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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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合宿《後編》

翌朝、まだ日がのぼりきらないうちに梅子は目を覚ました。ユーフォニアムを持って海岸へ向かった。昨日は海水浴をしなかったし、今日もするつもりはないが、こんなに素晴らしい環境で練習しない手はない。軽くロングトーンと音階練習をした後、「ビドロ」を吹いた。海風に乗って、美しいその音色は遠く遠くへ旅立った。

「うす」

梅子が振り返ると、怜が立っていた。彼もまたトロンボーンを持っている。

「おはよう、怜」

梅子は少し照れて挨拶した。

「すげえな、ユーフォ」

「そう? まだ『これだ!』ってならなくて、焦るよ」

「だよな。でも、初日より断然よくなってるよ」

怜は素直に褒めた。「展覧会の絵」は「プロムナード」のトランペットのイントロが有名で、そこに注目が集まりやすい。とはいえ、「ビドロ」のユーフォのソロもまた重要なポイントだ。梅子が強烈なプレッシャーと一人で戦っているのは怜にも痛いほど分かった。しかも、怜のトロンボーンのフォローもしながら、自分の練習に励んでいる。怜にとっては単なる同い年の女子ではなかった。自分よりも場数を踏んだ、大切な先輩だった。

「ありがとう。もっと頑張る」

梅子ははにかみながら言った。ユーフォニアムとトロンボーンが、朝焼けを浴びてきらきらと輝いた。

「ビドロのところ、一緒に合わせよう」

怜はそう言って楽器を構えた。梅子も楽器を構えると、重奏した。

朝食をとり、部員達はそれぞれスタジオに移動した。ホールの地下に用意されているスタジオはそれぞれ六畳から二十畳ほどの広さになっていて、アップライトピアノやドラムセットが用意されており、防音仕様になっていた。午前は各スタジオでパート練習をし、午後はホールで全体練習をした。大会が近づいているのを感じてか、一人一人に緊張感が走った。特に梅子に触発された恵里菜と、恵里菜に触発された幹雄は気迫がこもっていた。

夕方からホテルの庭でシーフードバーベキューを始めた。磯貝に教わりながら皆で器材をセッティングして、火をおこした。

「痛っ」

エビを網に乗せようとしたところ、エビがのけぞって琳太郎の指を切り裂いた。

「こいつ、まだ生きてんじゃん」

そばで見ていた健治が悲鳴を上げた。伊久馬は怖がって逃げ出した。史門は黙って背の高い幹生の陰に隠れた。

「そうよー。だから新鮮で美味しいのよー」

磯貝が笑った。恵里菜はひょいと手を伸ばして、トングでエビを捕まえた。エビは観念して、こんがり焼かれてしまった。

「手当しましょう」

雛形が言って、琳太郎を連れ出した。

雛形と琳太郎はホテルの玄関を開けると、ロビーを抜けて階段にのぼり、廊下を歩いた。

「やったー、禁断の雛形先生の部屋だ」

琳太郎が軽口を叩いた。

「変なことしたらすぐに通報しますよ」

雛形はメガネの奥から睨みつけると、部屋の鍵を開けた。室内は喧騒から逃れて、静まり返っていた。琳太郎には洗面所で手を洗うように伝えると、自分はクローゼットの中から救急箱を持ってきた。二人はベッドに腰掛けた。雛形は琳太郎の怪我した指を手に取り、手当を始めた。

お互いの距離が近くて、雛形の心臓は嫌でも早鐘を打った。琳太郎の指はじんわり温かくて、触ると心地よかった。ときどき、お互いの膝が軽くぶつかり合った。

「そういえば、副校長先生に乱痴気騒ぎは起こすなって注意されました。乱痴気って何なんですかね」

琳太郎がにかっと笑ってみせた。雛形は絆創膏を貼りながら、琳太郎を半眼で見た。

「それ、私に説明させたら楽しいですか」

「ええ」

琳太郎はすでに楽しそうだ。

「はい、終わり」

「ありがとうございます」

「琳太郎先生。子ども達を楽しませてあげようっていう気持ちは分かりますけど、もうちょっと慎重になりましょう。先生だって指揮を振る大事な体ですから。明日の海遊びも、私が担当します」

