ユーフォニアム
「ユーフォ、やるの?」
翌朝、梅子と第二音楽室前で会うや否や、直樹は驚いて言った。梅子は少しはにかみながら頷いた。
「うん。ボーンにしろユーフォにしろ、私がやるしかないんじゃない?」
「梅ちゃんが吹いてんのはたまに見たことあるけど、できるの?」
直樹はまだ驚きを隠せずに聞いた。
「ビドロのソロのとこだけだし、何とかなると思う。ちょっとまだ高音のとこがね、難しいけど」
梅子は自信を含ませながら、笑ってみせた。直樹は感激して梅子の両肩に手を置いた。
「頼むよ、副部長。俺、すごい期待してるよ」
「おっけー」
梅子は少し神経質そうに笑って、楽器倉庫へ向かった。
梅子がトロンボーンとユーフォニアムを持ち替えするというニュースは、すぐさま部員達の間に広がった。同パートの怜は素直に激励し、チューバの幹生も「先輩、頑張ってください」と応援した。公彦は普段なかなか目にすることがないユーフォニアムを見て、嬉しそうに何度も頷いていた。
「僕はボーンよりユーフォの音の方が好きだね。ベルが天井を向いてるのもあるけど、よく響くよね」
公彦が、梅子がロングトーンの練習をしている様子を見ながら言った。隣にいた結那も頷いた。
「綺麗な音ですね。ボーンとも、ホルンともまた違う鳴り方するんですね」
「ああ。それに、梅ちゃん自体がすごいんだよね。ピストンが慣れないだろうけど、よくやってるよ」
公彦が感心して言った。スライドを前後させるトロンボーンと違い、ユーフォニアムはトランペット同様、それぞれ三本のピストンを指で押さえながら演奏する。切り替えるのはなかなか苦労するだろうと公彦は思った。
ユーフォニアムの講師がやってくると、梅子は琳太郎とともに職員用玄関へ出迎えに行った。優しそうな三十代くらいの男性で、ピカピカの金色のユーフォニアムを持っていた。
「怜も、羨ましい?」
直樹が聞くと、怜は首を横に振った。
「いや。俺はトロンボーン一筋だから。梅子の分も俺がトロンボーン支えないといけないしな」
怜はトロンボーンを構え、基礎練習を始めた。
「うはあ。かっこいいね」
直樹は怜にそう言って、自分の練習に戻った。少し焦りが出ていた。自分もフルートをやりながら、ピッコロを持ち替えている。だが、ピッコロはフルートと運指は変わらない。唇の形は変わるし息の入れ方も全然違うとはいえ、楽器の形態がまるで違うトロンボーンとユーフォニアムの持ち替えに比べればきっと大したことはないのだろうと思えた。それに、琳太郎や新しい講師、雛形にまで取り囲まれて練習を叩き込まれている梅子を見ると、羨ましいのと同時に、プレッシャーは壮絶なものだろうと思った。
「さて、直樹、お前は別の練習だ」
琳太郎がいつの間にか第二音楽室に戻ってきて言った。どうやら梅子にはユーフォニアム講師がマンツーマンレッスンを始めたらしい。
「別の練習ですか」
直樹は緊張して、フルートを両手に構えた。
「いや、フルートは置いてけ。何ももたくていいから、こっちこい」
琳太郎に言われると、直樹は楽器を置いてついていった。
琳太郎は鍵束を持って第一音楽室のドアを開けると、照明をつけた。普段ならここは合唱部の練習場所だが、今日は休みらしい。琳太郎は指揮台にスコア譜を置くと、DVDプレイヤーの電源を入れた。DVDを入れて、ビデオ再生する。
「お前はそこ座れ」
直樹は促されて、最前列の席に座った。映像は、地区大会でミド中吹部が演奏しているところだった。
「直樹、お前は部長だ。部長の役割は何だ」
琳太郎が映像を見ながら言った。直樹は琳太郎を一旦見てから、映像に目線を戻した。
「えっと、みんなをまとめること。です」
「だな。お前には指揮の練習もしてもらう」
「え? 俺が指揮やるんですか?」
直樹は素っ頓狂な声を出して立ち上がった。琳太郎はびっくりして、一瞬の間が空いたのち、声をあげて笑った。
「まさか、コンクール本番は俺がやるよ。そうじゃなくて。お前には振れるようになっておいてほしいんだ」
「ええ? はあ、そうなんですか」
