は緊迫した空気の中、ことの成り行きを見守る。

「琳太郎先生ですが、今日はゆっくり休養してるようですから、大丈夫です」

雛形が響の頭を撫でながら、小さな声で説明した。

「でも、明日が本番なんでしょう。そんな時に…。本当にごめんなさい。ほら、響。貴方も皆さんに謝りなさい」

響の母の目には涙が滲んでいた。

「ねえ、なんで海に入ったんだよ」

直樹が無表情で話に割り込んできた。響が顔を上げた。直樹の方を見て、口をきゅっと結ぶ。

「鶴岡さん、泳げないんでしょ。なんで海になんか入ったんだよ」

直樹は激しい剣幕で繰り返した。

「…ハンカチ」

響はかすかな声でつぶやいた。

「何? 聞こえないよ」

直樹は大声で責め立てる。

「白鳥君」

雛形が直樹をたしなめた。

「ハンカチを落として、拾おうとした…」

響が言った。

「ハンカチ? そんなもののために何で」

直樹は引き下がらなかった。響は気圧されて、再び黙り込む。

「あのねえ。泳げないくせに海にハンカチ取りに行く奴がいる? それで勝手に溺れて。怜も助けようとしたけど出来なくて。琳太郎先生がいなかったら、二人とも死んでたんだよ。分かる? 死んでたんだよ」

直樹の言葉で、辺りは静まり返った。誰も口を挟めなかった。

「先生だってギリギリのところだった。本当なら、あのジンベエザメに捕まって浮いてるのが正解だったんだ。俺は先生に水難救助のDVD見せてもらったから、どうすればいいのか知ってる。でも、鶴岡さんが息してなかった。だから先生は急いで陸に上がろうとしてたんだ。心肺蘇生するためにね。それで先生は怪我した。命懸けで救った。鶴岡さんの病院にも付き添った。鶴岡さんのせいで、先生だって死んだかもしれない。全部全部、君のせいだよ」

直樹が響の襟元を掴んで叫んだ。

「ちょっと、それは言い過ぎ」

雛形が直樹の手を離した。直樹は涙ぐんで、まだ怒りを昇華できずにいる。響は突っ立ったまま声にならない声を出して泣きじゃくった。母が響の肩をそっと抱いた。

「だって…。どうしても、これ、失くしたくなかったんだもん」

響はしゃくり上げながら、ポケットからハンカチを取り出した。直樹はそれを凝視しながら受け取った。唾をごくりと飲む。

「まさか、ハンカチって、これのこと…?」

直樹が聞くと、響は頷いた。

「バッカじゃないの」

直樹は震えながら言った。響は何も言わない。

「そんなもの、どうでもよかったのに」

直樹はシロクマの刺繍入りハンカチを握りながら、泣き崩れた。

つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