雛形が心配そうに言った。言いながら、まだドキドキしていた。琳太郎はゆっくり瞬きして雛形を見つめる。長いまつ毛がセクシーだった。

「大丈夫ですよ。体は丈夫な方ですから」

琳太郎の声はいつもより少し低く、少しかすれていた。

「ならいいですけど」

雛形が救急箱の蓋を閉めて立ち上がった。

「ちょっと待って」

琳太郎が雛形の腕を掴んだ。雛形は心臓がひっくり返りそうになった。

「ゴミがついてる」

雛形は琳太郎に促されて、再びベッドに座った。琳太郎は雛形の髪やTシャツについた木の葉を取り除いた。時々、琳太郎の手の温もりが感じられた。雛形はよからぬ想像をした。全身に緊張が走り、気絶しそうだった。

「じゃ、戻りましょう」

琳太郎がさっと立ち上がって部屋の出口に向かった。雛形は琳太郎の明るく爽やかな笑顔を見て、体の力が抜けた。

夕闇のなか、静かな水平線に浮かぶ漁火を眺めながら、皆でバーベキューを楽しんだ。部員達は新鮮な魚介と野菜を焼いたり、焼きそばをつくって食べた。伊久馬は「ピーマン大嫌い」と騒いで怜に無理矢理食べさせられていた。まりあは「ノンアルコールサングリア」と銘打ち、角切りのモモを入れたグラスにグレープジュースを流し込み、カットしたオレンジで飾った。幹生と銀之丞はどちらがたくさん食べられるかを競い、恵里菜は綺麗な石を拾ったと言って、音羽や響に見せていた。

磯貝の好意で花火を用意してもらったので、みんなで花火を楽しんだ。三方を海で囲まれている立地なので、磯貝は特に咎めず、好きなように遊ばせてくれた。テープに止められた花火を一つ一つバラそうと、雛形が悪戦苦闘しながらつけようとしていると、琳太郎が手を貸そうとした。雛形は響の視線を感じて断った。

花火をやり尽くしてしまったので、今度は琳太郎がワイヤレススピーカーを持ってきて、スマートフォンで音楽を流した。フォークダンスの曲として知られる「オクラホマミキサー」だ。直樹を筆頭に、部員達はペアを作ってフォークダンスを踊り出した。曲はマイムマイムや、コロブチカ、タタロチカと続いた。ペアになる踊りのときには女子の数が足りず、男子同士でペアにさせられた健治と直樹は不満を言い合い、周囲を笑わせた。

最後は皆でミド中の校歌を歌うことにした。直樹がどこからかオカリナを取り出して、前奏部分を吹き始めた。


鳥雲山の そびゆる空に

浮かぶ太陽 さんざ煌めき

我らの心 永遠とわに照らす

緑谷中 明日に羽ばたけ


全員で合唱すると、あたりは夜の帳が降り、一面に星が瞬いた。片付けを終え、各自はそれぞれ部屋に戻った。明日は午前だけ練習して、海で遊んだら帰る予定だ。

女子達の部屋は和やかなムードだった。合宿中に仲良くなってきた二年生の音羽と一年生の恵里菜は布団を並べ、何やら楽しそうにおしゃべりしている。結那とまりあは恋バナに夢中になっているらしく、さらに盛り上がっているようだ。梅子は日々の特訓疲れのせいか、泥のように眠りについてしまった。響だけは寝つけなくて、荷物からサマーカーディガンを取り出すと、一人で部屋を抜け出した。

階段を降り、ロビーを通り過ぎようとすると、キャーッと言う悲鳴が聞こえた。声の方を見ると、健治と伊久馬が床に転がっていた。少し離れた物陰から飛び出してきて、白いタオルケットを被っている何者かが伊久馬をくすぐり、奇妙な声を発して笑っていた。伊久馬がタオルケットを引き剥がすと、中から出てきたのは銀之丞と直樹だった。