「指揮を振ると、全体が見える。お前には全体を見られるようになってほしい。そして気づいてほしい。どこが良くて、どこが良くないのか。みんなをまとめるためにな。完璧は目指さなくていい。俺も指揮科を専攻したわけじゃないから」
琳太郎はそう言って、映像の中の自分と同じように指揮を振り始めた。琳太郎の指揮はいつも姿勢がよくて品があって、かっこいいなと直樹は思っていた。本人の見た目がかっこいいのはもちろん、皆の力を引き出し、導いてくれるような振り方をしていると、直樹は何となく感じていた。自分にそれができるだろうか。いや、それでもやらなくちゃならないんだ。梅ちゃんが頑張ってるんだから俺だって頑張らなくちゃいけないんだ。直樹は自分を奮い立たせた。
「はい。頑張ります」
直樹は勇気を振り絞って返事した。琳太郎は優しく頷いて、指導を始めた。
「梅ちゃん、大丈夫かな」
部活が終わって楽器の片付けをしているとき、直樹は響に話しかけた。響も同じように感じていたらしく、真剣な表情をしている。
「大会まで時間ないのに、そんな付け焼き刃でいけるのかな。先生もちょっと突然すぎない? 梅ちゃんの負担も考えて欲しいよ」
響は少し早口で、勢いよく言った。
「そうだよね。あれ、すごい負担だよね」
直樹は響の様子に気圧されて、さらに不安になってきた。
「ビドロは、トロンボーンのままでよくない? 吹き方をちょっと変えてみるとか、そういうのでいいと、うちは思うんだけど」
「うーん。琳太郎先生は講評見て、楽器変更しないと厳しそうって思ったみたい。梅ちゃんの演奏は悪くないって言ったんだって」
「そうなんだ…」
響はしゅんとした。
「それと、梅ちゃんてときどきユーフォ出して吹いてたし、そういうのもあって全然できない訳じゃないから、先生達も期待するんだと思う」
直樹は、かつて五人しかいなかった吹部時代を思い出しながら話した。
「そうなんだー。すごいね、どっちも吹けるなんて。うちなら無理」
「そう? バスクラはやってみたくないの?」
直樹が大輝の方を指差しながら言った。大輝はすっかりバスクラの魅力に取りつかれ、丁寧に楽器の手入れをしていた。
「興味はあるよ? E♭クラとかもいいなって思う。でも今のタイミングでやれって言われて、しかもそれがソロだって言われたら泣く」
「ああー…それはそうかも」
直樹は頷いた。
「梅ちゃんすごいよ。泣かないで頑張ってるじゃん。うち、本当に尊敬する」
「うん。俺も尊敬する」
二人は頷き合いながら、ドア越しに聞こえてくるユーフォニアムの音を聞いた。柔らかく、艶やかな音色が満ちていた。
梅子をのぞき、一番最後に楽器倉庫へ楽器をしまいに行ったのは恵里菜だった。楽器倉庫のドアを閉めて帰ろうとしたところ、第二音楽室の方から声が漏れ出てきた。
「大丈夫だよ。泣かないで」
ユーフォニアム講師の栗原の声だ。恵里菜は気になって、音楽室のドアの前まできてしゃがむと、聞き耳を立てた。ドアは少し開いていて、しゃくり上げる声が切れ切れに聞こえる。
「目白さんは、真面目なんだね。できなくて当たり前だよ。トロンボーンだったんだから」
「でも…。でも、わ、私が、で、できなきゃ。みんなに、め、迷惑、かけるから…」
梅子の涙まじりの声だ。ティッシュで鼻をかむ音も聞こえた。
「迷惑なんてない。誰もそんなこと思わない。まったく、琳太郎も横暴だよなー。ひどいよね? 俺、ちゃんと怒っとくから。ね? こんなタイトなスケジュールで吹けるようにしろとかさ、ゲンコツしとくから、あいつのこと許してやって」
栗原は笑った。合いの手のように、鼻をかむ音が再び聞こえる。かみながら笑っているのが、廊下まで聞こえてきた。
「大丈夫。本番では絶対楽しく吹ける。上手く吹かなきゃって思い込むの、やめよう。ユーフォって、そんな窮屈な思いして吹く楽器じゃないよ。もっと心軽やかに、穏やかに吹くもんなんだ。楽器の中で一番いい音してるのはユーフォだから。って俺はいつも思ってる」
「はい…」