響は特に構わず玄関から外に出た。海風が吹き上げ、髪をさらってはかき乱す。響は歩を進め、海岸へ向かって歩いた。防砂林を越え、砂浜に出て、近くの流木に腰掛けた。見上げると空に明るい月が出ていた。響は深呼吸しながら、漫然と見上げた。すると、背後からザッザッと砂を踏みしめる音がした。振り返ると、直樹がそこにいた。Tシャツとハーフパンツ姿で、髪は風に煽られてグシャグシャだ。

「何」

響は不愛想に聞いた。

「別に。鶴岡さんが外に出てくのが見えたから、心配で」

直樹は面食らって答えた。響の顔色を窺いつつ、自分も流木に座ってみる。

「白鳥君は肝試しで忙しいんじゃないの」

「いや、そうだったけど、あんなのもういいんだよ」

直樹は恥ずかしくなって腕のあたりをかいた。

「そう。うちは今、失恋しかけてるとこだから、ほっといてもらえる」

「えっ、そうなの」

驚いた直樹の反応に苛立った響は、そっぽを向いてしまった。どうすればいいのか分からなくて、直樹はじっと考え込んだ。波の音が規則的に繰り返していた。

「…よく分かんないけど。きっとさ、そいつは鶴岡さんの良いところ、全然分かってなかったんだろうね」

口から何とか絞り出して出てきた言葉が、これだった。直樹は直樹なりに、響を慰めたかった。響は面倒くさそうに直樹を見た。月明かりを浴びて、頑張って励まそうとしているのが態度で分かった。同時に鬱陶しいと感じた。響が何も言わずにいると、直樹は先を続けた。

「鶴岡さん、頭もいいし、美人だし、部活もすごい頑張ってるし、どんどんクラ上手くなってるし。全然気にすることじゃないよ。そいつ、バカなんだよ。それにさ、鶴岡さんは吹部のためにいろいろ頑張ってくれてるじゃん。大輝や健治の練習見てやってるし、音楽室に書き初め貼ったりしてくれてるし」

直樹はそう言って立ち上がると、近くにあった石を拾った。海に向かって投げつけると、石は宙で弧を描き、ポチャンと小さな音を立てて沈んだ。響も立ち上がって投げた。こうやって二人で水面に向かって石を投げるのは二度目だ。響は口をへの字に曲げたまま、立っている直樹を見上げた。ヒュウッと突風が吹いて、直樹の体を包み込んだ。たまらずくしゃみを三回、連発した。

「あんたさあ、海風がもろに当たるところに来て、なんでそんな格好なの?」

響は呆れて聞いた。直樹は困ったようにヘヘヘと笑ってみせ、再び響の隣に座る。響は手に持っていたカーディガンを直樹の肩にかけてやった。

「いいよ。鶴岡さんが寒いだろ」

「大丈夫だよ。うちはジャージだもん」

「そうだけど」

「いいから、着てなよ」

響にぴしゃりと言われて、直樹は響の顔を真正面から見た。月明かりに照らされて、海風に煽られる髪の合間から、頬を伝う涙が見えた。直樹は急に胸が締めつけられた。いたたまれなくなって、とっさにポケットからハンカチを取り出す。姉の、シロクマの刺繍入りのハンカチだ。響の顔の前に突き出して言う。

「じゃあ、着るから、これと交換してよ」

響は驚いてそれをじっと見た。ゆっくり手を伸ばしてハンカチを受け取ると、顔を覆った。しばらく無言だったが、やがて肩を小さく震わせて泣き出した。直樹は遠慮がちに響の肩を叩いて、一緒に流木に座った。

「もう、無理」

響は声を強めて泣いた。ときどきしゃくりあげた。直樹は何も言えず、ただただ背中をゆっくりさすっていた。

「まあ、あれくらいならいいんじゃないですか」

響と直樹の後ろをこっそりつけてきた琳太郎は、少し離れたところにある廃ボートの裏にしゃがんで様子を覗き見しつつ、隣の雛形に小声で言った。

「分かりませんよ。本当に今時の子って、大人の目を盗んで何やらかすか分からないんだから」

雛形がヒソヒソ声で言った。

「ほっときゃいいですよ。あいつら真面目ちゃんだから、非行になんか走りませんって」

琳太郎は面倒臭そうだ。

「だといいですけど。一応私達は、未成年の子どもたちの命を預かってここに来てますからね。合宿所から男女二人が夜間に抜け出したなんて、保護者にバレたら大変ですよ。それに、鶴岡さんの好きな人って、誰か分かってます?」

雛形は非難を込めて言った。

「そんなん知りませんよ。ガキの恋愛事情なんて」

琳太郎は呆れて片手を振りつつ、言い捨てた。雛形はきっと睨みつけた。

「あの子を見て気づかなかったんですか? それ本気で言ってる?」

「何の話ですか」

琳太郎は何のことか分からないでいる。

「あー。こういう男って本当に嫌。あの子、いっつも琳太郎先生のことかばってましたよね。誰かが貴方のこと攻撃すると必ず盾になって、先生に失礼な態度取らないでーとか」

雛形は熱をこめて言った。

「え…。じゃあ、俺なのか」

「そうですよ。今、知ったんですか」

「あー、ははははは。そんなこと言われてもなー。俺、あいつらの倍の年齢ですよ」

琳太郎は脱力して笑った。その笑いのなかに、「またか」というイケメンにありがちなニュアンスを感じ取った雛形は、いらいらして言う。

「多感な時期なんですから、もっとデリカシー持ってくれないと困ります」

「俺だって困りますよ。俺は雛形先生がいいんだから」

「は?」

雛形はキレ気味に聞いた。琳太郎は面白がって雛形の方を見る。

「俺は雛形先生一筋ですよ。一番可愛くて、一番信頼できる」

琳太郎はしゃがみ込んだまま、両肘を膝の上に乗せ、頬杖をつきながら雛形を見て微笑む。

「そういうの、冗談でも生徒の前では絶対絶対言わないでもらえます? あと、生徒の前では絶対絶対私に触れないでもらえます?」

「あれっ、昨日のこと、まだ怒ってるんですか」

琳太郎はお姫様抱っこしたことを思い出しながら聞いた。

「そうですよ。本当に恥ずかしい」

「だって裸足で熱そうだったし」

「私の足のことはいいんです。私の気持ちの話をしています」

「でも、今は生徒の前じゃないですよね」

「ええ?」

琳太郎はニヤニヤしながら雛形を横目で見た。ニヤニヤしてもいちいち顔が男前なところが気に食わない。

「今、私に触れたら110番に電話しますよ」

「えー。俺のこと好きって言ってたくせに」

琳太郎は唇を尖らせた。

「吹奏楽連合にも通報します。出場取り消しになりますよ」

「それは本当に困る」

「うちのお父さんにも言う」

「あー、そりゃ死刑だ」

「ちょっと待って」

雛形が急に目線をずらした。琳太郎もそれに従う。前方の流木に座っていた直樹と響が立ち上がり、ホテルに向かって歩き出した。雲行きが怪しくなり、風が強くなってきた。打ちつける波の音も強まっている。途中で響が砂に足を取られてよろけたのを、直樹が助けた。

「あの子達、なんか可愛いですね」

我が子の巣立ちを見守る母のように、雛形が目を細めて言った。

「そうですね。直樹、けなげだなー」

琳太郎はやけに厳格な調子で腕を組んで頷いた。

「本当。貴方と違って目が澄んでるし、ピュアだし、まっすぐだし。いいなあ、白鳥君」

「なんか俺が相当汚い大人みたいじゃないですか」

「違うんですか」

雛形が鼻で笑った。

「雛形先生も同じ、こっち側ですよ。汚い大人グループ」

「失礼ですね。私は中学生を泣かせるようなことはしません」

「なんか俺が騙したみたいな感じになってませんか」

「もういいから。私達も戻りましょう」

雛形は話を打ち切り、さっさと歩いて行ってしまった。琳太郎はぶつぶつ文句を言いながら後を追った。



合宿三日目の朝は、カラッと晴れた。吹部達は食堂で朝食をとると、ホールに集まって最後の練習に取り組んだ。目が腫れている響の視線を感じて、琳太郎はいつも通り笑顔を向けたが、勢いよくそっぽを向かれてしまった。