微かな声で梅子が返事した。恵里菜はドアの隙間から、なんとかして中の様子を見ようとした。栗原が箱ティッシュを持って、梅子がそこからどんどんティッシュをとり、自分の鼻や目元にあてているのが見えた。
「先生。わ、私、副部長なんです。で、でも、部長みたいに、みんなを引っ張れない、し…。みんなのために、なれるのって、ユーフォでソロ成功させることしか、わ、わかんなくて…」
「そうなんだー。大変だねえ。頑張ってるじゃん。まだ二年生なのに。副部ってさ、目立たないけど雑用多いし、面倒なこと多いのに、あんまり感謝されないんだよね。俺も高校の時、副部だったから分かるよ。偉い」
栗原が梅子の背中をポンポン叩いた。梅子はますます泣き出した。恵里菜は唇を噛んで見守る。
「じゃあさ、俺がこれから色々吹いてくから、聴いてて」
そう言って、栗原は優しく笑って、楽器を構えた。最初は嵐のようなテンポの速い曲だった。何かのクラシック曲だろうと恵里菜は思った。激しくて怒っているような、何かと戦っているような曲だった。次はもう少しトーンが落ち着いて、悲しみに暮れているような、そんな曲だった。それから徐々に穏やかで、晴々しい気持ちになるような曲になった。梅子は次第に落ち着いて、笑顔が戻ってきた。栗原は演奏をやめて、楽器を置いた。
「よし。もう大丈夫だね。練習に戻ろうか」
「はい」
梅子は楽器を構えた。
恵里菜は立ち上がって、すたすたと歩いた。徐々に早歩きになり、最後は駆け出した。
翌朝、直樹が第二音楽室へ来ると、恵里菜と史門が練習を始めていた。朝イチで二人がいるのは初めてのことなので、直樹は意外だった。
「おはよう」
「おはようございます」
直樹が挨拶すると、二人は挨拶し返した。それからメトロノームを使って、すぐに練習に戻る。
「五分に一度は休みたい」
史門が弱音を吐いた。
「もう一回やるよ」
恵里菜は取り合わない。史門は歯向かうことをせず、二人で吹き始めた。課題曲「春の日を浴びて」の冒頭から合わせていて、ホルンパートにありがちな裏打ちリズムをひたすら刻んでいる。途中まで吹くと、二人は楽器を膝の上に置いた。
「四小節めと八小節め。ここ、いつも微妙にズレてる。もう一回」
恵里菜が史門の楽譜を指さして言った。
「ピッチは合ってるよ」
史門が言い返した。
「ピッチだけじゃん。リズムが崩れてるの。はい、いち、に、さん、」
恵里菜がそう言って、再び同じセクションを吹き始める。直樹は楽器倉庫へ行くため、一旦音楽室を出た。
直樹がフルートとピッコロを持って戻ってくると、ホルンの二人はやや口論になっていた。
恵里菜が厳しい声でたしなめると、史門が言い訳する。史門が不貞腐れると、恵里菜が励ます。そこへ、幹生がやってきた。普段の大人しい恵里菜には見られない気迫を感じ取った幹生は、何ごとか直樹に聞いた。
「さあ。俺にも分かんないけど鵜森さん、燃えてるよね」
直樹もホルン二人組に目が釘付けだ。二人はまだ口論を続ける。
「ねえ、そのままだとまずいよ。ホルン、二人しかいないんだから、一人が二人分の仕事はしないと」
「だって、それはホルンに限った話じゃないでしょ。それに、鵜森さんみたいに出来ないよ、僕」
「できる」
恵里菜は譲らなかった。
「ちょっと休憩しようよ」
「もう一回やる」
「そう言ってるけど毎回、一回で済まないじゃん」
「もう一回」
恵里菜は毅然として言った。直樹も幹生も驚いて恵里菜の顔を見つめる。
恵里菜は内心、焦っていた。他校の演奏を地区大会で聴いたときには、その鳴りっぷりに心を動かされた。ホルンはあそこまで豊かにバンドを支える楽器なのかと感動した。自分達ももっと頼もしいホルンパートでいたい。そのためには自分一人だけではだめだ。この、すぐにいじける史門と一緒に成長しなければならない。
それに、昨日見た梅子の涙が衝撃的だった。副部長があんなふうに思い詰めていたのは知らなかった。恵里菜は胸の内から、情熱が湧いてくるのを感じた。
「分かったよ」
史門が泣きそうな顔で言うと、二人は再び裏打ち練習を始めた。
つづく