ホールでの練習が三日目になると部員達の演奏は明らかに上達が見られた。以前よりも繊細さが出てきて、メリハリがつくようになった。直樹はピッコロでのソロ演奏に安定感が出てきた。公彦のトランペットのソロもほぼほぼ失敗しなくなった。梅子はユーフォニアムで「ビドロ」を堂々と吹いてみせ、空間いっぱいに響かせた。琳太郎が心配していた高音部も裏返ることなく、綺麗に出るようになった。

昼食をとって帰り支度が済むと、迎えのバスが来るまで各自は思い思いに過ごしていた。

響は海岸を散歩してみることにした。青い空に灰色がかった雲がうっすらと現れ、風が少し強まった。響の髪はあおられ、サラサラとたなびいた。素足で砂浜を踏みしめて歩く。波が足元に押し寄せ、響の足裏から砂を奪っていった。

ここ最近、響はずっと思い悩んでいた。琳太郎はいつも雛形を目で追いかけているように見えるし、雛形もまんざらではなさそうだ。琳太郎が雛形を抱き上げたとき、癪だがとてもお似合いに見えた。大人は大人にしか興味ないのだろうか。所詮、私は子どもにしか見えないのか。響はジャージの上から自分の両胸を掴んでみた。手が余って失望した。

どうしたら振り向いてもらえるのかをずっと考えていたが、昨晩、直樹の前で泣いたことで、少しだけ吹っ切れた。琳太郎と雛形が付き合っていようが、もうどうでもいいではないか。自分には部活がある。仲間がいる。まだ少し胸が苦しいから、少し涙が出てしまうけど。

響はジャージのポケットからハンカチを取り出した。昨晩、直樹が貸してくれた、シロクマのハンカチだ。洗濯したので今日もそれで涙を拭おうとすると、突風が吹いた。ハンカチは風に飛ばされ、少し先の海面に舞い降りた。

波が少し高くなってきている。響は少し慌ててハンカチの元へ急いだ。ほんの数メートル先なのに、歩くと少し深くなっていた。足首ほどだった深さが、ハンカチに近づいたときには太ももほどの深さになっていた。響は少し怖くなって、ハンカチを掴むとすぐに引き返そうとした。

そのときだった。風が唸り声をあげ、大きな波が襲ってきた。波は、恐怖で立ちすくむ響をすっぽり飲み込んだ。

少し離れたところで、怜と公彦が楽器を持ち出して練習をしていた。公彦が「展覧会の絵」の「プロムナード」のソロ部分を吹いてみせた。怜は素直に感心した。

「ペットってかっこいいな。俺にもやらせろよ」

「だよね。やっぱり、海に向かって吹くならペットが最高だよね」

公彦が自信満々に言った。トランペットを受け取ろうとしたとき、怜の視界の端に何か異物が映った。そちらに向き直ると、何か黒いゴマ粒みたいなものが海面上をゆらゆら漂っている。ゴマ粒からは細い手が伸びて、ばたつかせているのが見える。

「…誰か溺れてるぞ」

怜と公彦は楽器を放り出して駆け出した。そばに近づくと、同じ学校のジャージを着ているのが断片的に見えた。誰だろう。分からないけど吹部の人間だ。

「鶴岡!」そう叫んだときには、怜はダッシュしていた。「あいつ、泳げないんだよ」

公彦はあたふたとして何もできずにいた。

「助けを呼んでこい」

怜が振り返って怒鳴った。公彦は回れ右してホテルに駆け戻った。

ホテルのロビーは和気藹々(わきあいあい)としていた。チェックアウトを済ませた琳太郎と雛形が、磯貝を交えて談笑していた。ロビーの隅では健治と直樹が、史門からかっぱらってきたジンベエザメのフロートにまたがり、ふざけ合っている。雛形が早く片付けるように言うと、磯貝が口を挟んだ。

「他にお客様もいません。早番の従業員は帰りました。遅番の従業員はまだ来ませんから、騒いでても構いませんよ」

磯貝がニコニコして言った。今度はサメの投げっこが始まり、持ち主の史門が返してくださいと言ってきた。直樹がサメを手渡すと、突然玄関ドアが開いた。砂だらけの公彦が飛び込んできて、その場で膝をついた。そこにいた人間が何ごとか駆け寄ると、息も切れ切れに、公彦は口を開いた。

「先生…鶴岡さんが…海で溺れてます…!」

磯貝はすぐに立ち上がった。

「雛形先生。従業員用の部屋がその廊下の先にあります。現場に毛布を運んで」

キビキビと言うと磯貝はつかつかと電話に歩み寄り、海上保安庁に救助要請の電話をかけた。公彦にはそばに来るよう手招きし、他の皆へは現場に急行するよう指で合図した。

直樹はぼうっとしている史門からサメを奪い取ると、琳太郎とともに脱兎のごとく外へすっ飛んでいった。

外は雲行きが怪しくなり、ゴロゴロと唸り出した。風は強まり、やがて雨が降り出した。二人は浜辺に辿り着くと、浜から二十メートルほど離れたところで響ともう一人、誰かが見えた。怜だと分かったが、様子がおかしい。

「貸せ!」

琳太郎が叫ぶと直樹がジンベエザメのフロートを渡した。それを掴んで、琳太郎は海へ飛び込んだ。

響と怜は、二メートルほど離れたところで波にあおられ、浮いたり沈んだりしていた。琳太郎はサメを掴んだまま泳いで近づき、先に怜の片腕を捕まえた。まだ意識ははっきりしていて、怜はすぐにサメに掴まった。それから琳太郎はサメから手を離し、響の方へ近づいた。顔に血の気がなく、なすがままにされている。琳太郎は泳ぎながら近くにある岩に左腕をぶつけた。強烈で焼けるような痛みが全身を覆った。高い波が続けざまに押し寄せ、海水が目に染みた。

「鶴岡!」

琳太郎が呼びかけたが響は返事をしない。琳太郎は痛む左腕をかばい、右腕だけで水を掻いて、響に近づいた。何とか手首を掴むことができた。

響の手を手繰り寄せ、サメに捕まらせた。琳太郎が後ろから抑えていないと、響は自力で掴まっていることができなかった。怜も一緒に響を支えつつ、三人でサメにしがみついた。

大波が寄せてきたタイミングで、サメともども浜に接近した。様子を伺っていた直樹はとっさに駆け出し、サメの尻尾を掴んで引っ張った。ギリギリ足がつくくらいの深さだったが、水底の砂を足指で掴み、流されないよう踏ん張った。琳太郎もサメから降りて、一緒に引っ張った。怜は響を支えてサメにしっかり掴まっている。

直樹と琳太郎は声を合わせ、集中して引っ張った。ようやくサメを浜に引きずり出した。

怜は浜の上で右足首を押さえ、痛みに震えていた。前に手術したところだと直樹は察したが、それに対して声をかけてやれるだけの気力がなく、ゼイゼイと肩で息をした。琳太郎は四つん這いになりながら響をサメから下ろすと、浜の上で仰向けにさせた。さらに、口に手をあてた。呼吸をしていない。

「直樹…」

琳太郎はもう息も絶え絶えだ。激しく咳き込んでいる。怪我をした左腕からは血が噴き出し、右手で押さえながら言った。

「お前が、やれ」

直樹は意を決して頷いた。響の顎を持ち上げて気道確保する。口から呼気が出てくる様子はなかった。今度は響の顎を元に戻し、息を大きく吸った。響の唇に自分の唇をあてがい、強く奥深くまで吹き込んだ。すぐに、響の口からは海水が飛び出した。本人は目を瞑ったまま、体をS字に曲げて咳き込んだ。

「生きてる。無事だ!」直樹は泣きながら響の頭を抱きしめた。「鶴岡さん、助かったよ。良かった」

直樹の呼びかけに対して、響は目を開けた。何かを言いたげにして、再び咳き込んだ。琳太郎はぐったりして、砂の上にへたり込んだ。

後から駆けつけた雛形と健治が、毛布を持ってやってきた。毛布で響をぐるぐる巻きにして、体温の低下を防いだ。余った毛布をそれぞれが体に羽織って一息ついた頃、海上保安庁の職員が到着した。いくつか質問をしながら、響を担架で運び、病院へ搬送することになった。琳太郎が付き添うことになり、他は磯貝とホテルへ戻っていった。

つづく

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